ジェンダーへの疑問

竹村和子さんは『フェミニズム』(岩波書店)の中で、ジェンダーについて語っている。ジェンダーは普通次のように考えられている。

「生物学的な所与の性差と考えられている「セックス」と比べ、「ジェンダー」はセックスの差異の上に構築される「社会的・文化的な性差」、いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」だと理解されている(この因果関係に対しても、後に疑義が突きつけられる)。」

ジェンダーにとっては、社会というものが重要なキーワードになる。このジェンダーに関しては、フェミニストの間でもまだ意見が分かれている部分があるそうだ。それは後ほど見ることにしたいと思うが、僕は、ジェンダーの考え方そのものの中に論理の逸脱の危うさを感じるところがある。

竹村さんは「人は女に生まれない、女になる」というシモーヌ・ド・ボーヴォワールの言葉を引用しているが、僕はこの言葉の解釈に、拡大解釈を生みかねない危うさを感じる。女というのが抑圧のシンボルだと思っている人は、社会によって女にされることに不当性を見たくなるだろう。しかし、それは「すべて」不当なことなのか。この言葉は、「すべて」という言葉に通じる論理の逸脱の可能性を感じさせるものだ。

人間というのは本能が壊れた生物だといわれている。人間は、そのまま放っておいたのでは人間にならない。人間の間で、社会の中で生活することによって人間となっていく。人間が人間になるためには教育というものが不可欠の要素になる。狼に育てられた人間は、外見は人間のように見えても人間にならない。

社会によって女にされることがすべて不当だったら、同じような論理で、社会によって人間になることも不当だということになってしまうだろう。そうすると人間は、本質的には野蛮で動物的になることこそが正しいあり方だということになってしまう。欲望を開放して、自分のやりたいことを勝手にやって、社会のことなど無視して生きるのが人間的だということになってしまう。

林道義さんの『フェミニズムの害毒』(草思社)によれば、フェミニズムというのはこのようなエゴイスティックな存在であると断罪されている。社会を無視したエゴイズムこそが正しいと主張するのがフェミニズムだというふうにされている。これは、フェミニズムに対してかなり偏見のある悪意ある見方だとは思う。しかし、逸脱した間違ったフェミニズムであれば、そのように見えても仕方がないかも知れない。林さんの間違いは、この本の題名を『逸脱したフェミニズムの害毒』としなかったことかも知れない。

いずれにしろボーヴォワールの言葉を教条的に受け取ったら逸脱する恐れがあるだろう。人間にとっては社会の中で生きていくことは本質的なものである。社会の影響を受けることが人間の本質であれば、それをすべて否定することは出来ない。「すべて」ではなく、どの場合にその影響が不当になるかという細かい検討が必要なのだ。ばかげたジェンダーフリーの主張には、その細かい検討が抜け落ちていると僕は思う。

さて、フェミニストの立場から問題にしているジェンダーの側面を、竹内さんの本から拾ってみよう。

「そもそもジェンダー規範の問題点は、まず第一に、ジェンダー規範は「男」と「女」という二極化されたカテゴリーを作り出し、そのどちらかに人を当てはめるということ、第二に、このジェンダーの二分法は階層秩序を持つものであり、<二つの差異>ではなく、<一つの差別>を意味しているということだろう。」

と竹内さんは語っている。この第二の問題を分かりやすくいえば、男を基準にして「人間」という範疇を作り上げているということだろうか。つまり、男ならば無条件で「人間」の中に入れてもらえるが、女はなかなか「人間」の範疇に入れてもらえなかった歴史があったということだ。

これは実際には女だけではなく、社会的に差別される人々は、みな権利の主体としての「人間」の範疇からは除かれていた。だから、社会的に認められていない権利というものが、そのような差別される人々には多く存在したということだ。

これは不当なことであり、社会を形成する「市民」であれば誰でも「人間」の範疇に入れなければならないだろう。そして、その「人間」がどのような権利を持っているかという人間観を正当なものとして持たなければならない。この人間観が狂っていると、せっかく人間の範疇に入れてもらっても、かえって不利益を招くということにもなってくる。

例えば、今の男社会のひどい雇用状況というものが、人間の労働として仕方がないものと受け取られてしまうと、同じ人間なんだから、女が同等に扱われてひどい雇用状況にいても仕方がないと結論しなければならなくなってくる。これは、雇用状況が本当に人間的かどうかが問われなければならないが、男と女が同等かということの方に目がいってしまうと、的はずれな雇用機会均等法などが出来上がる。

女を人間の範疇から排除するのは不当だが、人間の規定そのものが狂っていると、人間の範疇に入れることが誤謬になるという由々しき状況が生まれる。ジェンダーの主張は、人間の規定が狂っていないかという誤謬にも敏感でなければならないだろう。正しい人間規定で、男の状況も改善されるなら、その状況でのジェンダーフリーの主張に反対する男はいなくなるだろう。

第一の問題に関連しては、「フェミニズムは、<ジェンダーの廃絶>のために闘うのか、それとも<ジェンダーの平等>のために闘うのか」という問題が提起されている。男女が平等に「人間」の範疇にはいるのなら、生物学的な差異があるのは明確なのだから、それが社会的にもある種の差異として認められても、本質が平等ならそれで良しとするのか。社会的な差異をすべて取り除かなければ、ジェンダーによる差別はなくならないのかという問題だと思う。

これは論理的には明らかだと思う。現実存在に対して「すべて」などという硬直化した規定をすれば、それは必ず極論に行き着いて誤謬になる。現実存在は、違う視点から見た判断で、条件によって違う扱いをすることこそが正しい。すべてを一緒くたにすべきではないのだ。<ジェンダーの廃絶>のために闘うフェミニズムはかなりうさんくさいものになるだろう。

しかし、気分的にジェンダーが廃絶されないと、差別そのものが解消出来ないと感じるものも存在する。竹内さんの指摘では、性的マイノリティの問題が語られていた。性的マイノリティにとっては、男と女という区別が残る限り、その範疇にも入らない存在として、やはり差別されているという意識が残り続ける。このようなものに対しても、性的マイノリティを「人間」の範疇に含むということが常識化すればいいではないかという考えも出来るが、感情的なしこりが残る可能性はあるかも知れない。

これは難しい問題には違いないだろうが、このような問題の解決のために<ジェンダーの廃絶>という戦略の方を選ぶとしたら、フェミニズムの運動は誤謬へ転落するのではないだろうか。<ジェンダーの廃絶>の道は、林さんに批判された道であり、それは正当な批判として僕には読める。現実存在に対して「すべて」という規定をするのは、やはり論理的に間違いなのだと思う。弁証法的に扱わなければ、どこかに間違いが出てきて、その間違いを攻撃されるということになってしまうだろう。

フェミニズムが<ジェンダーの廃絶>という道を選ばなかったかどうかは、まだ本の先の部分を読んでいないので分からないが、もし失敗の歴史をもっているのなら、その失敗から深く学ぶことが出来なければならないだろう。<ジェンダーの平等>の道は、人間の規定が正しい限りでは正しいのだから、フェミニズムはその戦略の道を選ぶべきだろうと思う。

ジェンダーという社会的な性差別が不当であることを証明するには、「社会」というものの深い理解も必要だろうと思う。社会は、個人が集まれば社会になるのではない。個人においては正しいことが、社会においては正しくなくなることも多い。個人においては、宗教的な信条は、何を信じようと自由だが、国家が一つの宗教に支配されるのは間違いだ。国家という社会的存在には信教の自由はない。

個人は目に見えるが社会は目に見えない。だから、<ジェンダーの平等>においても、目に見えない社会のとらえ方を失敗するという誤謬の可能性が存在する。この判断においても、誤謬に対する敏感さを持たなければならないだろう。権力のない側が頼りにするのは、論理的な正しさ以外にはない。それがなかったら、どんなに出発点が正しい運動であろうとも、大衆的な支持を失い、理想を実現することは出来なくなるだろう。