可能性(可能無限)とイズムの暴走性

瀬戸智子さんから「論理学の勉強」というトラックバックをもらった(ライブドアブログで)。コメント欄に書き込もうと思ったのだが長くなりそうな気がしたので一つのエントリーとして立てることにした。

「すべての命題は相対的である。」という言葉の意味を解釈すると、これは、すべての命題には真になる場合もあれば偽になる場合もあるということになる。これは、「すべて」という言葉で語っている世界が、どの世界なのかで違ってくる。

「すべての命題は相対的である。」という命題は、形式論理の世界では成り立たない。形式論理の世界では、一度真だと決めた命題は、永久に真でなければならない。相対性はないのである。必ず偽になる命題は「矛盾」と呼ばれるが、形式論理の世界では「矛盾」が真になることはない。もしそのようなことが起こったら、形式論理の世界そのものが破綻する。

しかしひとたび形式論理の世界を離れて、現実の対象を扱う弁証法論理の世界に入ってくると、「すべての命題は相対的である。」ということが真理になる。これは、現実存在というものが、必ず違う視点を持って眺めることが出来る存在であるという理解から得られる。違う視点から眺めることによって、その命題が真である範囲と偽である範囲が区別される。肯定と否定が両立するという弁証法的「矛盾」の姿がそこにある。

だが、現実存在に対して「すべて」を語ると、ここに述べられている「クレタ人のパラドックス」のような論理破綻をもたらす。この「すべて」が自己言及的なものを含む「すべて」であった場合論理は破綻する。それならば、「すべて」は何ものに対しても言えないのか?一つだけそれが言えるものがある。それが可能性(可能無限)だ。

現実存在を見る視点というのは、実際の具体的な存在を見てみないと分からない。だが、一面だけを見るのではなく、必ずどこか違う方向から見える可能性があるはずだと考えることが出来る。その可能性がある限りでは、すべてに言及出来る。個々の存在のすべての集合という「実無限」をいっぺんに捉えることは出来ないが、任意の対象に対して、前から見るのと違う視点は必ず可能性として存在していると考えられる。それをすべての対象について確かめ終えると言うことはないけれど、必要ならどれかの対象をつかんで調べることが出来るという可能性がある。

この可能無限については、数学的帰納法というものがそのイメージを教えてくれる。自然数の全体をすべて数えきることは出来ない。しかし、何でもいいから自然数を取ってきて、その一つ後というのはいつでも考えることが出来る。どんな自然数でも、任意のものを作り出す可能性が存在するわけだ。

そうすると、ある自然数について正しいことが、その一つ後の自然数についても正しいことが確かめられると、任意のどんな自然数を取ってきても、その一つ前、また一つ前と遡って、一番小さい1にたどり着く。その1で正しさが確認出来れば、任意の自然数について正しさを確認出来る可能性を得たことになる。これが、数学的帰納法による、すべての自然数について成立する法則の証明となる。

可能性というものに関しては、「すべて」に言及することが許されるのである。「フェミニズムという考え方の暴走性であって、フェミニズムそのものが間違っているという議論ではない。」という命題は、フェミニズムそのものを対象にしたのではなく、「考え方」とも言うべき「イズム」のようなものが、可能性として常に暴走する危険があるということを基礎にして出てくる命題なのである。

この場合の「すべて」は可能性に関して語っているので論理的に成立する。だから、フェミニズムにも暴走する可能性があるという意味で上の命題を理解する必要がある。これを実体としての「フェミニズムは暴走する」というふうに解釈してはいけないのだ。それは、個々の現実に存在する「フェミニズム」と呼ばれるものの個性を検討して判断しなければならないのだ。

宗教的信条は、可能性として常に暴走する危険を持っている。しかし、現実に暴走したのはオウム教団という具体的な存在だった。実体としての教団というものが持つ宗教が暴走するかどうかは、その宗教の具体的実体を考えなければ結論出来ない。しかし、可能性を語る限りでは、すべての宗教は暴走する可能性をもっていると考えることが出来る。だからこそ暴走する可能性に対して歯止めを作る必要がある。政教分離の思想はその一つだろう。

ここまでは論理的な話だ。

次に、瀬戸さんが指摘している「フェミニズムのうさんくささ」のタイトルの問題に移ろう。このタイトルが、論理的な考察を妨げて感情的な反発を呼んでいるという指摘だ。しかし、僕はこのタイトルは充分論理的なものだと思っている。「フェミニズム」というものは充分うさんくさいものなのだ。

だいたい「フェミニズム」という言葉は、その定義が明確には決まっていない。自分が信じるフェミニズムこそが本物のフェミニズムだという主張をしたいだろうが、それは出来ることなのかどうか。フェミニズムと呼ばれているものに怪しいものまで含まれているというのが現状ではないのか。

それが本物ではないと主張するのは自由だ。しかし、それをフェミニズムという範疇からすべて取り除くことは出来ないだろう。ウィキペディアの定義を批判するものもたくさんいたが、では、ウィキペディアの語るフェミニズムは本物ではないからということであそこから排除出来るのかどうか。

フェミニズム」がうさんくさいというのは、僕の感覚であり、しかもそれは事実に基礎を置いた感覚なのである。その「うさんくさい」という言葉を否定しようとしても仕方がないのではないか。

先週のマル激では、選挙の頃にインターネットで「うさんくさい」を検索すると、一番に亀井静香さんのページが登場したと語っていた。僕は、亀井さんを死刑廃止論で知ってからは、政治家として尊敬しているが、亀井さんの死刑廃止論のようなパブリックな面を知らない人が、亀井さんは「うさんくさい」と言ってもそれは仕方がないと思っている。

おそらくその人は、亀井さんの他の面である保守政治家としての、利益のためにはどんな行動でもするという面は知っていて、その面を捉えて「うさんくさい」と思うのだろうと思う。僕のように尊敬を感じるような評価も、「うさんくさい」と感じる評価も、評価としては両立しうるし、そう感じることは仕方がないのである。

フェミニズムに対しても、それが素晴らしいものだと信じて行動する人間もいれば、その「うさんくさい」面に注目する僕のような人間がいても仕方がない、というのが現実なのだ。その現実をなぜ正面から見ようとしないのだろうと思う。「うさんくさい」と感じる人間がいたら、フェミニズムの信用は落ちてしまうほど、自分が信じているフェミニズムは脆弱なものなのか。

それが素晴らしいと信じているのなら、ちょっとくらい欠点を突っつかれたくらいでなぜ過剰反応をするのか。そんな欠点などこうやって克服してやるというようなことがなぜ言えないのか。フェミニズムに対しては、それを褒めてくれる仲間内の議論しか目に入らないのか。外からの批判には耳を傾けないのか。

考えが暴走する可能性があるのはフェミニズムばかりではないのだから、他との比較も必要だと語った言葉があったので、その比較をしてみて気がついたことが一つある。大きな暴走をして、社会に多大な害悪を与えたマルクス主義やオウム教団に共通していたのは、「無謬性」という言葉で語ることの出来るものだと感じる。「無謬性」こそが暴走のきっかけになるのではないかと思う。

社会主義国は、国家に対する批判を許さなかった。国家は間違えてはいけないし、常に正しいとされなければならなかった。それは、プロレタリアート独裁の正当性が崩れてしまうからだ。失敗した政府は、当然責任を取って交代しなければならないのが、近代の掟だからだ。

資本主義国家が、社会主義国家ほどの大きな暴走を許さなかったのは、失敗した政府を批判するという、失敗に対する対処のメカニズムがあったことが大きかったと思う。毛沢東が、いかに文化大革命で失敗しようと誰も毛沢東を批判出来なかった。それを失敗(誤謬)と認識することが許されなかった。

無謬性というものがその考えにあると、間違ったことを正しく判断出来ない。おそらくこれが暴走のきっかけになって、その歯止めがなかった旧社会主義国は完全な破綻の道を歩んだのだろう。

無謬性に拍車をかけるものに教条主義というものもある。これがはびこっていると失敗の認識はさらに難しくなる。「うさんくさい」という言葉に過剰反応する心情の中に、無謬性とか教条主義の陰がないかどうか、よく考えて欲しいと思う。これは自分でそれが分かるときは、それを乗り越えることで成長出来るが、他人から見える形で出てきてしまえば、その「イズム」は破綻への道を歩む途中になってしまうのだ。その分かれ目になるのが、誤謬に敏感になると言うことになる。

内田さんによれば、フェミニズムはすでに終わってしまったと感じられている。そうであれば、どこで破綻していったのか、その分かれ目がどこにあるかが僕の次の関心になる。僕は、フェミニズムに対しては、論理的考察の対象以上の何の感情も抱いていないのだ。