セクハラについて考える

僕は、昨日のエントリーで筆坂さんの『日本共産党』(新潮新書)を取り上げて考えてみたのだが、その中で、筆坂さんのセクハラ問題を「交通事故にあったようなもの」という比喩をした。この比喩は、かなり微妙な問題を含んでいるのを感じる。

まず、日本におけるセクハラの定義だが、「セクハラ」によれば次のように書かれている。

「セクハラとは、「性的いやがらせ」のことをいいますが、広くは、
「相手方の望まない性的言動すべて」をいいます。

セクハラとなるかは、あくまで平均的な女性がその状況で、そのような
言動を受 けた場合、不快と感じるかを基準に判断されます。

とはいっても、特に繊細で不快と感じやすい人の場合でも、
不快な言動が続けられた 場合にはセクハラとされることもあり、
快か不快かを決めるのはあくまで、そのよう な言動を受けている人
ということになります。 」

これはかなり問題のある定義だと思われる。この定義が一般的に「セクハラ」と言われるものを判断する基準になっているとしたら、これはかなり恣意的に判断される可能性を持っていると思う。

第一の問題点は、「平均的な女性」という基準が曖昧で、何が平均的かを決められないと言うことだ。「快か不快かを決めるのはあくまで、そのよう な言動を受けている人」と言うことになってしまえば、極端なことを言えば「顔を見るだけでも不快」と言うような感情的な女性だったら、存在そのものがセクハラだと言われかねない。

上の定義は、いわゆる「差別」の言動の規定とよく似ている。「差別」に関しても、そのような言動を受けた相手が「差別」と感じるかどうかに重点がおかれている。言動をした方には、まったく「差別」意識がなくても、それを受け取った方が「差別」だと感じれば糾弾されるという図式がこれまでもあった。

三浦さんは、このような「差別語」の問題に関して、言語というものが元々対象の差異に応じて表現するものであることを指摘して、「すべての言語は差別語である」と言うことから、不当な「差別」になる規定を論じていた。すべての言語が差別語であるなら、どんな発言をしても相手によっては「差別」と受け取られてしまう。

しかし、それでは社会的な判断としては成立しない。社会的な判断は、論理的・民主的な合意という妥当性をもっていなければならない。「差別」と受け取ることが、考えすぎの勘違いである場合は、それは「不当性」はないという判断をしなければならない。「セクハラ」の場合も同じような構造を持っていると思われる。

セクハラの場合も、それを受ける側に判断の基準を持ってくれば、その判断は恣意的なものになり、どんな言動であってもセクハラになってしまう。それは社会的な判断としては間違っているのではないかと思う。

三浦さんは「差別」というものを弁証法的な対象として考察した。同じような言動が、ある時は「差別」になり、ある時は「差別」にならない。これは、その言動がどのような状況の時になされたかによっている。条件の違いによって、真理の判断が違って来るというのが弁証法性の持つ特徴だ。

セクハラも、現実に行われる行為であるから、これも極めて弁証法的な対象だろうと思う。同じ行為があるときはセクハラになり、ある時にはセクハラにならない。むしろ深い愛情の表現になる場合もあるだろう。その区別はどこでつけなければならないのか。難しい問題であるだけに、単にその行為を受ける方の感情だけで判断してはならないだろうと思う。勘違いと言うことも大いにあるのだから。

筆坂さんの場合も、相手の女性が不快と感じるものをセクハラと判断するなら、これはセクハラと言うことになってしまうのだろう。しかし、筆坂さんの場合は、これまでそのような問題は何一つ出てこなかったと言うことを見ると、少なくともこのような意味での「セクハラ」の常習者ではないと思う。

たまたま、あのときだけが、筆坂さんの勘違いで、親密さを表そうとした行為が、なぜか相手には不快に感じられてしまったと言うことなのかも知れない。そうではないかと僕は想像して、「交通事故にあったようなもの」かもしれないと思ったのだ。

筆坂さんが、酒を飲んだときに、相手の感情を理解せずにいつでもべたべたしたような行為で相手に不快感を与えているような人間だったら、正しい意味での「セクハラ」だと判断されても仕方がないだろうと思う。しかし、報道を見る限りでは、筆坂さんのセクハラ問題はあの一件だけしか知らされていない。

僕は、陰謀説まで主張する気はないが、何らかの勘違いがあったのではないかとする方が現実には理解しやすいと思う。筆坂さんが、共産党中央の権力の座にいたので、そこから追い落とそうとねらっていた人もいたかもしれないが、それは証明するのは難しいだろうと思う。

もし筆坂さんが、相手に不快感を与えるという意味でのセクハラ常習者だったら、セクハラで告発されても仕方がないと思われるけれども、そうでないなら、セクハラで告発するのは酷なことだなと僕は感じる。一時の勘違い・過ちに過ぎないのではないだろうか。それも、取り返しのつく過ちだと僕には思える。これで議員辞職までするのは、ある意味では死刑宣告に近い重い刑罰だなと感じる。

ただ、筆坂さん自身も、細かい事実を調べて精査するのを望まなかったのだろうと思う。これに対しても二通りの受け取り方があるだろう。セクハラが間違いなかったので観念したのだという受け取り方もある。議員辞職という重い責任の取り方をしたことがセクハラの証拠だという受け取り方だ。

しかし僕は違う受け取り方をする。筆坂さんが、あくまでも事実で争うようなことをすれば、それは党に対するダメージがさらに大きくなったり、相手の女性ともかなり不愉快なやりとりをしなければならなくなっただろうと思う。そのようなことをしたくないという思いがあれば、過ちがあったというのは確かなので、何も弁解せずに処分を受けようということを考えたのではないかとも解釈出来る。

セクハラの処分を受けたと言うことは、このように解釈すると、むしろ筆坂さんの誠実さを表しているとも受け取れる。以前にマル激にゲストで出ていた沖縄密約事件の西山元毎日新聞記者が、裁判で問題になった女性との関係に関することでは、一切弁解をしなかったということを語っていた。事実とは違うこともあったそうだが、それは何も弁解しなかったらしい。

それは、新聞記者として取材源である人物を守りきれなかったという過ちをしてしまったことに対する責任の取り方だったと、西山さんは語っていた。そこでは、弁解をしなかったことは、その事実を認めたことになるのではなく、西山さんの誠実さを表しているのだと僕は感じたものだ。筆坂さんの沈黙にも僕はそのようなものを感じる。

筆坂さんは、おそらくセクハラ問題に関しては、これからも細かい事実を語ることはないだろうと思う。だからそれが本当にセクハラだったかどうかは論じることは出来ないだろうと思う。これはある意味では仕方がないだろうと思う。筆坂さん自身がそれを論じることを望まないのだから。議員辞職という重い責任を取ったことで、この問題には一定のピリオドも打ったことになっていると思う。

もし、筆坂さんのセクハラ問題を、セクハラとして問題にするのなら、それは筆坂さん自身ではなく、日本のセクハラ問題に疑問を持っている第三者が筆坂さんを応援するという形で提起しなければならなかっただろうと思う。しかし、共産党にはそのような方向でセクハラ問題を捉えている人はいなかったのだろう。

僕は、日本におけるセクハラ問題は間違った方向へ行っていると思っている。判断基準を、セクハラを受けたという人間の方へすべて持っていくのは間違いだと思う。セクハラを受けたという告発は気軽に出来た方がいいと思うが、それが本当にセクハラかどうかは慎重に判断する第三者機関がなければならないと思う。当事者の言い分を聞いて即断してはいけないと思う。

だいたいセクハラ問題のように難しい判断は、間違えることもたくさんあると自覚して判断すべきではないかと思う。そして、間違えたときの救済もあらかじめ考えておくべきだろう。告発された段階でもうセクハラをしたと決まってしまうのでは、容疑者の段階で犯人と決めつけるような犯罪報道に通じるものがある。

セクハラ問題は、男にとっては極めて重大な問題だろうと思う。これを甘く見てくれと言うのではなく、正しく判断して欲しいと思う。そうでなければ、将来的に、男の大部分が女に対して愛情表現をすることを躊躇するような時代がやってきてしまうのではないか。本当の愛情表現なのか、単なるセクハラなのかを正しく区別して欲しいと思う。そして、愛情表現というものなら、女性の拒絶にもかかわらず強引に押し進めると言うことを躊躇する方向へ男の方も努力していくべきだろう。

セクハラは、犯罪行為と愛情表現という、非常に広い範囲にわたる判断をする難しい判断があると言うことをもっとよく考えるべきではないかと思う。その典型例を正しく指摘していくことが必要だろう。そうでなければ、深いところで、男にとって反発を残すようなものになってしまうだろう。