トラックバック先のエントリーに対する雑感

トラックバック先のエントリーでの批判はほとんど的はずれだと感じているのだが、部分的に気になるところを雑感として記録しておこう。まず「こんな主張誰がしてるの?」の中の次の部分だ。

「ちなみに、「クラス名簿を男女混合にする」ってのは、あるかもしれない。しかしその真意は、「男女別にする正当性はどこにもない」というところからきているはずだ。もちろん、「男女混合」にもいろいろなものがあるだろう。家がお金持ちの順番とか(笑)、背の高さ順とか、学校から家までの距離が短い順とか。そのどれもが恣意的でしかない。もちろん、「あいうえお順」だって恣意的なのである。しかし、どんな順番も恣意的であるなら、その暴力的な要素が少なく、かつ調べるコストがかからないような順番がよいであろう。「あいうえお順」が最も正しいとは思わない。それに代わってより暴力的でない案があれば、僕はそちらに乗り換えてもいいと思っている。ただ現状ではそれが思いつかないからという理由で、暫定的に「あいうえお順」を支持している。」

これは、論理的に極めておかしいのだが、本人にはその自覚はないかも知れない。本当は「男女別にする正当性は考えれば思いつく」のだが、ここでは百歩譲って、その正当性がないと前提しておこう。しかし、この前提を置いたとしても、そこから「男女別の出席簿を否定する」という論理的帰結は出てこないのである。

もし、「男女別の出席簿を否定する」という結論を出したいのなら、「男女別の出席簿の不当性」を証明しなければならないだろう。それが論理というものだ。いったいどういう理由から「男女別の出席簿の否定」ということが出てくるのだろうか。

それでも、まだ「男女混合の出席簿の方にこそ合理性がある」という主張があれば、それに変えるという理由も納得出来る。しかしそれは、「そのどれもが恣意的でしかない」と言うことを語っている。男女別の出席簿の不当性が言えないのだったら、恣意性という点では両方とも同じではないかと思う。どうして、男女混合の方の恣意性を選ぶのだろうか?

「現状ではそれが思いつかないからという理由で」そうしているのなら、男女別の出席簿だって、他にいいものが思いつかないのだったら、どうしてそうしていけないということになるのだろうか。「男女別の出席簿に正当性がない」と主張するのはいいだろう。しかし、その主張から、「男女別の出席簿は駄目だ」という結論を出すのは論理的な間違いだ。それが極論に流れる論理の間違いにつながる。僕の指摘はここにあるのだが、論理のセンスが悪いとそこが分からないだろう。

現場の感覚としては、「男女別の出席簿」には合理性があるといえるのだ。一目で分かる差異として男女というのは、視覚的な明確さをもっている。男女別というのは、クラスの生徒の全体の把握には、他の方法よりも感覚的につかみやすいという合理性を持っているのである。もちろん、この合理性は、他の方法でも解決出来る合理性だから、男女別でなければならないというわけではない。

男女混合の出席簿でも、便利な方法が見つかればいくらでもそれに変えていけばいいのだと思う。だが、男女別がいけないという理由が、男の差別意識の現れだなどと言われると、僕はそんな理由は噴飯ものだと思うだけだ。いけないというのなら納得するだけの理由が欲しいし、積極的に変えていくのなら、そっちの方がいいという納得する理由も欲しいと思うだけだ。

さて「数学屋のメガネさんのエントリー「フェミニズムのうさんくささ」への疑問。」というのは、これが「疑問」というものであれば丁寧に答える必要があるとは思うが、もし「批判」であるとしたらやはり的はずれだろうと思う。とりあえず「疑問」と受け止めて、その部分に答えたいと思う。

フェミニズム一般を否定するのではなく、極論としてのフェミニズムの批判」を始めた後、いつの間にか「行き過ぎた」「極論としての」が抜け落ちた「フェミニズムに対するうさんくささ」を問題化してしまうという、「特称命題を全称命題にして取り違えるという論理的間違いに陥る」手法には問題があると思っています。」

という文章が「疑問」なのか「批判」なのか微妙なところだが、ここには、文章読解能力というリテラシーの問題が入っている。「フェミニズム」という言葉に対して常に「行き過ぎた」「極論としての」という修飾語をつけなければ、そのような意味としては受け取れないと言うことであれば、あそこの全文に対して、抜け落ちているところのすべてをそう解釈して欲しいということを言っておこう。

しかし、本来なら、文章というのは、単語で理解するのではなく「文脈」で理解しなければならないものだ。一つの文章の中で同じ単語が使われていても、その両者がまったく違う意味を持っている文章というのも存在する。そんなとき、いちいち修飾語をつけて表現するときもあるが、これくらいは文脈から読みとってくれと思いたくなるときもある。

だいたい言語というのは、本質的には概念を表現するものであるから、現実存在をそのまま表現することは出来ないのである。その概念を頼りに、現実存在との関係から意味をたぐり、概念には盛り込めない具体的な意味を読みとることが言語の理解と言うことだ。

もしインターネットで文章を読む人間の大部分が文脈を読むことが出来ないとしたら、すべての単語にたくさん形容詞をつけて書かなければならなくなるだろうが、それはかなり煩わしい文体になるだろうと思う。僕は、極力代名詞を使わないように、具体的な名詞を使って何を指すかがはっきり分かるようにと言う配慮をした文体にしているが、それでもかなり煩わしい文体になっていると感じている。これ以上煩わしい文体になるのなら、非常にやりきれない気分になってくる。

そして、「「特称命題を全称命題にして取り違えるという論理的間違いに陥る」手法には問題があると思っています。」という、批判として読める部分に関しては、批判としては甘いし、論理的に明確でないと僕は感じている。

僕が論じていた特称命題というのは「様々」という修飾語がついている言葉で、この言葉は、意味から言って「すべて」を指しているのではないから「特称命題」であることが明確なものだ。それに対して、「様々」で言及していた対象を、いつの間にか「すべて」にしてしまったら、「特称命題を全称命題にして取り違えるという論理的間違いに陥る」だろうと言うのが僕の主張だ。

もし僕が使っている「フェミニズム」という言葉が、このような論理的間違いに陥っていると批判するなら、どの部分で使われている「フェミニズム」が「特称命題」であり、どの部分で使われている「フェミニズム」が「全称命題」になっているかを具体的に指摘すべきだろう。同じカタカナで書いているからと言うことでは論理的な指摘にはならない。文脈からそれを指摘して、その解釈が妥当であるということが証明されなければ、それは論理的な批判としては弱いのである。

それから、最後の部分では、言論の立ち位置について言及した部分があるが、これは読みようによっては言論封殺につながる発想を持っている。立ち位置を表明しなければものを語ってはイケナイというような意味にも読みとれる恐れがある。それは、言論の自由の否定ではないのか。

言論の自由というのは、何か資格があって、その資格をクリアしなければ持てない権利なのか。それは、フェミニズムの発想に反するのではないだろうか?僕の立ち位置には何ら陰謀的なものは無い。論理的に真っ当なものを求めたいと言うだけのことだ。だから、論理的に真っ当でないと思えば批判するだけのことであって、その批判が何か目的があってするようなものではない。

逆に言うと、何か目的がなければ批判することは許されないのか、という疑問を提出したい。「フェミニズム」という言葉の周辺で語られる言説にうさんくささを感じ、論理的に真っ当でないと感じたからこそあのような批判を提出した。それだけのことだ。

僕は直接「フェミニズム」の運動に関わっている人間ではないから、そこに間違いがあると思っていても、それを是正しようなどという意志は持たない。それは、そこにいる人間が努力すればいいことだと思っている。ただ、外から見るとこんな風に見えるよ、という提言は、まったく役に立たないいらないものなのだろうか。それが役に立たないと思うのなら聞き捨てておけばいいのだと思う。しかし、そのような発言を許さないという姿勢は、言論の封殺ではないかと思う。

もしそのようなメンタリティをもっている人間がいたら、思想・信条・表現の自由、それから言論の自由というものの権利についてもう一度よく考えた方がいいだろうと思う。これらは基本的人権に属するものだ。だから、この権利を行使する条件は、その主体が人間であればいいと言うことになる。その他の資格はいらない。

ある言論に対しては、それが間違っていると思えば批判すればよいのだし、批判するまでもないことなら聞き捨てておけばいい。ただし、批判に対しては反批判が返ってくることは覚悟しなければならないだろう。その批判が本質的なものであれば、おそらく自分の「構造的無知」を気づかせてくれるだろう。それはかなり痛い経験になると思うが、成長することは確かだ。