連帯

昨日はメーデーに行って来た。主催者発表では約4万人ほどの人が集まっていたらしい。20年ほど前に初めて参加したときには、まだ組合の分裂前だったので10万人はいたのではないかと記憶している。僕は、その人の多さとエネルギーの大きさに感動したものだった。その場所にいるだけで強い「連帯感」を感じたものだった。

しかし、昨日のメーデーにはそのように強いインパクトはなかった。年をとったせいもあるのだろうが、「連帯感」という感受性が弱くなっているのを感じる。宮台真司氏は、つい先日のフランスのデモやストに関して、世代を超えた「連帯」があるという見方を示していた。あそこでの反対の声は、直接的には若者の雇用政策に対するものだったが、それを、若者だけではなく年配者も支持していて、そこに「連帯」が存在していたという見方を語っていた。

この「連帯」の基礎にあるのは、民主主義というものに対する不完全さの理解でもあると説明していた。民主主義は、利害の衝突を多数決によって調整していくものだ。当然、不満を持つものも出てくる。その不満が正しいか正しくないかは簡単に決定出来るものではない。だからこそ、不満の表明の手段は保障されなければならない、というのが民主主義の不完全性を埋めるものになるというわけだ。

そのことを、社会を構成する「市民」の誰もが分かっているので、抗議の声をあげるということに関しては「連帯」が出来るのだという。ストやデモがあっても、それが日常生活の支障になる「迷惑」だという感覚はないと宮台氏は語っていた。それは当然の権利を行使しているのであって、自分の利益が損なわれたときに、自分が抗議の声をあげるということの正当性を担保しておくためにも、他者の抗議に対して寛容になることが民主主義社会に生きる「市民」感覚だというのだ。

ところが、この一連のフランスのストやデモに関して、フランス在住が長いものでさえも、日本人の多くは「迷惑」だと受け取っていたらしい。日本では、久しくストは行われなくなっているが、もしどこかでストが行われたら、それは多くの日本人にとっては、社会生活を乱す「迷惑」だと感じるかも知れない。

これは、日本社会における民主主義の成熟度が低い、つまり未熟だということだと思う。お上に対して抗議の声をあげることが正当な権利だという「市民」感覚が育っていないということがあるだろう。そして、またストを行う側の感覚も、それが市民社会にとっての利益だという感覚よりも、個別の組合の私的利益というエゴイズムの表現として出されているように感じられてしまう場合が多い。

若者の雇用や賃金の問題なども、本当はフランスよりも日本の方がもっと深刻なものがあると思う。年金制度というものが、若者が年配者を支えるという基本構造を持っている限り、若者の雇用は、年配者の問題でもあるのだが、若者個人の問題として矮小化されてしまい社会的な問題だという視点が欠けているように僕には感じる。

成功した若者は大金を稼ぎ勝ち組になるが、負け組になった若者は自己責任で、貧しい生活をしていても仕方がないのだというような考え方は、社会全体を見たときにはマイナスの方向への影響を持つだろう。マル激では、若者が学校を卒業したときには、社会でのデビューのための自己資金として一律数百万円単位で提供したらどうかというような話も出ていた。

これに対して、いまの若者は理解出来ない考え方をするものもいるので、無駄に使われることがあるから、それはとんでもない提案だと感じる大人もいるだろうと語っていた。しかし、少数の成功者に金が集中しても、社会全体としてはその金はあまり回るものではなくなるが、多くの若者が金を持ってそれを使えば、金が回るという効果だけでも経済的には影響が出るだろう。金は天下の回りものだから、回ることが大事だと思えば、この提案もそれほど悪いものではないだろう。

こういった提案は、若者世代と年配世代が断絶していて、若者の利益は年配者の利益にはならないと思ったら「連帯」は出来なくなる。利益につながりがあるという視点を持たなければならないだろう。

「連帯」という問題では、耐震強度偽装問題で、価値のないマンションを所有することになってしまった人々との「連帯」が頭に浮かんできた。この被害者にとって、住むことも出来ない・売ることも出来ないマンションなど何の価値もないのだが、残りのローンだけを払い続けなければならないというのはいかにも理不尽なことだ。誰かが言っていたが、この借金をすべて銀行が引き受ければそれで被害者救済になるという提案は、僕はとても同感だと思ったものだが、その根拠に関してはあまりよく分からなかった。

しかし、マル激を聞いていたら、住宅ローンの「担保」の問題というものが語られていて、それがヒントになって、このような論理的根拠を考えることが出来るのではないかとも感じた。

それは、住宅ローンを貸し付けるときに、銀行は住宅というものを「担保」に貸し付けている面があるはずだ。ローンの債務者が、途中で借金を払えなくなったら、その担保にした住宅で借金を何とかするように考えるのではないだろうか。住宅を「担保」にするというのは、それがローンを貸し付けるに値する物件だという銀行の判断があるからではないだろうか。そうであれば、その物件が価値を失ったとき、所有者だけにその責任を押しつけるのは不公平ではないかと思う。

所有者は、むしろ価値のなくなったマンションを手放して、残りのローンを帳消しにしてしまう道が選べるようにすべきではないだろうか。そのようなリスクがあれば、銀行は簡単にローンを貸し付けるのではなく、その物件が担保に値するものであるかを調べるようになるだろう。素人である所有者が調べきれないことも、仕事としてなら銀行はかなり細かく調べることが出来るのではないか。そのようにすれば、ローンはなかなかつかなくなる恐れはあるが、売り主の方はローンがつかなければ売ることが出来ないから、ローンがつくようにまともなマンションを建てるように努力するのではないだろうか。少なくとも耐震強度を偽装して建てようなどという業者は生き残れないはずだ。

このような論理で被害者を救済するのであれば、僕は論理的にも納得出来る。しかも、このような救済であれば、不幸にも自分が被害者になったときに、その被害を正当な方法で回復することも出来るだろうと期待出来る。被害者との「連帯」を感じることも出来るのだ。

「連帯」というのは、ある出来事を、他人事ではなく自分のこととして引き受けることでその感情が生まれてくる。これは、物事を突き放して見ようとする「論理」的な見方とはある意味では正反対の現象のように見える。しかし、論理をたどって納得すると「連帯感」が生まれてくると言うこともあるから不思議だ。

顔の見える・よく知っている人間に感情移入して「連帯」するのと、顔の見えない・よく知らない人間と「連帯」するのとでは、その条件が違ってくるのだろうと思う。職場の仲間と「連帯」するのは、お互いによく知っている仲なので、感情的にも容易なものを感じる。だが、雇用が不安定な中で、将来の生活に不安を感じている若者一般との「連帯」を考えたり、直接には知らない相手である、耐震強度偽装問題の被害者と「連帯」しようと思ったら、感情移入だけの「連帯」は難しいかも知れない。それは、ある意味では「他人事」になってしまうからだ。

その「他人事」が、よく考えてみると、自分にもつながりがあることだと理解するのは、「他人事」として突き放して見るという論理のおかげで分かる。かつて、仮説実験授業研究会の牧衷さんは、運動のスローガンが、個人の利益というエゴではなく、社会の利益という公共性を持ったとき、それは大きな支持を得ることが出来て成功への道を歩むと語っていた。

松川事件と呼ばれるものに対する運動なども、不当な裁判を受けた個人の利害の問題であれば、人々の関心はあれほど高くはならなかったのではないかと牧さんは語っていた。司法制度の問題として、捏造された証拠で犯人にされてしまうということが、誰にでも関わりのある問題として、社会的な問題だと理解されたときに、人々は「連帯」をし、大きな力でその運動を推進していったのではないかと語っていた。

メーデーは、元々、感情移入で「連帯」することが難しい大多数の人々の「連帯」をつくるものだった気がする。しかし、残念ながら、いまは顔見知りの「連帯」を超える「連帯」がなかなか生まれにくい。マスコミで大宣伝される人々は、直接知らなくても、ある意味よく知っていると言うことから感情的な「連帯」もしやすくなっているのではないか。いまのマスコミ状況で言うと、拉致被害者に対する「連帯」は比較的抱きやすいものではないだろうか。

しかし、感情による「連帯」は、それが忘れられると「連帯」も消えてしまう。確かな論理的基礎を持った「連帯」はどのようなもので、どうすれば実現出来るだろうか。マルクスは、「階級」という言葉で多くの人の「連帯」を呼びかけたが、いまは「階級意識」も薄れてきている。「連帯」における感情と論理の問題というのを、改めて考えてみたいと思った。そんなことを思った昨日のメーデーだった。