死刑廃止論を考える 4

「死刑廃止 info! アムネスティ・インターナショナル・日本死刑廃止ネットワークセンター」というページに載せられている、「死刑制度の廃止を求める著名人メッセージ」の中の中山千夏さんの死刑廃止論を考えてみようと思う。中山さんは、

「死刑制度で、自分自身いちばん引っかかっていることを言うなら、結局「人は人を殺してはいけない」という単純なところに戻ってきます。」

と語っている。このことを考えると、中山さんは、「人は人を殺してはいけない」と言うことを原則として考えているのだなと言うことが分かる。このことは、果たして原則として通用することだろうか。どんな現象が起こっても、その現象の解釈に、この原則を持ち続けて解釈することが出来るだろうか。中山さんの死刑廃止論が、傾聴に値するものになるかは、これが原則として通用するくらい確かなものであるかにかかっているように思う。

この原則が揺らぐのは、感情を揺さぶられるようなひどい凶悪犯罪を知ったときだ。このとき、

「死刑制度に賛成の人は、あたかも死刑にすることによって犯罪が減ったり、凶悪な犯罪がなくなったりと単純に思うわけです。死刑に賛成という人でも、絶対にこの制度が正しいと思っている人はほんの少しです。そんなにほめられた制度ではなく、できればやめてもいいけれど、こんなにひどい犯罪があるうちは仕方ないじゃないかという感じの人が多いのです。

それを乗り越えて死刑の実態を知って、死刑という刑罰があまり役に立たないとわかっても、最後に残るのが「気持ちがおさまらない」ということです。」

と言うような感情が生まれるのではないかと中山さんは考えている。この感情が生まれても、「人は人を殺してはいけない」という原則を堅持することが出来るだろうか。ひどい犯罪を犯した犯人に対して、許せないという感情が生まれたとき、死刑という刑罰がなかったらその気持ちの収まりがつかない人は多いのではないだろうか。そのようにひどい犯人が、死刑にならないということは、犯人が守られているような気がしてしまう。それではひどい殺され方をした被害者は、浮かばれないと感情的に思うのではないだろうか。

この感情を、犯人と言えども人の命は重いのだ、というようなもう一方の感情で説得することは難しいと思える。そのようなことを言われると、被害者の命がますます軽視されているような感情さえ生まれてきそうな気がする。そもそも「人は人を殺してはいけない」はずなのに、なぜ被害者が殺されたのか、という矛盾が残るだろう。

「人は人を殺してはいけない」ということを誰にでも当てはまる感情として受け入れることはかなり難しいのではないかと思われる。凶悪犯は例外になってしまうのではないかと思う。中山さんは、子供のころからこのような感覚を持っていたようだが、マジョリティの大衆は、このような感情を持つ資質には恵まれていないように感じる。

感情の問題としては、中山さんは、

「いろいろと賛成の原因を取り除いていって、最後まで残る強固な死刑支持理由というのは、「あんな悪いやつがいては放っておけない」ということ。むしろ法律家や死刑のことを勉強した人のほうが、「犯罪抑止」ということを言います。ごく一般の人々が死刑を捨てられないのは、「感情」ですね。これは感情だから、いくら理屈を言ってもだめですね。」

とも語っている。感情は論理では乗り越えられないと言うことだ。これは、僕の感覚で言えば、感情を捨て去ったときにしか論理的に正しい判断が出来ないという感じになるのだが、感情を捨て去るきっかけが論理には生み出せないと言う意味で、感情は論理では乗り越えられないと言うことを承認せざるを得ないと思う。

感情を捨て去ることが出来た人は、そこにある論理を理解出来る。しかし、感情を捨てることが出来ない人は、論理的な理解をすることが出来ない。それでは、感情を捨てるきっかけはどうしたら持てるようになるだろうか。このことについて中山さんは直接な記述はしていない。しかし、ヒントになるようなことはいくつかここにも書かれている。

それは、被害者ではない、もう一方の当事者である加害者の側のさまざまな事実を知ることによってきっかけが得られるのではないかと感じられる。中山さんは、

「それに実際に死刑を執行する刑務官は、日ごろ世話をしているわけだから死刑囚も人間だということをよく知っています。もちろん悪いことをしてきたということも知っているけれど、三度の食事もし、ときには改悛の情を見せたりしているのも知っている。そのことを知ったうえで殺すわけですから、刑務官たちは当然すっきりしません。

裁判官だって、殺せという命令を出すわけですから忸怩たるものがあります。」

と語り、加害者と直接関わる立場の人の気持ちを考えている。被害者の立場しか知らず、加害者が極悪人であるというイメージしかなければ、感情的には犯人を重罰にせよという感情が生まれてくるだろう。加害者のことをもっとよく知ることによって、被害者感情との同化だけに流れるのを防ぐことが出来そうだ。これが、一方的な感情を捨て去るきっかけになりそうな気もする。

しかし、マスコミ報道などを見ると、一方的な被害者感情をあおって、本来なら第三者であるはずの大衆を、意識の上では被害者に感情移入をさせて同化させてしまう結果になっている。しかし、論理的な判断をするためには、それに水をかけるような反対の側からの情報が必要なのだと思う。

そういう僕の主張に対して、何か釈然としないものを感じる人もいるかも知れない。ひどいことをした人間を、ひどいと感じて何が悪いかというような気持ちだ。そう思われるのは自業自得ではないか、という感情だ。しかし、死刑というのは、あくまでも制度として一般論として語らなければ、その本質が見えてこない。感情の中にとどまりたいという願いがあっても、それを捨て去ることをしなければ、「非人情」の中で本当の第三者にならなければ、論理的な理解は出来ない。

中山さんは、「死刑とは第三者が満足する制度」と言うことを主張している。これは、論理的に受け止めれば、まったく当たり前の論理展開をしているもので、当然の帰結であると僕は感じる。しかし、感情的には被害者に同情して、被害者の立場でものを考えていると思っている人に、それは結局は自己満足のために死刑を願っているのだろう、と批判しているように感じるだろう。

「もし自分が被害者の身内だったら、やはり犯人を死刑にしたいじゃないか」と考える人に対して、中山さんは、

「殺してしまってすっきりすると思うのは、実は私たちが第三者だからなのです。当事者だったら、いくら犯人を殺したって気持ちはおさまらないですよ。「殺したって殺し足りない」というのが本当の被害者感情です。」

と語っている。これは、中山さんも、被害当事者になったことはないと思われるので、一つの想像として語っているのだと思うが、どちらの想像の方が本当に近いだろうか。被害者の身内が直接語る言葉としては、マスコミなどでは、「死刑にして欲しい」と言うことが多く報道されるので、そのような感情の方が実際には多いのだろうか。

中山さんが想像するような気持ちは、実際には想像しているだけで、本当は違うのだろうか。しかし、僕は、中山さんが語る「殺したって殺し足りない」という感情の方が本当のような気がする。実際には、すっきりしてはいないのだが、今の刑罰ではもっとも重いものが死刑だから、それが出されることによって、いくらかは気持ちが収まるかもしれないと受け止めた方が本当ではないのだろうか。それは、ぜひ死刑を望むと言うことではなく、死刑という重罰が下されることで何とか気持ちの整理をつけようとしていると言うことではないのだろうか。

だから、実際に死刑が執行されたあとに、被害者の身内がどんな気持ちを抱くかと言うことが知らされれば、中山さんが語る想像が当たっているかどうかが分かるのではないだろうか。死刑が執行される前の、まだ生々しく被害感情が残っているときの報道で「死刑を望む」と語っていても、それで「もし自分が被害者の身内だったら、やはり犯人を死刑にしたいじゃないか」ということが正しくなるのかどうか、もっとよく考えたいものだと思う。

死刑が行われた後に、被害者の身内がそれについて語るというのはつらいことに違いない。しかし、第三者が想像している「もし自分が被害者の身内だったら、やはり犯人を死刑にしたいじゃないか」ということが正しいかどうかと言うことを知らせてもらうのは、社会にとって非常に有益なことになると思う。勇気を持ってそのことを教えてくれる被害者の身内が出てきてくれないかなと思う。すでに、そのような人がいるとしたら、そのことをもっと多くの人に知ってもらいたいと思う。本当のところはどうなのだろうか。

中山さんは、

「事件とも関わりがない、裁判とも関わりがない、執行とも関わりがない、といういちばん遠い第三者だけがすっきりする。死刑制度とはそういうものです。歴史的に考えても、第三者がすっきりするために、見せしめ的に行われてきたものだと思います。」

とも語っている。このことが正しいかどうかは、歴史を検証すればだいたい分かる。これは、制度というものが、感情によるものではなく、人間の意識とは独立に存在する客観的なものだから、「いちばん遠い第三者だけがすっきりする」と言えるかどうかがはっきりするのではないかと思う。中山さんは『ヒットラーでも死刑にしないの?』という著書で、同じようなことをもっと詳しく語っているので、参考にして考察してみたいと思う。

感情を捨てることが出来れば、中山さんが語ることは、極めて論理的にすっきりと理解出来るものになっている。「人は人を殺してはいけない」という原則も、論理的に納得出来る範囲で通用する原則だという感じがする。

中山さんは、「私は国家が力を持てば持つほど怖いと思っています」と語っているが、この国家権力の怖さを感じる視点を持てば、死刑という制度によって「人は人を殺してはいけない」ということを原則に出来るのではないかと僕は感じる。それは、国家権力の怖さを温存することになるのだと思う。