凶悪犯に対し、感情抜きの論理的考察が出来るか

すでに故人となったが、大分県中津市の作家・松下竜一さんに『汝を子に迎えん』(河出書房新社)という本がある。松下さんは、ノンフィクションの作品をたくさん残している人で、これは、ある殺人犯を養子として迎えた牧師夫妻を追いかけたノンフィクションだった。

この殺人犯が起こした犯罪が、先日報道された山口県光市の事件にそっくりだったので、僕は一瞬、その事件のことではないかと錯覚してしまったのだが、松下さんが報告している事件は1985年の事件だった。それは当時の12月6日の朝日新聞で次のように報道されていたらしい。

「白昼、姫路と神戸で母子ら三人を惨殺した長崎県生まれ、前田陽一(24)は5日午後、強盗殺人の送検手続きのため、東灘署から神戸地裁へ護送された。胸を張り、表情も変えず庁内に向かっていた前田は突然、報道陣に向かって舌をペロリと出した。3歳で母に捨てられ、17歳で父も失った。中卒後、職を転々としながら、「天涯孤独」が口癖だった。そして「シャバはちっとも楽しい思い出なんかなかった。刑務所が落ち着く」という思いが凶行に直結した。
 先月29日夕、姫路市××町で主婦山際好江さん(30)と長男敦ちゃん(3つ)が刺身包丁でめった刺しにされて死んでいるのを、帰宅した夫の宏さん(35)が見つけた。いつも帰宅すると出迎えてくれる母子の変わり果てた姿だった。それから4日後の今月3日昼下がり、神戸市東灘区の光岡巻一さん(38)方で妻睦子さん(34)がナイフで十数カ所を刺されて殺された。最初に見つけた長女の小学校2年生美穂ちゃん(8つ)は泣きじゃくって言葉もなかった。次女光枝ちゃん(6つ)ともども転向届けを出し、仕事のある父親と別れ、母の里の島根県へと引っ越していった。」
(この記事の名前の部分は仮名を使っている。)

この新聞記事だけでもその残虐さの一端がうかがえるのだが、この犯人を養子に迎えた牧師婦人に対して、彼の弁護士が語る「前田陽一が犯したこの残虐な事件に、あなたは耐えられるんですか?」という言葉は重みを持っている。それは引用するのもはばかられるほどの内容になっている。単に強盗殺人を行ったというだけではなく、暴行・陵辱の上で殺したところも光市の事件に酷似するところだ。

しかも、この犯人の前田陽一にも、まったく反省の色がないと言うところも同じだ。この犯人に対して憎しみの感情を抑えることは極めて難しいことだろう。死刑がふさわしいという結論は出せないが、もっとも重い刑罰が死刑であるなら、もっとも重い刑罰こそがふさわしいという感情を抑えることは難しいに違いない。それでも、この犯人を死刑にしないことが正しいと結論するには、死刑という刑罰があってはならないという死刑廃止論の立場に立つしかないだろう。

このような凶悪犯を前にしても、なお死刑廃止論を、冷静に論じていくことが出来るかどうか。死刑廃止論は、あくまでも個人を超えた制度という抽象的な側面であって、個人的な感情論に流されてはいけないと分かっていても、感情に流されずにいることが出来るだろうか。この極めて難しい問題に、納得のいく解答を与えるのも、死刑廃止論の正当性にとっては大事なことではないかと思う。

中山千夏さんは、死刑廃止に対して感情的に反発している人を説得することは無理だというようなことを『ヒットラーでも死刑にしないの?』という著書で語っていた。僕も、基本的にはそう思う。少しでも死刑というものに疑念を持った人になら、死刑制度の不合理性を訴えることが出来るが、いくら不合理であっても、感情的に受け入れられない人には、その不合理を不合理として理解することは難しいだろうと思う。

だからこそ、死刑というものに疑念を持つきっかけが大事だと思うのだが、松下さんの『汝を子に迎えん』を読んだあとに思うのは、犯人のことを知ることが、必ずしもそのきっかけにならないことがあるというのを思って愕然とすることだ。犯人の前田陽一には、確かに生い立ちといい、その生育環境といい同情すべき点がたくさんある。しかし、本人の無反省な態度が変わらないところを見ていると、その同情すら憎しみに転化してしまいそうな感じがする。

松下さんは、この本の中で次のような記述をしている。これは、前田陽一の手紙を読んだ牧師婦人の様子を描いている。

「読み終えて一番先に脳裏をよぎったのは、やはり陽一は頭がおかしいのではないかという疑念だった。そうとしか考えられなかった。恨みを抱いているわけでもない抵抗したわけでもない、まったく行きずりの女性二人と幼子まで無惨に殺しておきながら、悔いてはいないとうそぶくのだ。自らが犯した取り返しのつかぬ残虐行為に、いささかも苦しんではいないと誇示してみせるのだ。正常な人格としてはとうてい考えられない心理である。」

このような犯人に対して、その実像を理解するためにも死刑にしてはいけないのではないかと、抽象的に主張することは出来るが、結局は異常な人間なんだから、理解する必要もない、犯した罪にふさわしい償いをさせるべきだという感情論を説得することは極めて難しいように感じる。民主主義国家においては、死刑廃止は、結局は民主的に決定されることを考えると、感情論に対する説得はやはり必要なのではないかとも考えられる。しかし、やはり難しさを感じる。

この、常人には理解しがたい犯人に対して、深い愛情を注ぐ牧師夫妻は、彼らが人間的に愛情深い人だから、受け入れることが出来るのだと理解しなければならないのだろうか。そうすると、このような深い愛情を持ち得ない人々が、感情に流されて死刑に賛成するのを防ぐことが出来なくなる。

僕は、牧師夫妻のような深い愛情を犯人に感じることは出来ない。だから、理解し受け入れるということは難しいだろうと思う。しかし、それでもこのような凶悪犯であっても、なおかつ死刑に反対するのは、僕には論理というものが引っかかりとなっているからだ。その引っかかりがなかったら、このような凶悪犯に対する死刑に反対する要素は何もなくなってしまうかも知れない。

松下さんの精一杯の努力にもかかわらず、このノンフィクションに、死刑賛成論者にその考えを変えるきっかけになりそうなものは見つからなかった。死刑反対論者にとっては、よく分かる議論でも、前提の違う相手にはなかなか伝わらないのではないかと思うことはたくさんある。

彼の生育歴に同情すべき点が多かったとしても、彼が死刑を逃れて、更正をし、幸せをつかんだとしたら、彼によって不幸に落とされた人たちのやりきれなさがどうなるのかという感情論への答はやはりない。彼がいつまでもその不幸を自分の責任として背負っていくということをどうやって信じてもらえるかというのが難しいのを感じる。

死刑廃止論は、あくまでも抽象論だが、それを抽象論として議論をするという前提をつくることがたいへんな困難であるのを僕は感じる。抽象論に踏み込んでしまえば、死刑廃止が正しいことはほぼ誰にでも賛同してもらえる議論になるのではないかと感じるのだが、抽象論に踏み込むための障壁は高い壁となってそびえ立っている。。

諸外国は、どのようにしてこの感情論を乗り越えているのだろうか。それとも、この感情論は、日本独特のものなんだろうか。

松下さんがこのノンフィクションで報告した前田陽一(仮名)は、2003年9月12日に死刑が執行されたようだ。犯行から約18年の歳月がたっている。この間に、彼は果たして心からの反省の言葉を語ったのだろうか。もし、彼に反省の言葉がなく、やはり更正する可能性がなかったのだと思われてしまったら、死刑賛成論者の論の方が正当性を持ってしまうのだろうか。

それとも、死刑廃止論の原則性というのは、たとえ更正の可能性のない犯罪者であろうとも、やはり死刑にすべきでないと主張出来るのだろうか。抽象論としては、僕は死刑廃止論が正しいと思う。それは制度としてはやはり矛盾していると思う。国家権力にあまりにも強大な権力を与えすぎると僕は思う。しかし、やはり抽象論ですべての人を説得するのは無理を感じてしまう。人間は感情の生き物であって、いつでも第三者的に判断が出来るとは限らないからだ。

むしろ、中山千夏さんが論じているように、ヒットラーのような、社会的に大きな存在の犯罪者は死刑にしないことの意義を論じやすいが、ごく普通の凶悪犯罪者は、死刑にしないことの意義を論じることが、抽象論でないと展開しにくい。個性のない、任意の人間という存在に対して死刑制度が不当だから、その凶悪犯を死刑にするのも不当だという論理展開になってしまう。

ヒットラーだったら、ヒットラーが生きていることによる教育効果というものを具体的に考えることが出来る。もしも、ヒットラーが生きて更正するようなら、ヒットラーを英雄視しようとする人々の間違いを、ヒットラー自身が生き証人として否定してくれるだろう。たとえ更正出来なくても、権力を失う姿を見せつけることに意義があったりするかも知れない。

ヒットラーは死んだことによって、ヒットラーを直接知らない人にとっては英雄として生き続けることになってしまった。麻原彰晃松本智津夫)という人物についても、死刑にすることで彼が神になってしまう恐れもあるかも知れない。このような個人については、死刑にしないことの意義も、具体的な展開が可能なように思われる。

しかし、そのような具体論が展開しにくい相手、社会的な影響が少ない人物に対して、具体的に死刑廃止論との関係を語るときは、論理的には一番難しいのではないかと思われる。抽象論として語ってしまえば簡単なことでも、具体的な現実存在として対象にしたときは、具体性が語りにくいということが出てくるような気がする。

抽象論に関心を持ってくれる相手なら、いくらでもその正しさを理解してもらう可能性が期待出来る。だが、抽象論へ向いていない相手を、いかにして抽象論へ向かわせるかが、具体的な存在を用いるとかえって難しいという問題は、死刑廃止論にとって最大の難所ではないだろうか。

平田オリザさんは、「死刑廃止 info! アムネスティ・インターナショナル・日本死刑廃止ネットワークセンター」というページに載せられている、「死刑制度の廃止を求める著名人メッセージ」の中で次のように語っている。

「僕は、死刑が今の2004年という時点で、絶対悪だとは言い切れるかどうかということに100パーセントの自信はありません。これはやはり、時代によっても変わってくることだと思います。僕自身は死刑に反対ですが、それに反対しない人はおかしいと言えるほどには、まだ社会は成熟していないだろうと感じます。」

社会の成熟というものが、死刑廃止論者が目指すもう一つの目標でもあるのだろうと思う。