日本共産党批判

日本共産党は左翼陣営にとって巨大な存在である。かつては左翼陣営を代表する社会党が、今では二大政党制としての民主党に吸収されてしまったので、おそらく、影響力の大きさで言えば、左翼陣営としては日本共産党が最大の存在になっただろうと思う。

この共産党に、反対の陣営である右翼陣営から批判が集中するのはある意味では当然のことだと思う。むしろ、右翼に批判されないような左翼など、本物の左翼ではないとも言える。だが、日本共産党は、同じ左翼陣営からも強く批判がされてきた歴史を持つ。この批判は、右翼の批判とは違って、本物の左翼ではないという面が批判されてきたように思う。左翼性がまだ生ぬるいというような感じだろうか。

僕が師と仰ぐ三浦つとむさんも、かつては共産党に所属していて、スターリン批判をきっかけに除名処分になった。その関係からか、三浦さんは、共産党マルクス主義理論そのものを間違った理論として、「官許マルクス主義」と呼んで批判していた。

障害児教育運動で影響を受けた津田道夫さんも除名処分を受けた人だった。除名処分を受けた人をいろいろ探してみると、各方面での優れた人間が多いように感じる。このように優れた人間が離れていってしまうような共産党の欠陥というものは、左翼陣営として一つの大きな支柱としての役割を担うべき存在としては残念なことだと思う。

左翼と右翼というのは、科学的真理のように、どちらかが正しくてどちらかが間違っているというようなものではないと思う。これらがイデオロギーと呼ばれるのは、それが立場として選び取られるものであるからだろうと思う。死刑廃止の問題とよく似ていると思う。死刑廃止は、正しいからそれを選択するという問題ではなく、死刑廃止を選んだ上での社会の構築を目指すという、自己決定の問題として捉える問題ではないかと思う。

左翼というイデオロギーも、その立場を選択した上で、自分の生き方をその基礎の上に築いていくというものになるのではないかと思う。もちろん、反対の右翼のイデオロギーを選んだものは、その基礎の上に自分の生き方を築いていくので、両者はイデオロギーと呼ばれているのだろう。

左翼も右翼も、その立場が違うので、相手が間違っているという批判は当然のことだと思うが、よくある反共宣伝と呼ばれるようなものは、かつては左翼陣営だった人間が転向して激烈な攻撃を左翼陣営に行うというものが多い。これは、かなりの部分が感情的な攻撃に陥っていることが多い。それ故に、相手を罵って攻撃する分だけ、自己肯定を図っているように見えるので、そこから学ぶことはあまりない。

セクハラ問題で議員を辞職し、共産党を離党した筆坂秀世さんが書いた『日本共産党』(新潮新書)という本も、形の上では、共産党に裏切られた恨みや辛みを綴った反共宣伝かも知れないという先入観を持たせるような本だ。しかし、この本はそのような本では全くなかった。

筆坂さんは、基本的な思想としての共産主義への共感は捨ててはいないようだ。現実の共産党という組織については、いわば事故に遭ってしまったような感覚でセクハラ問題を受け止めているように感じる。そのような事故を起こすような組織に問題はあるけれども、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という感情的なことを綴った本ではなく、真の左翼陣営として、組織のあり方も正しいものであるべきだという提言を語ったもののように読めた。

左翼陣営は権力を持たない方だから、すべての面において、正しい行動・行為によって、その正当性を示していく必要がある。そうでなければ多くの人に信頼を持ってもらうことは出来ないだろう。不透明で、不正な組織運営がされていれば、組織内での利権争いには勝てるかも知れないが、大衆運動的には勝てないと言うことは、三浦つとむさんの批判のポイントでもあった。

三浦さんは、マルクス主義の理論的な正しさを確信していたし、僕も、三浦さんが語る弁証法を基礎にした理論には高い信頼を感じていた。それが左翼理論だというなら、僕も左翼理論の支持者だと言うことが出来る。しかし、どうも組織としての共産党を支持出来るかと言えば、三浦さんが批判していたこともあり、政治的な支持は出来ないでいた。

筆坂さんは、党中央の中枢にいた人間であり、党の組織面を細かい部分までよく知っている人間だ。三浦さんは、学者として共産党にいただけで、政治的な地位は持っていない人だった。だから、その批判も理論的な面が強かったが、筆坂さんの批判は、現実の組織のあり方に関するものが多い。しかも、それは恨みを綴った悪口ではなく、的確にその欠陥を指摘したもののように見える。僕が抱いていた共産党組織への違和感が、この筆坂さんの本によってやはりそうだったかと言うことがよく分かった。

民主集中制と呼ばれる共産党の組織原則は、民主的でありながら中央集権的な命令系統を確立するという矛盾を実現するものとして、理論的には正当性を持っている。党中央の方針は、下部組織で徹底的に討議され、それぞれの組織員が、自己決定的にその方針を選び取るという民主的手続きを経て、上部の命令に服従するという中央集権的なあり方の正当性を持たせている。

民主的な手続きがなく、上部の命令に服従することを求めれば、上部の恣意的な命令に従うという個人の自由を否定することになってしまう。また、多くの人の力を集結しなければ、大きなこと(運動)も出来ないということから言えば、中央集権的なあり方の必要性も理解出来る。これらの両者を統合して達成するには、理論的には民主集中制という形を取るしかないだろう。

これは、理論的には三浦さんも肯定していた。いわゆるプロレタリア独裁の必要性を、三浦さんも同意していたように僕は感じていた。しかし、この民主集中制は、理論的にはその正当性が理解出来るのだが、実際にそれに成功した組織はほとんどないというのが現実ではないかと感じる。

日本共産党では、上部の指令を下部が検討するという形を取るものの、その指令の読了率というのは極めて低いそうだ。筆坂さんは、せいぜい3割程度と言っている。3割程度が指令を読んでいて、それで徹底的な議論が出来るとは思えないし、自己決定的にその指令を受け止めて活動するという組織原則が成立するのは無理があると思われる。

さらに、末端の共産党員というのは、日常的な活動がたくさんあって、それに追われる生活になっているようだ。特に大きなものが、機関誌である『赤旗』の販売拡大という運動があるらしい。

共産党が行う『赤旗』の販売拡大は、商業紙が行う販売拡大とは違うと思うのだが、筆坂さんの本を読んでいるとどうもそれほど変わらないような感じもする。商業紙の販売拡大は、その中身で取ってもらうと言うことはほとんど出来ないので、おまけを付けたり、購読料を下げて取ってもらったりしている。

しかし、『赤旗』の場合は、その中身に共感して購読してもらわなければ、いくら部数が増えてもそれだけでは何にもならないのではないかと思う。一番重要なのは、その中身が、人々の要求を分かりやすく捉えて解説していたり、世の中の日々の出来事の中で、一般大衆の利害の問題として見えにくいものを見やすく解説したりして、「目から鱗が落ちる」というような体験をしてもらって、本当にいいことを書いていると言うことで購読してもらわなければならないのではないかと思う。

それが、どうも大事なのは部数が増えることであって、セールスマンとしての能力に長けている人間が評価されているような感じもする。それは、まったく本来の思想的なものとは相容れない間違いではないかと僕は感じる。

末端の共産党員というのは、非常に献身的で誠実な人が多いと思う。その人たちが、なかなか達成感を味わえずに、いつも追いかけられているような感じで活動をしているとしたら、その理想の高さに比べて、現実に得られる幸せが何と薄いことかと思う。末端で献身的に働く人々こそが満足出来る活動を実現するべきではないかと思う。そのようなことが出来る組織であれば、組織が発展し大きくなっていくだろうと思う。日本の組織というのは、どうして末端が幸せになれない構造になっているのだろうと思う。それとも、これは組織というものが持つどうしようもない属性なのだろうか。

マルクスエンゲルスが考えた抽象理論としてのマルクス主義は、僕は正しい理論だと思う。それが左翼理論だというなら、僕は左翼理論の支持者だ。しかし、僕は左翼組織というもので、支持出来るものに出会ったことがない。組織として支持出来ると思ったのは、仮説実験授業研究会という組織くらいだ。この組織は、完全に自由な自己決定的な組織だった。

仮説実験授業研究会では、組織として何かを決定すると言うことは全くない。何かを、その組織の看板を掲げてやりたいとなったら、総会において立候補するだけでいい。しかし、それが認められたからといって、組織がそれを応援することはない。それは、手を挙げてやりたいと言った人間がやるべきもので、同じようにそれに賛同するやる気のある人間がそれをやればいいというふうに考える。

もし、誰も賛同する人間がいなかったら、それは手を挙げた一人がやればいいということになる。そんなときに、組織として決定したのだから、決定したものは手伝うのが当然だというような道徳的な原理で動くことはない。もし、誰もそのことに関心を持たないなら、それは民主的な過程を経て消滅するのが正しいというのが、仮説実験授業研究会的な発想だ。

民主集中制というのは、このように無関心という意思表明も民主的に受け止めるべきだろうと思う。そもそも読了率が3割程度しかないと言うことなら、それは民主的に否定されているのだと中央は受け止めるべきだ。

赤旗』の部数拡大が大事だというなら、それが大事だと主張する人間でまず頑張ってみるべきだろう。組織決定をしたのだから全員でやるべきだと主張するなら、それではその決定をした人間だけで組織を構成するべきだと言うことになる。そういう組織は、小さな団結しかできない組織になってしまうだろう。

赤旗』の販売拡大の活動はどうも苦手だししたくはないが、その他の大衆に奉仕する活動ならしたいという人間を吸収出来るような組織の方が、左翼陣営としては役に立つ組織なのではないだろうか。『赤旗』の販売拡大をすることが共産党の組織活動だというなら、僕はその組織とはたぶん未来永劫に関わりを持つことはないだろう。

筆坂さんは、共産党という組織を離れて初めて見えてきたことがあったと語っている。それは本当だろうと思う。組織内にいると、考えるまでもなく当然だと感じてしまうことがたくさんあるだろうと思う。しかし、その当然のことが、実は組織の発展を阻んでいることもあるのだと思う。単なる罵詈雑言ではない、冷静な指摘が含まれている、この筆坂さんの本は、共産党にとっては自らを振り返る鏡として意義のあるものではないかと思う。