告発のための告発

ブログになる前の楽天広場では、かつて著作権法の違反を摘発することが流行っていた頃があった。当時はまだインターネットも大衆的な開放がされたばかりの頃で、よく知らなかったり慣れていなかったりする人たちが、著作権のある映像を無自覚に自分の日記に貼り付けていたりしていた。

それに対して、啓蒙する意味で親切に教えているのなら、この著作権法違反の摘発も、僕はそれほど違和感を感じなかったと思うが、どうもそれは啓蒙的ではなく、むしろ摘発して告発すること自体が目的ではないかと思えるようなものが多かった。

他人の欠点を指摘して、自分がそれを諭すような立場に立ったときに快感を覚えるという種類の人間がいるのだなとその時僕は思った。そのような快感を感じる人間にとっては、著作権法というのはまったく便利な法律だという感じがした。何しろ違反かどうかは極めて分かりやすい。だからその指摘は簡単に出来るし、何しろ法律だから、自分の方に絶対的な正しさがあることが証明出来る。

安心して他人を叩けるとなったら、叩くことに快感を感じる人間にとっては、毎日叩く材料を探すのが面白くて仕方がなくなるだろう。そういうものに快感を感じない人間としては、叩かれる材料の提供だけはしないようにしようと気をつけたものだった。僕はそれまでは歌詞の全文を掲載したりもしていたが、引用だけにしたものだった。引用であれば著作権を侵害することはないからだ。

著作権法違反を告発する人たちは、自分たちが正義を実現していると思っているから、自らの善意を疑うことがなかっただろう。だから、告発を楽しんでいるのだと言われると腹が立つかも知れない。しかし、それは自覚がないだけで、著作権法の本質を理解していれば、単純な摘発だけをして、何かいいことをしたなどと思えるはずがない。

著作権というのは、創作者の知的所有権というものを守るために作られたというのが本質的なものだ。創作物によっては、単なるコピーであっても大きな利益をもたらすものが存在する。そのようなものを、最初に作り出した人間を無視して、利益の方だけをかすめ取ることが横行したら、創作意欲そのものが衰えてしまう。優れた創作を期待するには、そのような創作者を守る必要があるという発想から生まれたものが著作権法であり、本質はそこにある。

だから、本質的な判断としては、創作者の知的所有権を侵していない、そのプライオリティーを尊重していると言うことがあれば、本質的には著作権侵害ではないはずなのである。それを、単純に著作権があるものを使ったと言うだけで、犯罪を犯したという指摘をするのは、啓蒙的な意味では間違いだと思う。もっと他の方法で指摘するべきだし、明らかな著作権侵害を象徴的に告発すると言うことが必要だったと思う。

実際には、著作権法違反摘発の流行は、その著作権を管理している巨大企業に利益を生むことにしかつながらなかったと思う。その善意は、巨大企業の利益を高めることにしか役に立たなかった。それが本当に創作者を守ることにつながっていたかどうかは極めて疑わしい。

今はCDがかなり売れなくなってきているそうだ。著作権を守るために様々な制限を課したものだから、そのような面倒なものに対する関心が薄れたのだろうと思う。流行のCDは、特に優れた創作者が作り出したものとは限らないから、人々の関心がなくなれば、ぜひ手に入れたいという意欲はなくなるのだろう。機械的著作権法の適用は、かえって著作物の衰退を招くと言うことがこれからも出てくるのではないだろうか。

告発のための告発に対して、大衆的な気分がどのように反応するかと言えば、そのような面倒なものには関わりたくないと言うことになるだろうと思う。著作権法違反を摘発されるようなら、著作権が存在するものには一切手を出さないとした方が安全だ。それを味わって楽しむと言うことは関心の外になるだろう。芸術の衰退にもつながるのではないかと思う。

告発のための告発が、このように、本来の目的ではない結果を招くと言うことは、それは論理的必然ではないかと思える。かつての差別糾弾運動にもそのような面が見えた。差別糾弾運動は、差別反対運動の一つで、その運動によって差別というものをなくすことを目指したものだった。しかし、それは本当に効果があっただろうか。

差別というものの現象の中にある本質的な不当性というものに、人々が目覚めて、差別反対運動を支持する人が増えただろうか。僕は、まったく効果がなかったと思う。それどころか、差別反対運動に対する反感をすら生んだのではないかと感じている。

僕が実際に関わった問題でも、ある印刷物の誤植が、差別意識の現れだと追求されたことがある。そういう追求をする人間は、人間には間違いがあるということが分かっていないのかと思う。三浦つとむさんは、誤謬というのは、心がけが悪かったり、頭が悪かったりして起こるのではなく、人間の認識というものが制限されているところから必然的に生じるのだと論じていた。

誤謬が人間の本質的なものであるなら、誤植に関しても、短絡的に差別意識の現れだと追求するのではなく、何故誤植が起こったのかという具体的な検討が必要だろう。教員の仕事の傍ら、忙しい中で印刷物の処理をしなければならなくなったとき、それに専念して仕事をしているわけではないのだから、そこに単純なチェックミスがあったとしても仕方がないと普通は思うだろう。

しかし、社会生活の中で、教員という地位にいることが差別の体系の中で必然的に差別意識をもたらすのだというような、教条的な思い込みがあったら、単純なミスによる誤植も、そうでない解釈がされてしまう。

古いソビエトの映画では、ある誤植を訂正するために、徹夜で訂正処理をするシーンがあったというのを聞いたことがある。それは、その誤植が、共産主義に対する忠誠心を疑わせるものになっていたからだったと記憶している。このように、人々の心の中まで支配するような恐怖政治というものも、ソビエトを始めとする社会主義国家の崩壊の原因だろうと思う。人間の心まで支配するような国家は、いつかはこのように強烈なしっぺ返しを受けるのだと思う。

告発のための告発も、最後は人間の心を告発するところに行き着く。著作権法違反をする人間も、差別をする人間も、その心がけが、元々そのようなものだったのだという告発だ。このようなやり方は、崩壊した社会主義国のやり方であり、最近批判が強くなった共謀罪と同じやり方だ。それは、人の心を問題にして、思想・信条・表現の自由を侵すものになる。

フェミニズムによる告発も、似たような面がないかどうかは気をつけておいた方がいいのではないかと思う。フェミニズムを提唱する人間は、共謀罪に対して反対する人間が多いと思うが、もし告発のための告発が行われているとしたら、構造的には共謀罪と同じことをしているのだという自覚が必要だ。

また前回取り上げた「フェミニズムを知らなければ批判はできない」というエントリーの次の文章

「とりあえず、フェミニズムの歴史もなんにも知らないことが分かる文章だ。」

は、本人は自覚がないかも知れないが、言論封殺を意図した言い方になっている。これは、「知らないことには何も言うな」と言っているに等しい文章だ。これが、思想・信条・表現の自由に反するものであることは、フェミニズムの運動をする人間は、特に気をつけておいた方がいいだろう。

知識のあるなしにかかわらず、何を言おうとも自由なのだ。間違っていれば訂正すればいいだけの話である。もし、知識がないことで発言を制限するなら、女性にとって知識や能力が不足している分野へは、何も語ってはいけないと言うことにならないだろうか。フェミニズムというのは、そういうものに反対していたのではないのだろうか。

言うこととやっていることとが違うというのは、このようなときに指摘されることだろう。自分たちの気に入らない言論はそれをしゃべらせることもしたくないと言うのは、いわゆる「ネットウヨ」と呼ばれる人たちの心性だと思ったのだが、リベラルの側にもあるようなら、その運動は破綻するだろう。リベラルは、権力を持たないのだから、あくまでも言説の正しさという論理で主張しなければ、それを支持する人々は出てこないと思うのだ。

もし感性だけでつながっている情緒的な運動だったら、似たような人たちだけでやってちょうだいね、というだけだ。僕は、そのような似たような人たちが、圧倒的少数派であることを願うだけだ。それならば害はない。