論理の持つ非人情

内田樹さんが「2006年04月25日 非人情三人男」というエントリーを書いている。ここで語られている「非人情」とは夏目漱石の造語であるらしい。ヤフーの辞書によればその意味は、

「1 他人に対する思いやりに欠けること。冷淡で人情がないこと。また、そのさま。「―な(の)人」

 2 義理人情の世界から超越して、それにわずらわされないこと。また、そのさま。夏目漱石が「草枕」で説いた境地。」

となっていた。1の意味は、複合語としての「非人情」であり、まさに辞書的な意味での「人情」の否定の意味となっている。しかし、夏目漱石が語った「非人情」は、この言葉が一つの概念を表す「単語」となっていて、複合語としての意味を失っている。それ故に内田さんは「造語」と語っているのだろう。

この二つの意味は微妙に食い違っているにもかかわらず、共通する部分があるので同じ形の記号「非人情」という言葉で表現される。内容であるシニフィエは違うが、記号であるシニフィアンは同じという対立物を背負っているという感じだろうか。弁証法的な対象として捉えられる。

内容的な違いは、漱石のいう「非人情」は、人情を「超越」しているというところに本質があり、複合語としての「非人情」は、人情を「否定」するというところに本質があるということだろうか。これらは現象的にはよく似た状況を生み出すのだが、それがもたらす結果の違いによって区別が可能になるものと思われる。

内田さんは、漱石が、俗情を離れて対象を情緒的に見ないように「距離感」を取ることを、「非人情」のあらわれとしてみているようだ。次のような「草枕」の引用にその考えが現れているように感じる。

「余もこれから逢う人物を−百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも−悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して取りなしてみよう。尤も画中の人物と違って、彼らはおのがじし勝手な真似をするだろう。然し普通の小説家の様にその勝手な真似の根本を探ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。動いても構わない。画中の人物が動くと見れば差し支えない。」

対象に対して心理作用に立ち入るのではなく、あくまでもそこに存在する物質的存在として見ることが「非人情」に通じるものだと語っているようだ。これは、三浦さんが語るマルクス的な唯物論に通じるものがある。この発想は科学の見方にも通じるし、究極的には、論理というものがこのような見方をしているのだと僕は思う。「非人情」のもっとも純粋な形が「論理」というものに現れてくるような気がする。

クロード・レヴィ=ストロースは人類学の論文を書く前に必ずマルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』を繙読することを習慣としていた」という話では、この文章が、マルクスの中では最も「非人情」なものだと指摘していた。これは、隣国フランスの階級闘争を語ったもので、マルクスにとっては他人事のものである。当事者としての人情に揺り動かされることはない。

ドーバー海峡の向こう岸で殺し合いをしているフランス人たちを「画中の人物と見れば差し支えない」と非人情に徹したときに、マルクスの政治的理説は完成を見たのである。」

と内田さんは語っているが、これは逆に言えば、「非人情」に徹しないと論理的な展開が不徹底に終わるということも物語っている。情緒に流されるような論理は、距離感が取れないものであり、論理として欠陥を持っている。普遍性に欠ける面を持つ恐れがある。三浦さんがよく指摘する、「特殊性を普遍性と取り違える誤謬」をおかす恐れがあるのだ。

「「非人情」とは畢竟「距離感」のことである」という内田さんの指摘は、僕には実感として正しいものと受け止められる。論理というものは、現実からの抽象によって得られるので、現実にどんな距離を持っている存在からよりも、さらに遠いものとしての「距離感」を持っている。それは、現実においては到達出来ない「普遍性」という彼方にまで到達しようとする「距離感」だ。

この距離感は、当事者感覚を否定し、同情したり感情移入したりすることを拒否する。これは外から見ると人情がないという「非人情」に見えてしまうだろう。しかし、論理的な正しさを持つためには、非人情に徹するということがどうしても必要だ。一度は、対象を突き放して冷たく扱わなければならない。それが人情を「超越」することだ。

漱石マルクスレヴィ・ストロースも、みんな論理に徹した人だったのではないかと思う。三浦さんによれば、漱石は文学を科学的に扱いたい、つまり論理的に扱いたいという願いを持っていた人だったと指摘されていた。この人たちがすべて論理に徹底していた人たちだったら、その特徴として「非人情」であっても当然だという感じがする。

僕は中学生くらいの時、日常生活で心を騒がせるような出来事があると、それを静めるために数学を勉強したものだ。数学は、徹底した論理の学問なので、心が騒ぐような「人情」に流される情緒的な状態ではうまく勉強出来ない。「非人情」に徹しないとダメなのだが、そのおかげで、騒いでいた心がいつの間にか落ち着いて「非人情」になるということがあった。

マルクスは数学がとても好きだったという話もあるそうだから、同じような感覚もあるのだろうかと感じる。また、「「非人情」に徹するためには、「非人情本」を読むにこしたことはない」という感覚も同じようなものだろう。「非人情本」の最たるものが数学の本であるような感じがする。

「非人情」は、論理にとって非常に大切なものであるが、これは複合語としての「非人情」(内田さんは「不人情」という言葉も使っているようだが)に転化する可能性が高い。それを物語る面白いエピソードが、内田さんのエントリーで語られているラカンのものだろう。

ラカンも徹底した論理の人だったのだろうが、それが論理の枠を超えて、日常生活においても「非人情」が浸透してしまったのではないかと感じる。僕にも、論理的な「非人情」が日常生活感覚に浸透してしまった面があるのを自覚することがある。

教員は、本質的に真面目な人が多いので、どんな仕事であろうとも仕事であれば一生懸命こなすという人が多い。だが僕は、板倉さんが語る「くだらんことは努力せず」という論理が正しいと思っているので、これを徹底させてしまう。

くだらない仕事というのは、それが生まれた当初は、それの重要性がはっきりしていてしかもそれが分かる人が行っていたので、くだらない仕事ではなかったと思う。しかし、時間がたてば、その必要性が失われ、もはや惰性で残っているような場合がある。そのようなときにも、仕事だからということで一生懸命やってしまうと、いつまでもその仕事が無くならない。仕事の整理がつかなくなって、論理的には非常に効率が悪くなるわけだ。

そんなときは、僕はくだらない仕事は、本当な無くても全然支障がないということを示すために、ほとんどやらなくて済むように手を抜く。これは確信犯的にそうするので、真面目な人から見ると、かなり「不人情」なことをしているように映るだろう。なんていい加減なやつだと思われることもある。

しかし必要でない仕事はなくすことが正しいという論理からすれば、論理を徹底すればそういう態度になる。以前にマル激で役所仕事の整理について語られていたことがあったが、役所仕事というのは、単に予算を獲得するだけのくだらない仕事がたくさんある。そういうものを整理するには、「非人情」が必要だと思うが、なかなか整理出来ないようだ。役所に「非人情」を持ち込むのは難しいのだろう。

マル激で語られていたのは、「青少年育成」という名目で、ポニー(子馬)に乗せるという事業だった。この仕事に対して、「青少年育成」という名目は大事だから、無くしてはイケナイという発想が役所のものだった。そこには、「青少年育成」としてポニーに乗せることがふさわしいかという発想はなく、とにかく名目が大事だからその仕事は残さなくてはならない、という大事だという「人情」が重く考えられ、真面目にそれをこなす「人情」が尊ばれていた。

「青少年育成」ということは大事ではあるけれども、その実現は難しいので、実効性の薄い事業は切り捨てるという「不人情」は、人情家には難しいかも知れない。これが出来るのは論理に徹底した「不人情」の人だけだろう。論理に徹底した人は、論理的帰結が、たとえ感情に反するようなものであっても、感情を殺して論理を貫く方を選ぶ。論理にはそれだけの信頼性があると思っているのだ。

ラカンのエピソードは、他人事としてみていると面白いものだと思うが、当事者として近くにいる人間は、少しでも人情がある人にはたまらないだろうなという感じもする。しかし、そんなラカンでも、激しく感情を揺り動かされて涙を流すことがあるというのは、人間が「人情」をすべて捨て去ることが出来るものではないということでもあり、何かホッとさせるところがあるものだ。

そして、ラカン自身は、たぶんこのような日常生活の「非人情」をあまり自覚していなかったのではないかと思う。これは、ラカンの「構造的無知」ではないだろうか。ラカンの「不人情」は、周りの人間から見れば、明らかな欠点だと思う。しかし、他人事としてみれば面白い。この欠点が、ラカンに他人として接している人からは、かえって愛すべきものとして映ることもあるだろう。現実は不条理であり、やはり弁証法的だなと思う。