「数学屋のメガネさんへの再批判。」に対する反批判 1

chikiさんからもらった批判(「数学屋のメガネさんへの再批判。」)を読んで驚いた。これは、実に見事な批判だ。と言うと何か敗北宣言をしているようだが、初めてまともな批判をもらったという驚きと、これだけ見事な論理展開を見せてくれたchikiさんに、正直言って非常に尊敬の念を抱いている。しかし、だからなおのこと、納得するまでこれに反批判を送りたいと思う。

chikiさんが、途中で嫌気がさすようなら無視していただいてもかまわないが、これだけ見事な論理を語る相手と議論が出来るならば、こんな素晴らしいことはないと思っている。

まず納得出来ないことの第一だが、「「フェミニズム」をひとつの統一主体であるかのように論じること&求めることの問題点」と語られている部分だ。僕は、あのエントリーで、冒頭に語ったように、行き過ぎたフェミニズムということを考察して、論理的に逸脱する可能性というものを考察している。だから、「フェミニズム」一般について論じたのではないし、一つの統一主体だなどと主張してもいない。

だから、そのように読みとれるなら、どこでそのように読めたのかを教えて欲しい。そこは、もしかしたら、僕の表現が間違えているかも知れない。これだけ見事な論理を展開する人だから、単なる誤読ということはないだろう。だが、それが表現の間違いであれば、訂正してすむことではないだろうか。

人間は誤謬から逃れることは出来ない。単純なミスも許さないということでは、何も言えなくなってしまうのではないかと思う。僕の趣旨は、あくまでもフェミニズムの考えが逸脱する可能性の考察にある。もし僕の表現に、現実のフェミニズムを十把一絡げに扱っていると思われる部分があって、誰が読んでも文脈上そう読めてしまうということが理解出来れば、それは僕の間違いだと認めることが出来る。しかし、それがそう納得出来るまでは、やはりその指摘は受け入れることが出来ない。

次に納得出来ない部分は、「Wikipediaというものの性質やソースの取り扱いに対してまったく配慮がないというメディアリテラシーの問題」として指摘されている部分だ。僕が語ったことは、フェミニズム一般の批判ではない。あくまでも逸脱する可能性のことを考えたものだ。ウィキペディアに対しては、「基本的な情報」という書き方をしたが、これは、フェミニズムというものに対して、一般の人が求める「基本的な情報」ということで考えたもので、それだからこそ逸脱の可能性を検討出来る対象として選んだものだ。ここに書かれたことがフェミニズムの正しい定義だとして選んだのではない。

「論争中の論点に対して機能する政治性の問題」というのは、具体的には何を指すのだろうか。僕が発言することで、政治的な影響があるという判断をしているのだろうか。そこまで買いかぶってくれるなら僕も嬉しいのだがそうでもないようだ。これは、その指摘そのものがよく分からない。

僕のブログなど、一日にせいぜい200〜300人程度が訪れるだけの所だ。そこのどこに政治性の問題があるのだろうか。それとも、インターネットでの発言はすべて政治性を帯びるということなのだろうか。そのような言い方は、他人の自由な発言に対して、「政治性」という言葉で制限をかけることにはならないのか。

「「極論としての○○を批判する〜」という議論スタイルそのものが持つ問題」というのは、どこに問題があるのかが実際には僕には分からない。極論を考えるというのは、誤謬論ではごく普通のテクニックに過ぎないと思っているからだ。誤謬は逸脱から生まれる。それだったら意識的に逸脱を起こすのは極論を考えるのが一つの方法だ。この方法論に問題があるということが、僕には今のところ理解出来ない。

例えば、僕が現存するフェミニズムそのものの批判を意図して、それが極論に達するところまで想像をふくらませて、フェミニズムそのものの批判としたのなら、それは「「極論としての○○を批判する〜」という議論スタイルそのものが持つ問題」と言えるだろう。しかし、僕は、あくまでも誤謬論として極論を設定して、その誤謬可能性を追求しているのだ。その誤謬論のどこに問題があるかを指摘してもらわないと、僕は決して納得しないだろう。

「「たとえ善意から出発した○○であろうとも、それが極論にまで達すれば論理的には間違える」というのはどんな論理にも当てはまるにも関わらず、「他の思想と比べてかくも間違えやすい」という論述もないまま」という指摘がなされているが、これは後のエントリーで何回か触れているので、僕は、これを取り上げた理由は述べていると思っている。他の思想と比べてということでいえば、同じように逸脱した思想としてのマルクシズムとの相似性を感じている。虐げられ、不当に抑圧されているというルサンチマンが、逸脱する可能性をはらんでいる。

「「フェミニズムのうさんくささ」を証明したつもりになっている」ということは全くの誤読だと僕は感じている。だいたい「うさんくさい」というのは、個人の感情であって証明出来ることではないのだ。それを証明したというふうに受け取るのは過剰反応だ。僕がいくら論理にこだわる人間でも、自分の感覚を証明しようとは思わない。

僕がうさんくささを感じるのは、絶対的な正しさをもっているかのように、フェミニズムの前提が作用して、それで現象を切り刻んでいくように見えることに対するうさんくささの感覚だ。それは決して絶対的な正しさを持っているわけではないのに、人々にそのような圧力を与える。これが「イズム」の恐ろしさであり、フェミニズムという「イズム」もそのようなうさんくささを持っているというのが僕の感覚だ。これは、僕の感覚であって、誰もがそのようなものをもっていることを証明したのではない。

同じような感覚を持っていると表明してくれるのは歓迎するが、誰もがそのような感覚を持っている、あるいは持つべきだなどという主張は僕にはない。

Wikipediaの例を鵜呑みにしたうえで」という指摘も納得が出来ないものの一つだ。あのような例は、逸脱したフェミニズム思想からは必然的に出てくるものだという主張が、僕の中にあるものだ。もしも、あのような例が、逸脱したフェミニズム思想から生じないのであれば、そのことをこそ証明すべきではないのか。

石原慎太郎氏の言葉に対する指摘も納得がいかないものだ。その部分を全文自分のエントリーから引用すると次のようなものになる。

「このような極論からの批判は、論理的正当性も伝統も無視したものになる。だから、他の視点を持っている人間からはそれが行き過ぎだと思われてうさんくさい目で見られるようになるだろう。このような極論に対しては、


石原慎太郎東京都知事は、都議会定例会において、「最近、教育の現場をはじめさまざまな場面で、男女の違いを無理やり無視するジェンダーフリー論が跋扈(ばっこ)している」、「男らしさ、女らしさを差別につながるものとして否定したり、ひな祭りやこいのぼりといった伝統文化まで拒否する極端でグロテスクな主張が見受けられる」、「男と女は同等であっても、同質ではあり得ない。男女の区別なくして、人としての規範はもとより、家庭、社会も成り立たないのは自明の理だ」と強調し、ジェンダーフリー教育を公人の立場で公式に批判した。」


と、ここに書かれているように、石原氏の批判が正当なものとして論理的には判断出来る。僕は、政治家としての石原氏には批判的だが、極論としてのジェンダーフリーに対するこの批判は正当だと思う。」

僕はあくまでも、「このような極論に対しては」「石原氏の批判が正当なものとして論理的には判断出来る」と語っている。この仮定を取り除いて、石原氏の語ったことが事実であるかのように扱っていると批判するのは的はずれではないか。仮言命題というのは、仮定を置いて論理を展開するのである。それが「仮定」の話であるのに、その事実性を云々するのは、論理的な的はずれではないのか。

僕のエントリーを読んだ人が、石原氏が語ったことがすべて正しいと受け取って誤読するという指摘だったら、その批判を僕のミスだと認める。仮言命題の扱いに対しては、論理に慣れていない人には難しい。だから、あれは仮定の話だといっても、本当の話だと誤読する人は出てくるかもしれない。そのような指摘だったら僕も納得するが、論理の問題に事実を対置しておかしいではないかという指摘は納得出来ない。論理の批判なら論理に対して行うべきだ。これだけ見事な論理を展開してくれるのだから、そのような批判を期待している。

とりあえずはここまででアップする。しつこいと思われるかも知れないが、納得出来るまで反批判を送り続けたいと思う。