行き過ぎたフェミニズム批判としての『フェミニズムの害毒』

行き過ぎたフェミニズムなどもはや存在しない。それはもう終わった問題なのだ、というような意見をちらっと目にした。何を今さらそんなことを問題にするのか、というわけだ。しかし、これはずいぶんとおめでたい無防備な考え方だなと思う。そう考える人は、いい人ではあるのだろうが、手練手管に長けた反動側の攻撃にはひとたまりもなく潰されてしまうだろう。

実際にはフェミニズムというのは、その論理構造からいって、常に行き過ぎる可能性をはらんでいるのである。だから、行き過ぎに注意していないと、うっかり失敗することが必ずある。反動側の人間はその失敗を見逃さず、いつでもフェミニズムを叩けるというチャンスをうかがっているだろうと思う。誤謬に対して鈍感なフェミニズムは、リベラルの信用も落としてしまうことになるだろう。

面白いことに、内田樹さんが『フェミニズムの害毒』の書評を書いているのだがそこにこのような記述がある。

「だから、フェミニズムが近代的システムの硬直性や停滞性を批判する対抗イデオロギーであるかぎり、近代文明に対する一種の「野性」の側からの反攻であるかぎり、それは社会の活性化にとって有用であると私は思っている。だが、有用ではありうるが、それは決して支配的なイデオロギーになってはならない質のものである。(ヒッピー・ムーヴメントや毛沢東思想やポルポト主義が支配的なイデオロギーになってはならないのと同じ意味で。)それは「異議申し立て」としてのみ有益であり、公認の、権力的なイデオロギーになったときにきわめて有害なものに転化する、そのようなイデオロギーである。」

これは、フェミニズムというイデオロギーが容易に誤謬に転化するものであるということから来る内田さんの直感ではないかと僕は思う。支配的なイデオロギーが誤謬に転化した場合、どのように恐ろしいことが起こるかは、「毛沢東思想やポルポト主義」によって証明されている。

フェミニズムの害毒』は1999年に出された本だ。8月の出版だから、今年の夏で7年になる。だから、ここで語られていることはもう克服されたという人もいるかも知れない。しかし、僕はここで語られているような害毒が簡単に克服されたとは思えない。それは、日常生活のあらゆる場面で出会いそうな現象だからだ。特別な状況で起こるものではないのである。

ここで語られていることは本物のフェミニズムではないという意見もあるだろう。誤解されているのだというわけだ。しかし、本当に深刻なのは、フェミニズムを本当には知らない人間は、たいていこのように誤解するということなのだ。誤解しているだけだからフェミニズムには責任がないと簡単に済ませることは運動論的な間違いだと僕は思う。これが誤解であるなら、誤解であることを分かるように示すことこそが大事なことなのだ。誤解する方が悪いという姿勢は、運動論的に運動の弱体化をもたらすだけだ。それは、誤謬に対して鈍感な姿勢なのである。

さて、日常的に見られる「フェミニズムの害毒」(これは文脈的に理解するなら、林さんが捉えているフェミニズムということの理解から帰結される害毒、という意味に取らなければならない)は、林さんの本ではまず次のようなものが登場する。

林さんの妻が女性だけの研究会に行ったとき、会が終わってから食事に誘われたらしい。その時「夫が待っているから」と断ったことに対して、「あなたは自立していないのねえ」とイヤミを言われたという。このとき、林さんは、「「夫のために早く帰る妻は自立していない」という公式を当然のように信じている女性たちがいると言うこと」に驚いていた。そして、これを「フェミニズムの悪影響のためである」と断じている。

これに対して、その女性研究者はフェミニストではないとか、間違ったフェミニズムを基礎にして考えているから誤解するのだといっても、林さんはおそらく納得しないだろう。もちろん、林さんを納得させる必要はないと思っているフェミニストがいたら、ここから先の議論は必要ない。林さんのような保守主義のオヤジなどは、頑固頭の分からず屋だから、そんなオヤジが何を思おうと関係ない、というフェミニストだったら何も議論する必要はない。

そう言うフェミニストには、勝手におまえらの運動をしろよ、というだけだ。相手のことを自分たちが理解する必要がないと思っている人間を、こちらから理解してやろうという優しさを見せるほど僕は人間が出来ていない。フェミニストがそう言う姿勢を持っているなら、やはりフェミニズムはうさんくさいものであり、決して社会の主流になってはいけないイデオロギーだという内田さんの主張を支持したい気持ちになるだけだ。

もし、林さんのようなオヤジを、分からず屋の頑固オヤジだということで切り捨てるなら、男社会の論理が分からない分からず屋のフェミニストなど切り捨ててしまえという考え方を批判出来ないだろうと思う。林さんのような考え方を切り捨てて、自分たちの主張だけを通そうとするのは、フェミニズムにとっては決定的に矛盾したことになるのではないか。

林さんのようなオヤジを受け入れることは、フェミニズムにとっては損なことのように見えるかも知れないが、そうすることによってフェミニズムは確実な真理性を手に入れることが出来るのだ。受け入れるというのは、何も主張に賛成しろということではない。林さんの批判は、対象が「行き過ぎたフェミニズム」に限定される限りでは正しいのである。その正しさを受け入れるべきだということだ。

そして、その正しさを受け入れた上で、行き過ぎではない、正しいフェミニズムの主張があるという姿勢を持つべきなのである。行き過ぎを指摘されただけで感情的な反発が起こるようでは、どうやって正しい主張を論理的に説得出来るだろうか。行き過ぎの指摘を認め、そのような誤謬に陥る可能性に注意して、正しい方向を探ることが出来れば、林さんのような人とも連帯が出来るのである。

「愛情で結ばれた関係の中では、どちらが支配するとか、どちらが自立しているのかということは問題にならない。愛情という観点を「縛るもの」とか「自立を妨げるもの」と規定したときから、そして『愛という名の支配』などという本が出て、愛はすべて支配の道具であるかのように思う女性たちが増えたときから、フェミニズムは狂い始めたのではないだろうか。」

という林さんの問いかけに対して、そんなものは間違って理解している方が悪いといって済ませるのは、運動としてどうなのかということだ。このように間違って受け取られる責任は、フェミニズムの方には一切無いのだといっていられるのだろうか。それは、誤謬に対してあまりにも鈍感なのではないかということだ。

このようなことを語ると、おまえが相手の論理的間違いを指摘するのも同じではないかという屁理屈を言ってくる者がいるかもしれない。僕の方は、それが何故論理的に間違えているかをかなり詳しく説明しているつもりなのだが、人によっては切って捨てられているように感じるかも知れない。そう言う屁理屈に対してつまらない議論をしたくないのであらかじめ述べておく。

ブログにおける対話は運動ではない。個人的な論説のやりとりに過ぎない。だから、そこで理解が足りなかったり間違えたりするのは、何ら社会的な影響を持つものではない。しかし、フェミニズムが不特定多数の人に呼びかける運動である限りでは、その影響で勘違いをする人間が出てきたら、運動としてその現象を考察しなければならないのだ。

僕のように市井の人間が何を語ろうと、その影響力の小ささからいえば、たとえ間違ったことを語っても、実質的な影響力がなければ何ら問題はない。それは言論の自由に属することに過ぎない。しかし、フェミニズムの指導者が語ったことが、たとえそれが誤解されるようなことがあったとしても、その誤解に対してさえ責任が生まれることがある。それは社会的影響の大きさによるのだ。

林さんは、

「この母親の言葉の背後には、「亭主の世話をするなどは、女性の生き甲斐とすべきことではない」とか「女性の仕事としては程度の低いことだ」という考え方が、透けて見える。こうした心理こそ、まさにフェミニズムが広めているものなのである。」

とも語っている。これに対しても、フェミニストたちは誤解だと言って切って捨てたくなるだろう。しかしこのような誤解は切って捨てただけで無くなるのか?フェミニズムは、このような誤解を決して生まない完璧な理論なのか?そう思うのは、あまりに誤謬に対して鈍感なのではないか。

僕がフェミニズムに関連したエントリーを書くきっかけになったのは、筆坂秀世さんのセクハラ問題に関連して、ライブドアのコメント欄からたどっていった「2006-04-26 16:13:03 / 時事問題 筆坂さん・・・・・。」という文章を読んだことだった。そこに書かれていた

「セクハラ問題にちょっとでも興味ある人なら分かると思うけど、筆坂氏はアウトよ。」

という言葉がきっかけだった。この事件については、細かい具体的な事実は何一つ知らされていない。セクハラというデリケートな問題で、事実が分からないのに、それが不当だという判断が簡単に出来るものではない。しかし、このエントリーでは、何故「アウト」なのかは何も語られず、「セクハラ問題にちょっとでも興味ある人なら分かる」と言っているだけだ。これは、セクハラ問題というのは、女性が訴えればそれだけで「アウト」になるということなのだろうか。

これは世間に流通している「フェミニズム」の悪影響ではないのだろうか。世間に流通している「フェミニズム」は本物ではないというようなことをいっても仕方がないのではないか。これが「フェミニズムの害毒」であると受け取りたくなるオヤジはたくさんいると思う。

筆坂さんは、『日本共産党』(新潮新書)の中で

「私は、三人に対し、チークダンスを踊ったこと、デュエットで腰に手を回して歌ったことは事実だと認めた。これ以上でも、これ以下でもないからだ。同席した秘書も、その女性が、私が「帰ろう」と声をかけるまで、大いに楽しんでいたと証言している。それが何故セクハラという訴えになったのか、今もって不可解と言うしかない。」

と語っている。これは、筆坂さんの側の主張だから、これが正しいと言うことは直ちには言えない。しかし、同じように、相手の女性の主張が正しいともすぐには言えないだろう。少なくとも、今のところ真相は分からないということが正しい論理的な理解だ。それが何故「アウト」だと即断されてしまうのか。

セクハラ論議のおかしさは、フェミニストたちはまったく疑問を感じないのだろうか。セクハラは、それを受けた女性の側に判断の基準があるということに疑問を持たないのであれば、僕はセクハラ論議は、フェミニズムの悪影響を受けていると思うだろう。セクハラという犯罪行為を断罪するのであれば、女性の感覚という観念的な基準ではなく、誰が判断しても納得がいくような客観的な基準が提出されるべきではないか。

論理の問題に対して、事実を提出しろというような意見を言う人がよくいるが、論理の問題はまず論理で考えることが大事なことだ。事実の問題で言えば、筆坂さんのセクハラ問題が、筆坂さんが「アウト」だというのなら、何故「アウト」なのか事実を示すべきだろう。これは論理の問題ではなく事実の問題だから、事実なしに「アウト」という判断は出来ないのだ。