亀井静香さんの死刑廃止論 1

亀井静香さんの講演をまとめた『死刑廃止論』(花伝社)という本を買った。「死刑廃止 info! アムネスティ・インターナショナル・日本死刑廃止ネットワークセンター」というページに載せられている、「死刑制度の廃止を求める著名人メッセージ」の中の亀井さんの死刑廃止論に深く共感する部分があったので、それをもっと詳しく知りたいと思ってこの本を買った。

この本を読んで思うのは、その主張がほとんど中山千夏さんと変わらないことだ。中山さんは、いわゆる革新派の議員で、亀井さんは保守本流自民党議員だった。まったくイデオロギー的には違う二人が、死刑廃止論という点では見事に一致する。これは、死刑廃止論が、イデオロギーを超えた客観的な真理性を持っていると言うことではないかとも思う。少なくとも、抽象論のレベルでは、正しい論理展開をしていけば、同じ結論に到達するのではないかと思う。

亀井さんの講演は、まず「人の命や自然環境を大事にしない社会は、健全な社会ではない」という社会観を表明する部分から始まる。この前提があるからこそ死刑廃止論という結論へ論理的に展開していくのだ。亀井さんは、南米の革命家であるゲバラを尊敬しているという。その心情が、この信念と結びついているのだろうと思う。僕も、「モーター・サイクル・ダイアリーズ」という映画を見て、ゲバラの魅力を知った。

ゲバラの素晴らしさは、貧しい人や虐げられた人への共感能力の高さと、その共感を自らの行動に結びつける連帯の意識の高さだ。映画では、ハンセン氏病の施設でボランティア的な活動をするゲバラが、手袋をせずに素手で病人と接する姿が描かれていた。病理学的な知識によって感染しないことを確信しているとは言え、その時の世間の常識に従えば、手袋をしたとしても不思議ではないが、断固として素手で接しようという姿に、病気で苦しんでいる人々と本当の連帯をするのだというゲバラの決意が感じられた。

ゲバラの連帯意識は、パブリックマインド(公共心)の最たるものだと思う。そのゲバラを尊敬している亀井さんは、やはり強いパブリックマインドの持ち主であろうと想像出来る。これは政治家にとってもっとも必要な資質だ。政治家を私腹を肥やすような仕事だと思っている人間は、いくら権力を握っても一流の政治家とは言えないが、パブリックマインドを持った人間は、たとえ選挙に敗れるようなことがあっても一流の政治家と言えるだろう。

幸いなことに先の選挙で亀井さんは広島で当選した。ホリエモンと亀井さんを比べたとき、そのパブリックマインドの差は歴然としている。ブームに流されることなく亀井さんを選んだ広島の人々に大きな拍手を送りたいと思う。その亀井さんが語る死刑廃止論は、非常にわかりやすく、3つの論点をあげている。第一の論点は次のものだ。

「国家権力が、犯罪者に、凶悪犯罪をやったと言うことで命を絶つ、国家権力が手足を縛って命を絶つと言うことは、近代国家においてやるべきではない。昔からやるべきでなかったとはもうしませんが、現在においてもそれを続けていると言うことは、日本民族の恥ではないかと、このように思っているわけです。」

亀井さんも、国家の行為としての死刑を問題にしている。そして、近代国家においては、このような制度は廃止すべきだと主張している。近代以前の遅れた国家では、「人の命や環境」を第一に考えることが出来なかった。だから昔については仕方がなかったとも言えるが、日本が近代国家になったというのなら、これは廃止すべきだというのが亀井さんの主張だ。

感情的な反発に対しては、「憎悪と報復の連鎖を断つ」のが、やはり近代国家の市民のあるべき姿ではないかという主張をしている。「憎悪と報復の連鎖」は、終わり無き殺し合いをもたらすだけであって、世界中のテロ行為を見れば、それがよく分かる。

また、この「連鎖を断つ」ためには、「人間の心の中には、悪魔と天使と仏が同居している」という人間観を持つことが必要だという指摘も頷けるものだ。この人間観は、とても深い洞察を含んだもので、短絡的な感情に流されるのではなく、物事を総合的に深くつかんだ末に出てくるものだろうと思う。亀井さんのパブリックマインドの深さから来るものだと思う。

「国家が悪魔を退治していく。これは極めて大切な仕事であります。しかし、同時に人間の中に宿っている仏の心と言いますか、天使の心を引っ張り出していく、そう言う努力を国家がやらなければならないのではないかと思います。悪いものを制裁するという国家だけであってはならないのではないか、私はこのように思っているのであります。」

と語る亀井さんには感動的な共感を覚えるものだ。亀井さんに対する尊敬の念が高まってくる。このことを、そんなものは理想論だと切って捨てたい性悪説の人間観を持っている人がいるかもしれない。しかし、そう言う殺伐とした性悪説が、「人の命や自然環境」を大事にしないことは明らかだ。この前提を持つと言うことが、人間の心の中の天使や仏を信頼することを選択するという姿勢に結びついてくる。すべてはこの前提にかかってくることになるだろう。

亀井さんの第二の論点は、「死刑に犯罪抑止力はない」と言うことだ。これは、元警察官僚だった亀井さんの言葉だけに、非常な重さを持った言葉だと思う。死刑があれば凶悪犯罪を犯さないと言う意識を人々は持つという主張に対して、亀井さんは次のように反論する。

「死刑があるから犯罪を犯さず、死刑がなければどんどん人を殺してしまうと言うような、そのような理性的判断を元に犯罪を犯すというようなことは、ほとんど無いと思います。ごくわずかな例外はあるでしょうが、多くの人間にとっては、死刑制度の有無と、犯罪を犯す、犯さないと言うこととには関係がないと思います。」

僕がこれに賛成するのは、多くの犯罪が、感情に流されて行われるものが多く、確信犯的に用意周到に計画されることは少ないと思うからだ。以前にも例として引いたが、イタリアの古い映画「刑事」では、こそ泥に入った青年が、そこの女主人の突然の帰宅に気が動転して、理性的な判断をすることなく殺人を犯してしまった。

彼は、こそ泥さえしなければ、小心で善良な青年だった。マトモに働かず、人を殺して平然としているような極悪人ではなかった。確信犯的に殺人を犯しても平然としていられる人間は、推理小説の中にしかいないのではないだろうか。まともな人間だったら、感情に流されずに人を殺してしまうと言うことはないのではないだろうか。亀井さんが語るように、「生まれながらにして社会的に危険な人」は、「病理学の世界に属するごく一部」ではないのだろうか。

人間が凶悪犯罪を犯すのは、「生まれ育った環境とか、社会の状況」というものが大きいという亀井さんの指摘は頷けるものだ。もし犯罪を犯した人間が、「まったく別の環境にあったとしたら、必ずしも凶悪犯罪を起こすことはありません」と亀井さんは語っている。これも、警察官僚として、多くの犯罪者を見てきた経験から、このような言葉が出てくるのだと思われる。

社会は、このような犯罪者を抹殺することで犯罪者を一掃することは出来ない、と亀井さんは言う。社会に、犯罪者を生むような温床があれば、それは偶然そのような環境に陥った人を犯罪者にしてしまう可能性がいつも存在する。だから、社会全体のことを考えれば、そのような環境をこそ何とかしなければならないという結論が出てくる。これが、亀井さんが言う「人の命や自然環境を大事にする」と言うことだ。この前提は、社会全体のことを考えるという、高いパブリックマインドから出てくる前提なのだと思う。

死刑に犯罪抑止力があると思っている人に対する次の具体的な事実の指摘は、一つの反例として正しいものだと思う。

「よく、死刑制度は犯罪の抑止力になっているのではないかと言うことを言われます。
 しかし、もしそうであれば、死刑制度を続けているアメリカや日本では凶悪犯罪がどんどん減らなければいかんわけです。
 現実は逆で、激増しているわけであります。しかも、未だ経験したことの無いような、凶悪犯罪が、アメリカでも日本でも増え続けておるわけです。
 また、では死刑制度を廃止した国々で、凶悪犯罪が増えているかと言えば、そう言うことも報告されておりません。
 そうしたことも、死刑制度が抑止力になっているとは言えないことの客観的な証明になっていると思います。」

犯罪の抑止には、死刑制度は直接的な影響はあまり与えていないと受け取るのが正しいと思う。むしろ、社会的な環境が大きいだろうことは、マイケル・ムーアの「ボウリング・フォオ・コロンバイン」などを見ていると感じるものだ。銃の所持が認められているアメリカとカナダを比べてみたとき、銃の使用による殺人は、カナダの方が圧倒的に少ない。

この映画によれば、カナダの人はドアに鍵さえかけないとも報告されていた。社会的に、犯罪が極めて少ない環境にあるのだ。カナダは、ちなみに、1998年にすべての犯罪について死刑を廃止している。カナダの犯罪の少なさは、死刑との関わりではなく、社会的な環境との関連で理解した方が正しいだろうと思う。

亀井さんの第三の論点は冤罪の可能性を論じるものだ。これは項を改めて考えてみたいと思う。