亀井静香さんの死刑廃止論 2

亀井さんの第三の論点である冤罪の可能性について考えてみたいと思う。これは、死刑廃止論者が必ず取り上げるものであるが、亀井さんは元警察官僚だけに、その語り方にもリアリティを強く感じるものがある。実際に冤罪が作り出される現場にいたと言うことの重さを強く感じるものだ。まずは、事実の指摘として、次のようなものがある。

「警察時代の私の経験から言いますと、被疑者が逮捕され娑婆(しゃば)と遮断された状態になり、縄手錠をされて引きずり回されるようなことになりますと、異常心理、いわゆる拘禁性ノイローゼになってしまうことが現実に非常に多いのです。
 羞恥心も全部見透かされ、すべてを預けてしまうような心理状態です。まるで自分の子どものような心理状態と申しますか、取調官との関係が、王様と奴隷のような心理状態となり、すべて取調官のいいなりになってしまうのです。絶対的権力を握られてしまい、取調官の全くの言いなりになる被疑者がかなり多くいます。」

拘禁性ノイローゼでなくても、権力関係にある人間の間には、「言いなりになる関係」というものが出来るだろうことは、自分の日常を振り返ってみてもそう感じられる。近代民主主義国家の市民意識を高めてきた人は、このような権力関係ではなく、対等で自由な関係こそが人間的だという思いを深めるだろうと思う。

被疑者は、凶悪犯罪を犯したのだから仕方がないと感じる人もいるかも知れないが、被疑者は、まだ犯罪を犯したと決まったのではないのだ。疑いはかけられているが、それが本当かどうかは分からないと言う「推定無罪」の原則が、近代民主主義国家の取るべき姿勢でなければならない。逮捕されただけで犯罪者であると決まるわけではないのだ。

権力関係によって言いなりになってしまうということを問題だと考えられるのは、この「推定無罪」の原則を持っているからだと思う。亀井さんについては、その保守主義イデオロギーに反発する人もいるだろうが、死刑制度に関する限りでは、近代民主主義国家の市民意識を持っていると僕は思う。その意識が、すべてにわたって貫かれていないことが欠点だとしても、貫かれている死刑制度に関する考察は、非常に水準の高いものとして受け止めることが出来ると思う。

死刑制度以前に、このような権力関係からの取り調べを問題にしなければならないだろうと思う。これが冤罪を生む温床になるからだ。冤罪を生む可能性がなければ死刑制度があってもかまわないと言うことではないが、冤罪を生む可能性があることが、死刑制度を否定する根拠になることは確かだ。死刑が執行された後に冤罪であることが分かっても取り返しがつかないからだ。間違いを修正する手段を残すために死刑制度を廃止するというのは、論理的に整合性のあるものだと思う。

現実の冤罪の可能性について、亀井さんは次のようなことも指摘している。

「今の刑事訴訟の立場からすれば、当事者対等・無罪推定の原則で公判廷に立って公平に行われているかと言えば、決してそうではありません。
 しかも今の司法制度の下で、依然として自白が「証拠の王」と言うこと、これは変わりありません。
 こうした実態の中では、あらゆる犯罪における捜査や判決には、常に冤罪の可能性があると言うことを我々は冷静に考えておく必要があります。
 特に、死刑判決が下されるような重大犯罪においてはなおさらのことです。」

この冤罪の存在については、冤罪で濡れ衣を着せられる人の感情を捨象して、一般論として「冤罪で死刑にされるのは、それは何万分の一の確率だから、社会防衛上仕方のないことではないかという人がいます」と亀井さんは語っている。しかし、「無実で処刑される人にとっては、それは自分の百パーセントの話なのであり、何万分の一の話でないのです」と、そのような考え方に反論している。僕は、この反論は正当なものだと思う。

もし、確率的に仕方のないことだと主張するのなら、その人は、その論理を被害者の側にも使わなければならなくなる。論理というのは、一般化すれば一般的な対象にはすべて当てはめなければならないからだ。そうすると、社会に犯罪が起こる確率はゼロにはならないのだから、犯罪によって自分の家族が殺されても、それは確率的に低いことだから仕方がないと言わなければならない。

冤罪者の存在を仕方がないと片づける人は、犯罪被害者についても、論理的には仕方がないと片づけてしまう人だ。冤罪があるがゆえに死刑廃止をしなければならないと考える、亀井さんのような死刑廃止論者は、加害者のことを考えるだけで、被害者のことを無視していると非難されることがある。しかし、冤罪の当事者は、加害者ではないのだ。むしろ被害者と言ってもいいような人だ。その被害を自分のことのように受け止めることが出来るのが死刑廃止論者なのである。だから、死刑廃止論者は、被害者を無視しているのではなく、被害者のことをも自分のことのように受け止めることが出来る人間だと僕は思う。

犯罪による冤罪という被害もなくしたいと考えるのが死刑廃止論者なのだと思う。犯罪による直接の被害者の感情を考えると、死刑廃止に反対だとする人もいる。これは感情論として、もっとも強いものだろう。しかし、「加害者は許せない だけど死刑には反対です」という、犯罪被害者の遺族である原田正治さんのメッセージを読むと、被害者の感情というのが、単純な復讐感情だけではないことが分かる。

原田さんの話を聞くと、むしろ被害者と加害者が向き合うことで、お互いを理解し合うことの中に、本当の意味での被害者感情の癒しというものがあるような気がする。アメリカなどでは、犯罪被害者と加害者が対話をするような制度があって、それによって癒される被害者が多いそうだ。

日本でこのような努力をしている人々は、むしろ死刑廃止論者の方に多いと言うことを聞いたことがある。被害者感情を理由に死刑存続を望む人々は、復讐感情の方は考慮に入れてくれるが、それ以外のさまざまの複雑な感情に対してはほとんど配慮していないと言うのが実情ではないだろうか。そういう点が、中山千夏さんなどからは、復讐感情は本当の意味での被害者の感情ではなく、第三者が自分で抱いている感情を被害者に投影しているだけではないかと指摘されるのではないかと思う。

亀井さんは、「何万分の一の確率だから、社会防衛のためだから、いいじゃないか」という感覚を、自分に損害がなければ他はどうなっても知らないと言う、連帯感のなさとして批判している。「自分さえよければ」という感覚につながることを問題にしている。他者のことを考慮に入れるというのは、道徳的な問題ではあるが、これは実は人間が生きていく上で必要な道徳ではないかと思われる。人間は、協力して、他者の労働によって自分の生活を補って生きていかなくてはならない。金さえ払えば、他者がどんな状態にいようが自分の権利を行使出来るという、社会全体とのつながりを欠いた意識は、人間にとっては危険ではないかと考えているようだ。僕もそう思う。

「他人の犠牲で自分だけが幸せになるとか、安全でいたいなどと言う考えが世の中を覆ったら、この世の地獄が来ることは明らかです」という亀井さんの言葉は、単に道徳の押しつけだと受け止めるのではなく、パブリックマインドを語った正しい提言として受け止める必要があるのではないかと思う。他者の犠牲を見過ごしてはいけないのだ。自分がそのような立場に陥ったときに、それに納得がいかないことは、他者のこととして片づけるのではなく、自分のことのように受け止めないといけない。

亀井さんのパブリックマインドをもっと感じさせる言葉を最後に引用しておこう。死刑を廃止するという問題が、どのようにもっと大きな問題に関わっていくかと言うことを語った言葉だ。それは、「共生」という言葉と関わっている。文化・習慣・考え方・価値観の違う人々が、いかに「共生」していくかという問題と死刑制度は深く関係があるという指摘だ。

「さまざまに異なる民族や国家が一つの共通した価値観を持つことは、国と国とが戦争をしない、テロ行為を起こさせないための基本的な条件です。
 そういう意味では、この地球から死刑というものを廃止していく一つの運動になっていくだろうと思うわけであります。
 宗教も、歴史も、国家の発展段階も、民族も違う中で共有出来る一つの価値観、それが死刑廃止ではないかと思います。生きとし生けるものに対する共通の価値観、人間の尊厳についての基本的な考えの重なり合いと言ったものが、死刑廃止運動によって生まれてくるのではないでしょうか。
 これは、ただ単に制度としての死刑を廃止すると言うだけにとどまらず、とても大きな意味あることだと思います。」

実に格調高く素晴らしい言葉だと思う。このような大きな理想に支えられているからこそ死刑廃止を正しいと確信出来るのだろうと思う。これは、理想であるだけに現実に実現することは難しい。しかし、難しいからと言って理想そのものを捨ててしまえば、現実の現象を短絡的に捉えて、その場限りの行き当たりばったりの生き方になってしまうだろう。板倉聖宣さんが言うように、理想を持ちつつ妥協するという姿勢が大事だと思う。

大きな理想を守るためには、理想以外の現実にはいくらでも妥協的に振る舞ってもかまわないという姿勢だ。戦争をしない、社会の中で人が殺し合ったりだましあったりしない、と言うことを理想と考えて、そのための努力をしていくということを考えたい。そのための中心に据えることが出来るのは、亀井さんが言うように、死刑廃止を考えると言うことかも知れない。これは簡単には実現出来ないだろうが、これを考え続けることによって理想を守ることが出来るのではないかと思う。