もう一つの偏見について

偏見というものが不当性を持つのは、それが社会的弱者に対してであることが多い。偏見とは文字通り「偏った見方」であり、ある一面を捉えて、そこから得た解釈が、対象の全面であるかのごとくに扱って考えることを言う。

以前に本多勝一さんが、アメリカの黒人を取材したときに、その差別された現状に同情して善意から黒人へ近づいた人々が、現実の黒人たちに嘘つきや泥棒が多いことに大きなショックを受けるだろうと書いていたことを思い出す。

嘘つきや泥棒が黒人に多いことは事実だったから、それと黒人であるという属性とを結びつけて、例えば黒人は道徳的・倫理的に劣っているという見方をすれば、それは偏見というものになる。実際には、黒人だからという理由で嘘つきや泥棒を説明出来るのではなく、その社会的状況などを、一面的にではなく多面的にその影響を考慮に入れて考えなければならない。それが出来ないと偏見という間違ったメガネで対象を眺めてしまうことになるだろう。

単なる善意だけで黒人に近づいた人間は、このような現実に接して、かえって激烈な差別主義者となることもあると本多さんは指摘していたように記憶している。僕は差別糾弾運動の不当性を現実に見てきたので、その意味では差別反対運動に対する偏見を持つ可能性はあった。しかし、差別糾弾運動の間違いは現実的な間違いであり、差別反対運動の基礎は抽象的な論理であるから、それを混同してはならないという意識があったので、差別そのものに反対することに偏見を持つことは免れた。

しかし、フェミニズムに対しては、現実的な経験がなかったこともあり、これの論理的側面と現実的な批判とを直結してしまって偏見を持ったような感じがする。はてなダイアリーの方にトラックバックをもらった「あえて、反フェミニズムを擁護する」を読んでみると、次の指摘にはなるほどと思えるものもある。

「この場合、秀さんが捉えそこなったのか、つい口が滑って違う論点に話がいってしまったのか、定かではないが、「内田センセイ」によるフェミニズム批判は実は結構、簡単なものだ。わりとベタに上野千鶴子が嫌いなだけみたいな感じは否めないのだけれども、それを抜きにして、単純に言うと要するに、

フェミニズムというのは「女として」語るというが、じゃあその「女」って何かね?「女」そのものなんてわしゃ見たことも触ったこともないし、今話してるのは「女」なんてもんじゃなく「あんた」じゃないか。「私たち、女たちは」なんて言い出したところで、「女」なんてそんなに単純にくくれるものではないだろ。」

と、いうことであるのだと思う。」

これは、具体的なある言説に対する批判なら正しいと僕も感じる。だから、内田さんの正しさは、常に具体的に誰が何を言ったかと言うことに対する批判になっていることにあるのではないかと思う。だが、これをフェミニズム一般に広げてしまえば、論理としては逸脱してしまうのではないかと思う。僕はそのような逸脱をしたというのが自分の判断で、その逸脱の原因は、どうやら「フェミニズム」という言葉への偏見からのものだろうというのが自己分析だった。

ただ、これは僕が持っていた偏見に対する批判であって、僕が「フェミニズム」に対して偏見を持っていたからといって、「フェミニズム」が批判を許さない真理だと言ったら、これはもう一つの偏見になってしまうだろう。僕の間違いとフェミニズムの正当性とは一応切り離さなければならないと思う。

だから、

「どっちかって言ったら、内田樹は嫌いなんだけれど、まあ失礼を承知で言ってしまえば、この「論争」でフェミニズムはが「勝って」、「敗北した」秀さん=「内田センセイ」ということになり、フェミニズムは「内田センセイ」に「勝ち」、その正当性は認められた、というようなことになると拙いなあと思って。それに関してそんな意図はしていない、というような言い方は無しだ。意図していなくても、そういうふうな図式になるのがネットの「論争」というもののであるし、そんなことは分かりきっている筈だから。」

と、このトラックバックで語っている心配は、もう一つの偏見として意識しておかなければならないのではないかと感じた。論理的には、僕の論理展開に正当性がなかったということであって、それによって、批判の対象になっていた「フェミニズム」全体の正当性が証明されたということではない。全体性の中には、まだ確実になっていない部分もあるだろうから、その確実性を高めるためにも批判は必要なのではないかと思う。しかし、それは正当な批判によって確実性が高まるのであって、的はずれな批判によっては正当性も高まらないと受け取らなければならないのではないだろうか。

しかし、「そういうふうな図式になるのがネットの「論争」というもののである」というのは、なかなか困ったものだと思う。ネットで「論争」と呼ばれているものは、その結果としての勝敗にしか関心がないのだろうか。これでは「悪貨は良貨を駆逐する」という社会法則の正しさを確認するような出来事を経験するだけではないかと思う。

自分のことを褒めているようで気が引けるのだが、自ら間違いを認めるというのは、ある程度の誠実さがなければ出来ないことだろうと思う。そうすると、誠実な人間ほど完全な敗北の形を見せると言うことがあるかも知れない。あくまで詭弁を強弁して、間違いを認めなければ、形の上では負けたようには見えないかも知れない。

真理を悟ることよりも、気分的な勝利感の方が大事だと言うことがネットの常識であれば、ネットでのまともな議論というのはやはり期待出来ない。ネットで行われるのは、誹謗中傷と詭弁・強弁だけになってしまうのではないかと思う。

「そういうふうな図式になるのがネットの「論争」というもののである」ということが、果たして偏見なのか、それとも事実を語ったものなのか、なかなか判断は難しいものだろうと思う。これが事実であると思えるような例はあちこちに見受けることが出来る。しかし、だから論争では負けちゃいけないんだというふうに考えたら、この自縄自縛から逃れることが出来なくなるのではないだろうか。

一般論として語れば、三浦つとむさんがその認識論で語ったように、現実の対象は無限(可能無限)に多様で複雑であるにもかかわらず、人間の認識はその一部を制限された形でしか捉えられないと言うことから、認識は誤謬を本質的に伴うと考えなければならない。その一面を全面と勘違いすれば、偏見から逃れることも出来ないと考えなければならない。

一般論としてこのように考えれば、論争のどの論点で間違えて、どの論点で正しかったかと言うことを判定することは極めて難しいと言わなければならない。僕が、ディベートというものに対して、その論理の訓練としての効用を疑うのは、正しさの判定が難しい論理というものをあまりにも単純に判定しすぎていると感じてしまうからだ。

論争においては、そこに合意点が見つかれば、そこに正しさの可能性を見ることが出来るのではないか。しかし、合意しただけではまだ正しさは確実ではない。さらに確実性を高めるように努力しなければならないだろう。だから、一方がその間違いを認めた論争においては、その間違いという点で、誤謬を正しく捉えた可能性があるというふうにその論争を受け止めた方がいいだろうと思う。

双方が自分の間違いを認めず、相手の批判で終わってしまった論争においては、正しさは何も証明されなかったと受け止めなければならないのではないだろうか。論争の当事者は、自分の主張の正しさを疑わないだろうが、それは立場から来る正しさの主張であって客観的なものではないと思った方がいいのではないかと思う。立場から来る正しさは、もう一つの偏見である可能性が高いという自覚を持った方がいいのではないかと思う。

立場を越えた、ニュートラルな客観性というものが、果たしてありうるものかは難しいと思う。しかし、それが難しいものであっても僕はそれを求めたいと思う。それを求めることによって、自らの間違いも正しく間違いと受け止められる、本当の誤謬論に到達出来るのではないかと思うからだ。