死刑は殺人か 2

中山千夏さんの死刑廃止論は、犯罪による殺人も死刑による殺人も同じものだと言うことを論拠に、犯罪による殺人が許されないものであるなら、同じように死刑による殺人も許されないことだという展開をする。これは、前提となる、「殺人」という点では両者は同じということを認めるなら、論理展開としては間違いがない。

両者が同じ「殺人」であれば、一方が許されるなら他方も許されなければならないし、一方が許されないなら他方も許されないということで同じでなければならない。一方が許されない不当なもので、もう一方が許される正当なものであると主張するなら、その両者が同じものではないということをいわなければならない。

そこで、前回は、法律によって正当な手続きが取られることが両者の違いだということを検討したが、これは、現在の段階ではそうであるが、法律を変えるなら正当な手続きそのものがなくなるので、行為としての両者の違いは、手続きの正当性からは導かれないということを見た。行為としての違いが言えなければ、行為としては同じになる。つまり、行為としては死刑に正当性はないと結論しなければならなくなる。

さて、今回は、両者の違いをその主体の違いに見る視点を考察してみようと思う。行為の主体の違いが、その行為の正当性と不当性を区別する違いを反映したものになっているだろうか。

犯罪においては、殺人の主体はあくまでも個人である。そして、その個人には他人を殺す権利はない。だから、いかなる殺人であろうとも、個人が行う殺人は正当性がなく、犯罪となる。それに対して、死刑の場合は、その行為の主体は国家という機関である。直接殺人を行うものは、国家の役割を分担する個人であるが、その個人は個人的な自分の意志で死刑を行うのではない。あくまでも仕事として行う。この違いに、死刑の正当性が含まれているだろうか。

ちなみに、死刑の際に最後に命を奪うことになるスイッチを押すのは複数の人間で行うと聞いたことがある。これは、誰か特定の個人が死の責任を負わないように、誰が最後のスイッチを押したかが分からなくなるような工夫としてそのようにしているらしい。このことからも、死刑の主体が、個人ではなく国家という機関なのだということがうかがえる。

さて、国家には、罪を犯した人間を死刑にする権利があるのだろうか。個人には、他人を死に至らしめる権利はなかった。それが、国家というものになると、その権利を持ちうるだろうか。それを論理的に整合的に説明することが出来るだろうか。

この問題の解答の一つは、正義のための殺人は許されるとする考えだ。国家は死刑において正義を実現する。そのためであるなら、それは正当化され、許される殺人になるという論理だ。死刑廃止論者である中山さんは、この「正義のための殺人」に反対する。正義のためであっても殺してはいけないと主張する。

これは、正義というものが、科学的真理のように、立場を越えて同意出来るものにならないからだ。国家にとって正義であるものでも、立場を変えれば正義ではなくなることがある。正義というのはあやふやなもので、そんなものを基礎にした判断は信用出来ないというわけだ。

板倉聖宣さんは、正義というものはその時代の主流派の常識に過ぎないと語っていた。正義は多数決で決まってしまうのだ。このようなものに依拠して判断をすれば、それは時代や立場が違ったときに間違いになる。死刑を執行してしまったら、その間違いは取り返しがつかないのだから、正義を基にして死刑を許してしまってはいけないということになる。

この正義というのは実にやっかいなもので、板倉さんは「いじめは正義から始まる」と指摘しているし、中山さんは「戦争は正義から始まる」と指摘している。攻撃的で相手を傷つける行為は、それが不正なものから発生している場合は、それほど大きく傷つかずにすむ。攻撃する方が悪いことが明らかだからだ。しかし、攻撃する方が、正義だと思ってやっていることは、下手をすると相手を徹底的に傷つける恐れがある。

そのような弊害を持っている「正義のための殺人」は、間違えたときの影響の大きさを考えれば、やはり許してはいけないという結論を導くことが論理的な整合性があるのではないだろうか。現実の判断というのは、決して間違えないということがない。間違えたときに、取り返しのつかない結果を招くよりも、取り返しが出来るように配慮しておくことが、論理的には整合性があると思うのだ。

ここで、中山さんは、百歩譲って国家が決して間違った判断をしないと仮定してさえも、正義のための殺人には反対するという。その正義が常に正しくても、そこから死刑による殺人の正当性を導くことは出来ないと主張するのだ。

「それは、「どんな理由があろうと、殺人はいけない、やめよう」という私たちの大切なルールを弱める恐れがあるからだ」と中山さんは語る。最初から、このルールを大切なものと思わない人間だと困るのだが、一応これは大事なことだと思う人に対しては、「正義のための殺人」なら、やむを得ないこととして許されるという考えが、このルールを弱めるだろうことは想像出来る。

「どんな場合でも」と語っているのに、この「特別の場合だけは」と考えれば、「どんな」ということが薄められるのは必然的だ。「どんな」は例外を許さないのに、例外を設定することになるからだ。

この例外を許すことがどのようなものにつながってくるのかを想像しよう。この例外は、正義のためであれば殺人が許されるとするのだから、正義ということが確認された時点で、殺人が行われる可能性が出てきてしまう。

例えば、相手が攻撃してくるかも知れない状況なら、相手を倒すことが正義になるので、その場合には相手を殺してもいいということになってしまう。相手が攻撃してくるかどうかがはっきりと分からなくても、攻撃してくると思い込んだら、相手を殺すことが正義によって許されてしまうことになる。

これは、アメリカによるイラク攻撃の論理であり、イラクの危険性を語るアメリカの言説がほとんどでっち上げだったことを思うと、このような論理が誰の役に立って、誰の不利益になるかは明らかではないかと思う。

また、国家ではなく個人的なレベルで同じようなことを考えると、かつてハロウィンの衣装で間違って射殺されてしまった日本人留学生のことが頭に浮かんでくる。彼は、銃を構えたアメリカ人に対して攻撃をする気は全くなかったにもかかわらず、射殺したアメリカ人は、彼からの攻撃を恐れて銃を撃って殺人を犯した。正義のための殺人が許されるという考えがなかったら、彼はいきなり射殺されるようなことはなかったのではないか。

オウム真理教教団が行った地下鉄サリン事件なども、彼らにとっては正義の殺人だったことがいまでは知られている。それは、我々にとっては正義ではなかったが、オウム真理教信者にとっては正義だった。そして、彼らは、正義のために多くの人が犠牲になるような事件を起こした。

どんな場合でも殺人はいけないということが、もしも常識として人々の中に強く存在していたら、このような事件の加害者は、いきなり殺人を犯すという動機は持たなかったのではないか。死刑というものが、正義のための殺人は許されるのだという前提を持っているとしたら、その前提こそ否定されなければ、殺人という悲劇は少なくならないのではないかとも思える。中山さんは次のように主張する。

「「どんなに理由があっても、どんなに自分が正しくても、他人を傷つけたり殺したりしてはならない。それは人間として最低の行為だ」という考えが社会に強まれば強まるほど、殺人事件は抑制されるはずだ。
 正義の殺人=死刑の存在は、私たちが殺人を根底から否定していないことの印である。そしてまた、個人が正義の殺人に走るときのお手本である。
 私たちには、どんな理由があってもどんな正義があっても、他人を殺す権利はない。そのことをはっきり示すために、私たちの総体としての国家には、どんな殺人の権利も持たせてはならない、と私は思う。」

僕もその通りだと思う。中山さんが語る死刑廃止論に強く共感するところだ。最後に、中山さんは、死刑という殺人は、制度として存在しているので、制度をなくしてしまえばなくすことが出来ると指摘する。どんな理由があっても殺人はいけないということを正しいとするなら、なくすことの出来る殺人である死刑を廃止することは、この正しさを守ることになる。

また一方では、死刑ではない、犯罪としての殺人は、どのような努力をしてもなくすことは難しい、とも中山さんは語っている。人間はどうしても過ちを犯すからだ。死刑を廃止することは、この過ちを犯した人間を不当に許している甘い考えではないかと感じる人もいるかも知れないが、論理的にはそのような結びつきではなく、次のように考えるべきではないかと思う。

どのような殺人であれ、殺人は許されるべきではない。だから、その許されない殺人の一部である、死刑による殺人は確実になくすことが出来る殺人だから、まずこれから先になくしていって、その後に犯罪としての殺人が減る方向に努力していこうというふうに考える。これは、決して犯罪を許しているのではなく、解決の方向として、その順番の方が有効ではないかと考えるということだ。

死刑というものが、犯罪として行われる殺人と同じものである、と認めるなら抽象的には、死刑廃止という方向が正しいと結論出来るのではないかと思う。論理としてはこれが正しいと理解出来ても、何かすっきりしないところが残る人は、まだ感情の部分が納得していないのだと思われる。中山さんが語る各論として、その感情をどう受け止めるかということを次は考察してみようと思う。