自分の中の教条主義と自らの誤読に対する自己批判

自らの中にある偏見に気づき、「構造的無知」から解放されて自分を冷静に眺めてみると、「地獄への道は善意によって敷き詰められている」という法則を自分が実践していたのを感じる。自らが正しいと信じた行為によって、僕は多くの人を攻撃してしまったことに気がついた。それが正しいと思っていただけに、歯止めが無くエスカレートしていってしまったようにも思う。

そのようなことを見抜いていた人からは、僕のような人間は、まったく軽蔑に値すると思われても仕方がないと思っている。何を言われようとも返す言葉がない。しかし、コメント欄に暖かい言葉をかけてくれる人がいるのを見て、このような軽蔑すべき姿をさらしてしまったにもかかわらず、出直そうとする姿を暖かく受け入れてくれる人がいると言うことに、大きな感謝を感じる。人の心の温かさを感じて、ただありがたいと思うだけである。

それに勇気を得て、自分にとってはもっともつらい自己批判をする決心がついた。これがどうしてつらいかというと、教条主義と誤読というのは、僕が攻撃して回った事柄なので、自らが激しく怒りを抱いていたことを実は自らが行っていたというアイロニーを認めなければならないからだ。これはひどくつらいことだ。自分で自分を軽蔑しなければならないと言うのは、自己防衛本能をひどく傷つける。

僕は内田樹さんの言説を、教条主義的に崇拝していただけだったことに気がついた。自分では客観的に評価をして支持していたつもりだったが、結果的には教条主義的に支持していたに過ぎなかった。それは、内田さんを批判する言説に過剰反応していたと言うことからそれを認めざるを得ない。

内田さんは、文章は誤読される権利があると語っていた。この言葉の意味を、誤読せずに正確に受け止めるべきだった。たとえ批判が、誤読から生まれたものであろうとも、批判する権利は誰にでもあるのである。その批判に対して、それが間違いであると感じたなら、批判の内容そのものに対して反批判を返さなければならなかった。しかし、僕はしばしばその反批判が行き過ぎて、その批判を提出している人間への攻撃へと及んでしまった。

これは全くの過剰反応だった。批判をすることは誰にでもある権利なのだから、批判をしたことに対して文句を言うべきではなかった。批判そのものの内容にあくまでも絞って反批判をするべきだったのだ。

このような過剰反応が起こる原因は、僕が内田さんを教条主義的に崇拝し支持していたことから出てくるような気がする。内田さんが批判されることに対して、僕の中には、自分が神聖だと思っている領域が汚されるというような感情が芽生えてしまったのだ。自分のことを神聖だと思われるのは、内田さんにとっては迷惑なことだったろうが、「構造的無知」にとらわれていた頃はそれに気がつかなかった。しかし、冷静に振り返れば、やはりそう言う面があっただろうと思う。

それにもかかわらず、僕は論理を使えるものだから、表面的には相手の欠点を指摘して正しいことを行っているように装うことが出来た。しかし、自分の気に入らないものを叩くというのは、インターネットでの「ネット右翼現象」として語られているのと同じではないかと思う。「ネット右翼現象」では、その感情が前面に出ていて、その攻撃が理不尽であることがすぐに分かるが、僕はなまじ理論武装をしてその現象を難しくしていたので、なお始末が悪かったかも知れない。

内田さんを批判する言説を見つけてはそれに反論をし、それが行きすぎて理不尽な叩き方で相手の人間に対する攻撃にまで及んでしまったことがたくさんあっただろうと思う。今は、そのような行為をしてしまった人たちに、ただ申し訳ないと思うだけだ。今さらわびられても、害した気分は回復しないかも知れないが、これもただ恥ずかしいと思うだけである。

過剰反応は僕の教条主義から生まれたものだが、これが激烈な攻撃心を生み出すというのは、神聖なものが汚されたという被害感情が生まれてくるからだろうと思う。この被害感情が生まれなければ、その批判を冷静に受け止めて、批判そのものに反批判の目を向けると言うことが出来ただろう。それが出来なかったことを今は悔やむだけだ。

誤謬の研究がもし本当に役に立つものなら、自分のこの自己批判が、同じような失敗を二度と繰り返さないと言うものでなければならない。言説の内容を反批判するとも、その反批判が決して人間への攻撃に及ばないように出来なければならない。「罪を憎んで人を憎まず」と言うことが実践出来るようにならねばならないと思う。

内田さんへの誤読の中で、フェミニズムに対する僕の偏見を育てたのは、内田さんのアンチ・フェミニズム言説への誤読が最も大きいだろうと思う。これは、項を改めて詳しく自己批判してみたい。

僕が偏見を抱き、それを育ててきたことに関しては、内田さんから受けた影響が大きい。これは認めざるを得ないが、それでは内田さんが非難されても仕方がないかといえば、それは間違いだと思う。すべては誤読をした僕に非があるのであって、そこから偏見を抱いたというのは、すべて僕に責任があることだと思っている。

表現されたことから影響を受けて失敗したからと言って、その影響を与えた表現には責任はない。責任は、影響を受けて行動した人間の方に全面的にある、というのが僕の考えだ。これには異論がある人がいるかもしれないが、もっと詳しく考えてみたい。今のところは直感的にそう判断しているだけの所があるからだ。

実は、僕はフェミニズムを論じることを通じて、この考えを主張したかったのかも知れない。世の中にフェミニズムという名前で流通している表現は多い。その表現の中には正しいものもあれば間違っているものもあるだろう。その影響で間違った行動に陥る人もいるだろうと思う。

しかし、間違った行動に陥った人は、表現を正しく受け止められなかったと言うことで、その行動に対する責任はすべて自分が負わなければならないと思う。フェミニズムが、その人に影響を与えたことをもってして、フェミニズムを非難すべきではないと思う。

林道義さんが『フェミニズムの害毒』の中で指摘している、多くの批判すべき行動は、実はその行動をした人間の責任を問わなければならなかったのだと思う。それを、表現としてのフェミニズムに責任を押しつけようとしたところに林さんの偏見があり、間違いがあると思う。指摘した事実に対する批判が正しくても、この批判の原因をフェミニズムに押しつけてしまったら、その批判の全体像は間違ってしまう。僕がやっていたことも同じことだったように感じる。

表現に責任を押しつけないと言うのは、そのようなことをすると「表現の自由」が制限されるのではないかと感じるからだ。責任は、あくまでも受け取る側の人間にあるのであって、表現は原則的には、何を表現しようと自由だとしなければならない。たとえそれが間違っていたとしても、表現を制限するのではなく、間違いを正しく批判することで間違いが淘汰されなければならないと思う。間違った表現であっても、それが表現されることを妨げてはいけないというのが「表現の自由」の正しい理解であると僕は思う。

僕のようなひどい間違いも、表現してもかまわないと言うことは保障されなければならない。しかし、それが間違っているなら、このように批判でもってそれが淘汰されるという方向を取るべきだろう。影響を与えると言うことで、表現に制限を与えるなら、正しいことで大きな影響を与えるような表現まで制限されてしまう。そのようなことがないように、表現の自由は守られるべきだと思う。

僕は内田さんの影響によって間違った観念を持ってしまったが、これは影響を与えた内田さんにはまったく責任がない。すべては間違った僕に責任がある。このことは、内田さんの表現と僕との関係では正しいと思う。しかし、一般的にはどのようなときが正しくて、どのようなときに例外的に正しくないことがあるかを検討する必要があるだろう。これもまた項を改めて考えてみたいことだ。

僕が内田さんを教条主義的に崇拝していて誤読していたことを自覚することはたいへんつらいことである。それは、まさに神聖だとすら感じていたものを自分自身が汚していたと言うことになるだけにそのつらさを感じる。この教条主義と誤読から、批判を越えて攻撃にまで至った人々に対しては、今さらながらと思われるかも知れないが、ただ謝罪の気持ちを感じるだけだ。罪を憎んでも、人を憎んではならない、と肝に銘じなければならないと思った。