適材適所という働き方と組織

教員の世界というのは、僕から見ると変だと思われる平等主義がある。仕事の量を平均化しようという平等主義だ。これを僕が奇妙だと思うのは、質が違う仕事にも、何とかそれを平等になるように工夫して、かえって効率を落として苦労しているように見えることだ。平等であることが最も重要なことになってしまうと、本来は仕事をすることが第一であるはずなのに、仕事としては質・量共に落ちてしまうという本末転倒が起こるような気がする。

教員は、突出していることを嫌う。これは、特別にひどい仕事をなくすという点ではそれほど悪くはないのだが、逆に突出していい仕事をしていても非難の目を向けられることがある。

ある小学校で毎日学級通信を出していた人が、他のクラスではそれほどの量を出せないので、他のクラスに合わせて出す量を減らして欲しいなどと言われるときがある。僕などは、出せる人はどんどん出して、出せない人が出さなくてもそれほど気にすることではないと思うのだが、出せない人は、何かそのことで非難されているように感じるらしい。横並びに、みんなが同じならその非難を浴びなくても済むと言うことで、突出した人間は嫌われるようだ。

同じように、いろいろな仕事も平等に分け合った方がいいと言うことで、得意なことを一手に引き受けたり、苦手なことを避けたりしないように、まんべんなく行うことが期待される。パソコンが扱えたり、エクセルが他の人よりもよく使えると言うことがあっても、その人にその仕事が集中するのではなく、誰もが少しずつ負担を分け合う方がいいと考えることが正論だと思われている。

その理由としては、第一人者である専門家が異動してしまうと、そのあとを引き継ぐ人間がたいへんになるので、少しずつ分け合っていた方が、変化に応じた仕事が出来るというものだ。しかし、この理由はどこか論理的におかしいように僕は感じる。仕事の質ということを考えると、いまだったら質の高い仕事が出来るのに、わざわざ質を落としていくような気がしてならない。将来的に質が落ちるとしても、なぜ今から質を落とさなければならないのだろうかという素朴な疑問が僕にはある。

僕は、組織というものは適材適所が実現されているときに、組織としてもっとも理想的な活動が行われ、効率的な仕事が行われていると感じる。その適所に配された適材が、仕事の量としては他人の何倍も仕事をしていようと、それが適所である限りでは僕は何ら不都合はないと思うのだ。

適所に配置された適材は、内田樹さんが「2006年04月26日 ナショナリズムと集団性」というエントリーで語るように、「その才能を「みんなのために使う」ことのたいせつさ」を実現しているのだと思う。これほど素晴らしいことはないと思う。

適所に配置された適材にとって、他人から見たらたいへんな量に見える仕事も、それほど大したことはないのだ。もちろん、適材でない人間が同じような仕事をしようとしたら、それはたいへんに違いない。とても出来ないと思うだろう。しかし、その適所に配置された適材にとっては、その仕事をこなすことは少しも苦労することではない。人の何倍も量をこなしたとしても楽な仕事なのだ。

その組織で、誰もが適所に配置された適材であるなら、仕事の量を比べるなどと言うことはしなくて済むだろう。それはまったく質が違う仕事なのであるから、量を比べても仕方がない。むしろ、そのできばえが満足行くものであるかを比べた方がいいだろう。適所に配置された適材は、その仕事の質を高め、その結果によって喜びを得るのでますます仕事の質は上がる。

しかし、組織において、適材でない人が配置されていると、その人はそこにおいて仕事に滞りが出てくる。適材である人が仕事をやりすぎると、自分の仕事が非難されているように感じる嫉妬心を持つかも知れない。このことを解決するには、本質的には、適材でなかった人の配置を換えればいいのだが、配置そのものに地位というステータスがある場合にはそれが難しい。

そのようなとき、仕事をやりすぎる人が少数派であったりすると、多数派が仕事の量を減らして、その適材の行う仕事の質を落とす方向への努力をするのではないかと思う。そうすると、組織としてはそのシステムの悪循環が動き始めて、仕事の質はどんどん落ちてくる。その典型は役所仕事と呼ばれるものではないかと思われる。

役所では、定期的に配置を転換して、そこに専門家をつくらないようにする。福祉課などで、専門的に優れている人間が配置されると、福祉制度を正しく運用するために、社会的な福祉の援助が本当に必要な人にだけ福祉を実現するようにするだろう。そうすると、ある場合は、福祉の援助を必要とする人が、客観的に膨大な数に上るようになるかも知れない。そうなると、予算を抑えたい権力の側は、このような専門家がいていい仕事をしすぎると困ることになる。むしろ、適材でない人間の低いレベルに合わせた仕事をさせた方がいいと思うだろう。

また、すでに故人となったが『お役所の掟』を書いた宮本政於さんは、厚生省という役所が、国民にとっての保健行政というパブリックな面よりも、厚生省の省益という利権の方を重く見ていたことを鋭く指摘していた。このような組織では、専門的に優れている人は、省益をかえって減らす方向に働いてしまうので、その才能を生かす方向へ行かないようにされてしまう。適材適所は望むべくもない方へ行く。

しかし、皮肉なことに、適材適所が実現されない組織は、やがて先細りになりその利己的な私益も先細りになってくる。社会全体のパイを減らす方向へと働いてしまうからだ。行政の構造改革が叫ばれて久しいが、それがまったく成果を生まないのは、役所仕事が適材適所になっていないからだろうと僕は思う。

才能に恵まれた人間はたくさんいる。しかしその人間が、スタンドアローンで、孤立して存在していたのではその才能は十分発揮されない。誰が適材適所を判断して、組織の力を伸ばしていくのか。普通はその仕事をするのが管理職ということになる。管理職というのは、誰が適材で、どこが適所かというのを正しく判断出来なければならない。しかし、日本の組織における管理職というのは、そのような能力で選ばれてはいないのではないかと思う。

適材適所を判断するのは確かに難しい。それは、実践してみなければ分からない面があるからだ。結果から判断しなければならないところがある。だから、適材適所の判断には、それが間違えるという可能性を常に含ませておかなければならない。そして、間違えたときの修正の方向も事前に用意しておかなければならないだろう。

システムとしてもっとも望ましいのは、希望するものがその仕事にトライするチャンスを与え、失敗したなら、他の適所を探すための転向を支援するというものだろうと思う。そして、そこにおける成功と失敗を適切に判断出来る評価する管理職が必要だ。このようなシステムを構築しなければ適材適所は実現出来ない。今のところ、適材適所が実現出来ていい仕事をしている組織は、偶然そのようになっている幸運な組織と言えるだろう。

今は、仕事を選ぶ基準として、適材適所よりも賃金が高いとか別の面で考えられているような所がある。これは、本人にとっても組織にとっても不幸だろうと思う。適所にはまった適材は、人の数倍も仕事が出来るのに、適所ではないところで働く人は、仕事が出来ない無能な人間として処遇されてしまう。

仕事の種類によって賃金の格差がある場合、低い賃金の仕事に適材が集まる可能性は低くなる。また、高い賃金だから才能がある適材が集まるかと言えば、それも難しい。今の職業の適性判断は、実際に仕事をしてから判断するのではなく、学歴や試験の点数で判断されるからだ。いくら知識がたくさんあっても、実践的な能力に欠ける人間はたくさんいる。

このような問題を解決するには、適所に配置された適材は、人の何倍も仕事が出来るのだから、仕事の種類で賃金格差をつくるのではなく、仕事の質で賃金が増えるような仕組みも必要ではないかと思う。本多勝一さんによれば、アメリカのジャーナリズムの世界では、大記者になれば、報道機関の社長よりも遙かに高い報酬を得ている人間もいたという。仕事の質が報酬に反映していたのだ。そこでは、本当に優れた専門家が出てくる。

将来の理想としては、すべての人間が適材として適所に配置されることだろう。そうすれば、仕事の質はどれも高いものになり、論理的には賃金の格差を付ける必要が無くなる。これが、内田さんが「2006年04月28日 フェミニンな共産主義社会」というエントリーで語っている「ひとりひとりがその能力に応じて働き、その必要に応じて取る」ということになるのではないだろうか。

個人が適所に配置されれば、それは組織の利益にも個人の利益にもなるはずなのに、なぜ実現されないのだろうか。僕は、自分が適所に配置されなかったときは、その無能ぶりをワザとさらけ出すように努力しているが、普通の人は、適所でない場所でも努力して仕事をしてしまうのだろうか。そのような真面目な振る舞いが、「地獄への道は善意によって敷き詰められている」と言うことになるのではないかと僕は思う。

いま教育基本法が「改正(本当は改悪?)」されようとしている。愛国心教育を明記しようとしている。その愛国心教育に対しては、うまくできない教員の方が圧倒的に多いだろうと僕は思う。ほとんどは、そのような仕事に対しては適材ではないのだ。

このとき、適材でない教員は、全部取りかえて、愛国心教育が出来る適材の教員を配置するという解決方法もある。僕は、それが出来るならやってみてくれと言いたい。おそらく日本の教育は、いまよりももっとひどい状態になるだろう。

愛国心教育をしようと言う方針そのものが教育としては間違っているのだと僕は思う。だから、それがうまくできないのは当然だ。そうなのだから、多くの教員は、愛国心教育において無能ぶりをさらけ出した方がいいと思うのだ。だが、多くの教員は、それが適所の配置でないにもかかわらず、努力して一定の成果を出してしまうのだろうと思う。そうして、愛国心を無理に注入するという間違った教育に荷担してしまうのだろうと思う。かつての軍国主義の時代のように。

愛国心など法律に盛り込む内容ではない。日本の社会が、適材を適所に配置する、論理的な正しさをもっている社会なら、そのような素晴らしい国を愛さない人間などいない。多くの人が幸せになれるような国なら、教育などしなくても深い愛を捧げるものだ。言葉で愛国心を教えるよりも、適材が適所に配置される幸せな国を目指すことの方が大事なことだと僕は思う。