死刑廃止に対する感情的反発にどう答えるか 1

中山千夏さんは、第二章で「ヒットラーでも死刑にしないの?」ということを論じている。これは、本の題名にもなっていることなので、おそらく非常に重要なものと考えているのだと思う。死刑廃止論を、理屈では認めながらも、感情がそれを認めないという、感情の一つにこのようなものがあるに違いないからだ。

中山さんの講演があったときに、話がこの死刑廃止論に向かうと、それに対して「深遠でない」つまりごく普通の話だといって不満を言ってくる人がいるらしい。その人の心理を分析した中山さんの次の言葉は、僕は鋭いところを突いているなと思う。

「これは、オトナがコドモに対して、または男が女に対して、よく使うやり方である。その人の主張を聞きたくないとき、ものの言い方とか態度とかを批判して、主張そのものを無視するのだ。そして、そんなやり方をするのは、主張に対して反発があるのに、うまく簡単に反論出来そうにない、という時だ。」

中山さんは、女だからこのような鋭い直感で相手を見抜くことが出来るのだろう。しかし、この中山さんの言葉が正しいからといって勘違いしてはならない。その言説が無視されても仕方がないほど水準が低いものであれば、無視されるのは仕方がない。むしろ、水準の低いものは無視するのが正しいと思う。それを無視せずに、的はずれの批判を撒き散らしていくような書き込みを見たりすると、この中山さんの言葉が正しいのだなと僕は改めて確認する。

良心的な問題を扱っている女性のブログに、時として見当違いの書き込みをしていく人間は、「主張に対して反発があるのに、うまく簡単に反論出来そうにない」という感情を抱いているのだろうと思う。このような感情は、感情としてはどうしようもないので、何とかうまく対処しなければ死刑廃止を訴えることが難しくなる。中山さんはどうしているのだろうか。こう語っている。

「ただし、私は、こうした人々を無理にも説得しようとは思わない。人権問題はたいていそうだけれど、個人の生活態度や人間関係の持ち方に大きな影響がある。例えば性差別についてどう考えるかは、たちまちツレアイとの人間関係にはね返る。そんなに直接的ではないけれど、死刑をどう考えるかも、自分自身にはね返る。もし、死刑が非人間的な不合理な刑罰だとしたら、それを認めてきた自分もまた、非人間的だということになる。自分でそう反省するならいいけれど、人から指摘されるのは、誰でもいい気持ちはしないものだ。
 だから私は、性差別や死刑については、「どうも男女は不平等でよくない」と考えている人、「死刑にはなんだか抵抗がある」と考えている人、「だからもっとこの問題を考えてみたい」という人にしか、話をしても無駄だと思っている。「凶悪犯はどんどん死刑にすべきだ」と思い、そのことに何の疑問も持ったことがない人には、いくら声をからして説得しても、感情的な反応が返ってくるだけだろう。
 ただ、面と向かえばそうであっても、一人で冷静になれば、考えが変わることはある。そのキッカケになれば、と願って、私は講演をしたり、こんな本を作ったりするわけなのでけれど。」

とても素晴らしい考えだと思う。僕はほぼ全面的に賛成だ。結局、論理というものは「分かる人間にしか分からない」という側面を持っている。特に現実を語る論理は、その立ち位置や視点というものが論理の構造に大きな影響を与えている。それが弁証法性というものだ。だから、立ち位置や視点が違えば、まったく正反対の結論が、論理的に正しいものとして導けてしまう。

そういう人に、いかに自分の立ち位置からの論理が正しいかを主張しても、それはある意味では「無駄」なものになってしまうだろう。感情的には、「人から指摘されるのは、誰でもいい気持ちはしないもの」だからだ。そんなことをするくらいなら、少しでも分かりそうな人に語りかけるということは、戦術としても正しいと思う。

末梢的な揚げ足取りをして、的はずれのコメントを書いていく人間に、中山さんの爪の垢でも煎じて飲んでもらいたいものだと思う。もし、そういう人間が、本気で相手の考え方に影響を与えたいと思っているなら、それは全くの無駄であることを知らなければならない。もっとも、そのような的はずれのコメントを書く人間は、相手に働きかけるということよりも、自分の鬱憤を晴らすためにそうしていることが多いのではないかと思う。中山さんのように正しく考えられるのなら、そんなものは無視するのが正しいことが分かるだろう。

むしろ、中山さんがやっているように、その言説を分かる人に向かって語りかけることで、副次的にそう考えもしなかった人に届いて、違う考えもあるのだなと気づくキッカケになってもらえばいいのだと捉えるべきだろう。それが正しい言説なら、いつかは考えを転換する人が増えるはずだからだ。板倉さんは、「真理は10年にして勝つ」という格言を語っている。どんなに正しいことであっても、革命的な斬新な真理は、今は非常識に見えるので、それが認められるには10年はかかると覚悟しておいた方がいいだろうということだ。

さて、感情的な面への対処として中山さんが語ったことは、以外にも、感情的な面には対処しないということだった。それに無理に対応するよりも、分かる人に分かるように、論理的な面を押し出すべきだということになるだろうか。この対処の仕方も、僕は賛成だ。

さて、感情的に死刑廃止に反発している人に感情面での対応はしないけれど、死刑廃止に対して賛成したいけれど感情面で賛成に踏み切れない人に対しては、中山さんは、論理によってそれに答えている。「ヒットラーでも死刑にしないの?」という問いに対しては、中山さんは次のような答をかつて咄嗟に考えてしたらしい。

「今まで、そんな場合について考えたことがありませんでした。言われてみると本当に、ヒットラーも死刑にしないのは、なんだか割り切れない気がします。けれども、さっきお話ししたとおり、どんな人であれ、任意に殺す権利は誰にもない、と思います。ヒットラーは憎むべき存在ですけれど、それでもやっぱり、死刑にはしない方がいい、と私は思います。」

これは、論理的には原則を守ると言うことだ。「殺人はいけない」という原則は、ヒットラーのように極悪人に見える人間にも適用されるべき重い原則だと言うことだ。しかし、そこまで原則的に考えられない人にとっては、まだ感情的な引っかかりが残るだろう。その人のために、中山さんは、「ヒットラー(のような独裁者)を死刑にしなかったら、どんな不都合があるだろうか?どうしても彼を死刑にしなければならない理由が、あるだろうか?」と問いかけてみる。

そうすると、ある意味ではヒットラーのように極悪人と思われている人間は、かえって生きていた方がその後の世界にとってはいい影響を残したとも言えることに気づく。ヒットラーが生きていて、後の世界に対してもその思想が影響を与えるというのは、ヒットラーがまだ権力を握っているという前提があって言えることだ。権力の無くなったヒットラーは、むしろその存在によって、彼のそれまでの行為がいかに間違っていたかを示すことになるのではないか。

宮台氏なども語っていたが、ヒットラーは、むしろ死ぬことによって永遠に英雄として心の中に生き続ける可能性を残してしまったのかも知れない。ヒットラー崇拝者にとっては、ヒットラーのみじめな姿を見ずに、その英雄的なイメージだけが残っていれば、ヒットラーはいつまでも英雄であり続けるだろう。

東京裁判においては、日本軍中枢の人間たちが、すべて自分の責任を否定してみじめな姿をさらしたという。「生きて虜囚の辱めを受けてはならない」と教えた人間が、生き残って恥ずかしい姿をさらしたわけだ。東京裁判の目的の一つに、このようなみじめな姿をさらすということがあったのではないかと思う。これによって、日本人が抱いていた軍部への狂信的な忠誠心などというものはすべてなくなってしまっただろうと思う。

イラクでは、フセイン元大統領のみじめな姿をさらして、フセイン支持者たちの気持ちをくじくことを考えていたようだが、最初の裁判で、フセインの方が立派な態度を見せてしまったので、その後の裁判はまったく報道されなくなってしまった。フセインがこのまま処刑されるようなことがあれば、フセインは、アラブの英雄として復活することがあるかも知れない。死刑には、そのような影響もある。これは、歴史に残るような大きな存在の人間が死刑になる場合には避けられない影響だろう。だから、そのような人間であれば、むしろ死刑にしない方がいいのではないかということも主張出来る。

中山さんもそのようなことを論拠にして、「ヒットラーでも死刑にしない方がいい」と語っている。感情的にしっくり来ない人に対して、論理でもって説得をしようとしている。情緒に対して情緒を対置するのではなく、やはり論理で対処するのが僕も正しいと思う。そして、その論理が分かる相手には、それが必ず伝わるはずだ。情緒で考えて、論理を受け付けない人間に対しては、今のところは無視した方が正しい。歴史の流れを見れば、そのような人間はだんだんと少数派になってきている。

死刑廃止論に賛成する立場としては、東京裁判における死刑判決についてもちょっと考えてみたいと思う。死刑廃止論からいえば、この死刑にも当然反対するのが当然だし、この死刑判決は間違いだと思う。だが、難しいのは、東京裁判が全体としてどのような正義を実現したかという評価と、死刑判決そのもの評価とは別だというところだ。

東京裁判の正義を強調する人は、死刑になった戦犯たちを、当然の報いだと感じてしまうかも知れないが、死刑にしたのは間違いだったと考えなければならないと僕は思う。論理的には、死刑廃止論が正しいと思うからだ。

東京裁判は、すべて正義だったわけではないし、まったく正義がなかったわけでもない。どこまでが正義で、どこからが正義でないかを正しく区別しなければならない。また、その正義も、どの立場からの正義であるかをはっきりさせなければ、全体としての東京裁判の評価は出来ないだろう。

そして、その東京裁判A級戦犯になった人が祭られている靖国神社が国際的な問題になっていることは、その正義が複雑な関係を持った正義になっていることを意味している。靖国参拝問題が、出口のない複雑な問題になっていることは、死刑廃止論の関係からも言えるのではないかと思う。

感情的反発は、このほかにもさまざまなケースが考えられる。引き続き考えていこうと思う。