内田さんのアンチ・フェミニズム言説に対する誤読

僕の偏見にとってもっとも大きな影響は、内田さんのアンチ・フェミニズム言説を誤読したことだろうと今は感じている。誤読のポイントは、内田さんがアイロニーとして語ったことを、アイロニーとして理解せず、ベタにそのまま受け取ったことにある。なぜそのような受け取り方をしたかは、僕の無意識に属することのような気がするので今は分からないが、誤読から偏見への流れを考えてみると、これがもっとも大きなもののように思える。

内田さんの真意は、フェミニズムというものが基本的に正しい主張をしているものであるにもかかわらず、現実にフェミニズムという言葉で流通している現象は、その正しさを少しも実現せず、かえって抑圧的な作用をもたらしているという皮肉を指摘したものとして理解しなければならなかった。

それはフェミニズムに対する誤読であり間違った判断ではないかということが内田さんの真意ではなかったかと思う。それを、間違ったのはフェミニズムだというふうに、現象を短絡的に理解したことが誤読だったと思う。

アイロニーをベタに理解すれば誤読するというのは、僕が他人に対して指摘して回ったことだ。その同じことを自分がしていたというのはまことに恥ずかしい限りだと思う。しかし、それだけにこの誤謬は、注意していなければすぐに落ち込んでしまう誤謬ではないかとも思える。

アイロニーというのは非常に難しい。そこに表現されている表面的なこととはまったく正反対の真意をつかまなければならないからだ。内田さんのアンチ・フェミニズム言説に対しても、表面的にはフェミニズムを批判しているように見えながら、その真意は、フェミニズムを誤読している人の滑稽さを指摘しているように読まなければならなかった。

アイロニー的表現を使わずに、それがベタに分かるように、形式論理的に表現すれば、少なくとも理屈の間違いはなくなるかも知れない。しかしそうすると表現出来る幅はかなり狭いものになってしまうだろう。現実の複雑な現象というのは、アイロニーでなければその本質が言えないようなものがあるような気がする。

アイロニーに対する読解能力というのは、対象の複雑さを本質的に理解するときには絶対に必要なものだろう。それが出来なかったと言うことを告白するのはとてもつらいことだが、そう言わざるを得ないだろう。

アイロニー表現というのは、現実の対象がそのような性質を持っているときに、それが的確な表現として成立する。フェミニズムというのは、まさにそのような性質を持っているものだろう。これをアイロニーとして正しく受け取らないと、そこからは偏見が生まれる可能性を感じる。

これは、現実の弁証法性が複雑に絡み合っているところで見られるものではないかと思う。フェミニズムというものが、まだ確固たる理論として統一されていないと言うことは、そのアイロニー性が、アイロニーのままで語られていると言うことではないかと思う。同時に背負っている矛盾が、矛盾のままで解消されないところがたくさんあるのではないかと思う。

男女の不当な差別を告発することは正しいが、差異に応じて対処することもまた正しい。どこが不当な差別で、どこが正当な差異への対処かは、複雑な現象であり難しい判断だ。この矛盾を背負った弁証法性が、現象としてのアイロニー性をもたらす。正しい判断も、そのバランスを越えて行き過ぎると、直ちに滑稽な逸脱したフェミニズムになってしまう。そのアイロニー性を表現したものとして内田さんのアンチ・フェミニズム言説を受け取らなければならなかったと思う。

だから内田さんの言説を誤読をせずに正しく受け取るならば、そのような微妙なバランスをどうやって確保して間違った道にはまりこまないかを考えると言うことにならなければいけないだろう。これを、バランスを崩すのは、そもそもフェミニズムが間違いであり、それが悪いのだと責任をフェミニズムに押しつけたことが偏見だった。

難しい現象を正しく理解することは難しいのだと僕は理解していたはずだった。だから、その難しい現象に対して、時に間違った判断をしてもやむを得ないと思っていた。問題は、その誤謬を正しく理解して、誤謬から学ぶことによって正しい道を探すことだという認識を持っていた。フェミニズムが直面している問題は、まさに複雑で難しい問題であるのに、同じように考えられなかったのは「構造的無知」であり、それは偏見から生まれたものだ。

内田さんに到達することによって、とりあえず僕の偏見の自己批判も最終点にたどり着いた感じがする。内田さんを誤読していたことはたいへん恥ずかしいことであり、内田さんに申し訳ないと思う。これからは正しい理解を深めていって、思い込みでない、内田さんが優れているという面の客観的な理解をしていきたいと思う。

僕の自己批判・自己分析が、同じような誤謬に陥りそうな人にとって参考になれば、僕の失敗も一つの意義を持つのではないかと感じさせてもらえる。そのようなことを願って、とりあえずの自己批判にピリオドを打とうと思う。