死刑廃止に対する感情的反発にどう答えるか 2

感情の問題というのは、感情で判断することがふさわしいというものがあるだろうと思う。形容詞で表現されるような問題は、だいたい感情で判断してもそれほど間違いはないのではないかと思う。

例えば好き・嫌いというものに関しては、何が好きでも、何が嫌いでもそれほど大した影響はない。自分の好みで選べばいいだけの話だ。好きなものは好きでしょうがないし、嫌いなものは嫌いでしょうがない。昨日は、知り合いとのある会話で日ハムの新庄が嫌いだという話題があった。あの目立ちたがり屋のところが嫌いらしい。

僕などは、プロとしてインパクトのある行動で目を引くのは、ある意味ではプロ意識の現れだと思っているので、むしろ好感を持っていただけに、感覚の違いが面白いなと思った。だから僕が新庄が好きで、知人が新庄を嫌いでも、そのことはお互いの関係にはまったく関係がない。好みが違うのだなということを感じるだけだ。

嬉しい・悲しいとか愛着・憎しみとかいう感情も、その感情だけの問題であれば、それを感じてしまうのは仕方がない。人間は感情の動物だから、その感情を抑えることは難しい。感じるものは仕方ないので、まずはその感覚の中で感情をいったんは開放しなければならないだろう。

だが、その感情を、何らかの次の行為に結びつけることは、もはや感情の問題ではなく論理の問題になる。この行為を感情のゆえに正当化することは出来ない。その感情を抱いた人間が、論理を通過せずに、感情を行為に直結して失敗をしたという解釈は出来るかも知れないが、その感情のゆえにその行為を行ったのは正当だという主張は出来ないだろう。感情の問題と論理の問題は切り離して考えなければならない。

死刑廃止論に対する感情的反発の問題も、報復感情のようなものから生まれた「吊せ」という行為の間に、いかに論理を挟んで考えるかということが解答になるのだと思う。その一つは、いかに凶悪な犯罪であろうとも、それを死刑に処することで、ふさわしい責任を取らせたことになるかということだった。むしろ、社会的な影響が大きい凶悪犯に対しては、死刑に処することよりも、生きて反省をしてもらうか、あるいは反省出来なくても束縛されたみじめな姿をさらす方が社会的な教育効果が大きいのではないかとも考えられる。

中山さんが提出する別の問題としては、どの範囲までが死刑にふさわしいと考えるかという、程度の問題を考察するということがある。感情的に直結する判断では、情緒的に「吊せ」というふうに思った相手が死刑になってしまう。アメリカの西部劇でよく描かれる場面はこのようなものだ。

この判断を情緒にまかせてしまえば、死刑にしたいものを死刑に出来るということになり、その間違いは明らかだろう。このような恣意的な判断を権力の側に許していけば、民衆はいくらでも弾圧出来る。それでは、どの範囲の人間が死刑にふさわしいかという限界は論理的に決定出来るだろうか。これは極めて難しいだろう。この論理は、いつでも行きすぎてしまうという傾向を持っているからだ。中山さんは、次のような流れで、このことの行きすぎる可能性を語っている。

ヒットラーを抹殺しなければナチズムは消せない
    ↓
 ヒットラーに荷担したものも抹殺しなければならない
    ↓
 加担者の疑いがあるものはなるべく多く抹殺しなければ安心出来ない
    ↓
 無害な人も殺してしまう」

死刑にふさわしい人間を決定する限界は、明確に・誰が判断しても同じものになるようには設定出来ない。それは、ある幅を持って判断しなければならないものになる。そうすれば、それはエスカレートせざるを得ない。だから、今度はそのエスカレートをいかにして防ぐかということが問題になってくる。エスカレートしたときに、エスカレートした人間を裁くことでこれを防ぐことが出来るだろうか。

このことは、すべての体罰を禁止した学校教育法をアナロジーとして考えることが出来るような気がする。ワイドショーなどでは、戸塚ヨットスクールの校長である戸塚宏氏が刑期を終えて出所したニュースを伝えている。そして、戸塚氏の言葉で「体罰も教育である」というものに共感する人もいるように伝えている。

この言葉が、結果的に体罰が教育効果を持つと解釈出来る場合もあるというのであれば、僕もそのようなことはあり得るだろうと思う。しかし、体罰を教育の一つとして認めろという主張だとしたら僕は反対だ。体罰は一度認めてしまうと必ずエスカレートする。そのエスカレートを許さないために、体罰においては、すべての体罰と思われる行為を禁止したのだというのが僕の考えだ。

体罰にも教育効果がある場合が考えられるとしても、エスカレートを防ぐためには禁止しなければならないというのが論理だ。体罰は、禁止していてもそれが起こってしまうことがある。しかし、禁止しておけば、それが殺人に至るという最悪の事態は避けられる。これが、もしも許されるものになってしまえば、つい行きすぎて最悪の事態を迎えるということが頻繁に起こってくるのではないかと思う。

体罰を行う人間が、常に教育的配慮でそれを行うと考えるのは、人間性に対する無知ではないかと思う。親が子供に与える体罰を考えればそのことは容易に想像出来る。ほとんどの体罰は、恣意的に感情的な判断で行われる。そして、体罰が許されるときは、他の教育手段を持たない人間は、容易に体罰を使うことに流れていってしまう。エスカレートして行きすぎるであろうとことは必然的なものに思われる。

行儀の悪いコドモに対しては、殴るくらいのことは仕方がない、と感情に流れてしまえば、このエスカレートを防ぐことは出来ない。学校教育法という法制度は、感情的な判断で成立しているものではないので、このようなエスカレートを防ぐ制度として存在しているのだと僕は思う。

死刑という制度は、ある意味ではもっとも重い体罰だとも言える。これを許してしまえば、それがエスカレートすることを防ぐことが出来ない。感情的に「吊せ」という声が挙がったときに、その間に論理を挟むことが出来なくなる。論理を挟むためにも、吊してはいけないのだと考えなければならない、というのが中山さんの死刑廃止論につながると思う。僕も論理的にはそう思う。

死刑という制度は、殺される人間にとっては、感情と刑罰の間に論理を挟みにくいものになっている。なぜなら、それが間違いであることが後に分かったとしても、取り返しがつかないからだ。取り返しがつくようにしておいてこそ、間に論理を挟むことが出来るのだ。そのことを中山さんは次のように語っている。

「ある政治勢力を抑えたり罰したりするのには、首謀者の禁固、懲役や、公職からの追放で充分だ。それを決めるのにも、やっぱり不公平や間違いはあるだろうけれど、間違って殺すのと、間違って監獄に閉じこめるのとでは、雲泥の差がある。間違いで捉えられた人は、いつか出られるかもしれないが、殺された人はどうすることも出来ない。」

死刑廃止論に対する感情的な反発というものが、もしも感情だけのものであれば、死刑制度というものを考えるのは、感情の判断ではなく論理の判断こそがふさわしいということを主張することで足りるのではないかと思う。

藤原正彦さんの『国家の品格』には、「情緒的判断の方が優れている」という主張があったが、それは、情緒的判断がふさわしい対象に対してのことであるという限定が必要だろうと思う。論理的判断がふさわしい対象に対してまで情緒的に判断をすれば、それはほとんどの場合間違える。

死刑制度に関して、あくまでも感情的な判断を優先させて、論理などは二の次だとする人に対しては、中山さんが語るように、僕も、何を言っても無駄になってしまうと思う。だから、そういう人に対して話しかける言葉はもうないが、論理的には死刑廃止論を理解出来るけれども、何か引っかかりがある感情を持っている、という人とは語り合う何かがありそうな気がする。

感情的判断はよくないと分かっていながら、どうしても感情的な判断が心に生まれてくるのを感じてしまうとき、その感情をどう処理するかが、本当の意味で「感情的反発に答える」ということになるのではないかと思う。感情的反発しか感じられない人に対しては、もっとオトナになることを待つしかないのかなと思う。そういう人間しか今の日本にいなかったら仕方がないけれど、サイレントマジョリティは、感情だけではなく、まともな論理を理解しようとしているのだと僕は信じたい。そういう人たちと「連帯」をして、感情と行為の間を埋める論理を発見したいものだと思う。