天皇個人に対する偏見

先週のマル激では天皇制について論じていた。ここで僕の関心を引いたのは、議論されていたのが、天皇制という抽象的な制度という対象ではなく、具体的な天皇個人の問題として語られていたことだった。それは現在の明仁天皇を巡る問題だったり、昭和天皇である裕仁天皇を語るものだったりしていた。

天皇制という制度を巡っては、理論的には、それがすべての差別の根源であるという主張があったり、戦争における失敗が天皇軍国主義というものに帰して考えられているところがある。僕もかつては、これらの主張を素朴に信じていた。しかし、マル激の議論を聞いていると、問題はそれほど単純ではないのではないかと感じるところがある。

天皇という存在は、無条件の絶対的な聖性を持っていると考えられている。聖なる存在として、無条件の頂点に位置するというその属性から、反対の極にある、もっとも穢れた存在というものを必然的に生み出すという考え方が、理論として差別の根源であるという考え方だろうか。僕も素朴にそう信じていたところがあった。

しかし、世の中には聖なる存在だと思えるものが確かに存在するし、低俗だとして批判されるのが当然だというものも存在する。そのいずれもが、なぜ聖なるものなのか、なぜ低俗なのかという理由が見つかる。自分を犠牲にしても他人のために尽くそうとする姿には聖なるものを感じる。映画のヒーローにはそのような属性を持ったものが多い。

また私利私欲に走り、公共の利益よりも自らの利益を優先させるような行為に対しては、低俗なものとしての批判が起こっても当然だと思う。その理由や条件が具体的に明確なら、聖なるものとして尊敬するのも、低俗なものとして軽蔑するのも、ともに論理的にはもっともだと思える。

この理由や根拠が存在せず、抽象的に、証明抜きで聖なるものとして前提することが論理的な誤りだと指摘出来るものだと僕は考えていた。だが宗教などでは、信仰の対象となるものは証明抜きで聖なるものと前提している。それが論理的な間違いだとしたら、すべての宗教は間違いだということになってしまうのだろうか。これも極論の間違いのような気がする。

宗教は暴走すると社会に害悪を与えるが、それが穏健に人々の間の共通感覚として浸透していれば、逆に社会の安定に貢献する。人々が、受け入れがたい不幸に見舞われたときに、それを受け入れ、新たな再生の力を与えてくれるものが社会にとって穏健で有用な宗教ということになるだろう。

天皇制も、一つの宗教として、日本社会の安定化に役立つのなら、聖なる存在としての天皇に大きな意義のあるものと捉えられるかも知れない。小室直樹氏の天皇制主義は、そのような方向からの考察なのかも知れない。僕はそれに大きな違和感を感じながら見ていたが、天皇制が日本社会の安定に貢献するという判断をすれば、天皇制主義になったとしても不思議はないかも知れない。僕はまだそのような認識になれないので、依然として天皇制主義にはなれそうにもないが。

天皇制を一つの宗教として、その信仰を強制しようとしたのが、天皇軍国主義の失敗だったのではないかと感じる。信仰は強制して注入することで穏健に育つものにはならなかったのだと思う。戦争をやりたかった人間にとっては、穏健ではなく攻撃的な面が育った天皇軍国主義は、もしかしたら成功だったのかも知れないが、多くの庶民にとってはその結果を見れば、注入された宗教がいかに社会を破壊するかを経験したのではないだろうか。

戦後の日本に象徴天皇制という形で天皇制が残ったのは、これを穏健な宗教として存在させることで、日本社会の安定化に役立たせようとする考えをした者がいたのではないだろうか。戦後の天皇の存在は、聖なる存在という前提があるものの、それが聖なる存在、天皇個人が平和主義者であり・民主主義者であり・誰よりも日本の国と人民のことを思っている、という姿を見せることに努力していたのではないだろうか。

この姿に対して、理論的には天皇制は差別の根源であり、かつての戦争の間違いの象徴でもあったということから、その存在は今の天皇にも具体的に現れているはずだと考えて、天皇個人にも差別の属性を無批判に押しつけているとすれば、それは一つの偏った見方「偏見」になるのではないかと今は感じる。

抽象的な理論としては、その存在がそのように結論づけられるような感じがするが、その抽象論が現実にも適用出来るには、様々な条件を具体的に吟味しなければならないのではないかと思う。現実の天皇の存在は、象徴天皇制という規定から、象徴としてふさわしい存在になるような努力をしている姿がうかがえるのかもしれないと思った。

それは、マル激で指摘していたような、現天皇明仁天皇の様々な行為の中に、実に尊敬すべき姿勢がうかがえるからだ。一つは、正月の出来事だったが、東京都教育委員の棋士の米長氏が、「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事です」というようなことを語ったとき、明仁天皇は即座に「強制でないことが望ましい」という答をしていたことだ。

国旗・国歌に対しての批判は直接にはないが、それを強制するということをすれば、正しい志も間違った結果になるという、正当な指摘がここにうかがえる。いかに正しいことであっても、それを強制してやらせようとすることは間違いだ、ということを即座に言えるのは、民主主義やリベラリズムというものが、本当に自分の中に根付いているから言えるのだろうと思う。

また、米国領サイパン島にある太平洋戦争韓国人犠牲者追悼平和塔への訪問についても、明仁天皇歴史認識の正当さを示すものとして記憶しているものだ。民主主義やリベラリズムに対しての意識の素晴らしさを持ち、さらに歴史認識という科学性においても優れている明仁天皇については、この具体的な姿から尊敬の念がわいてくるのを感じる。

天皇だから聖なる存在だということを信仰するのではなく、具体的な姿を見て、それが非常に素晴らしいものだと感じて尊敬の念がわいて来るという感じだ。僕は天皇制主義者ではないが、この明仁天皇の姿には尊敬を感じる。

教条主義の間違いは、理論的には正しい帰結が、現実の条件を無視してそのままベタに適用されるところから生じる。現実の具体的存在は、その具体性を十分吟味して判断しなければならないのだが、理論の正しさが疑い得ないとなったら、そのような教条主義に陥る危険が出てくる。真理として充分確からしいからこそ教条主義に陥りやすくなるというのは皮肉なことだが、そのアイロニーを十分理解しなければならない。

天皇制というものの考えを、それを天皇個人にそのまま押しつけるのは一つの偏見からくる間違いを生む。これには充分気をつけなければならない。しかしまた、この偏見に気をつけて、明仁天皇という具体的な存在に尊敬感を抱いたからといって、その尊敬感を天皇制という抽象的な対象に無批判に広げてしまい、天皇制そのものも尊敬すべき制度だと考えてしまうのは、もう一つ別の偏見に陥ったことになるだろう。

具体性と抽象性は、認識の運動として昇ったり下りたりする過程とともに理解しなければならない。そのどちらにも偏見に陥る可能性があると考えて注意しなければならないだろう。それが誤謬論として大事なことだと思う。

天皇制の問題として抽象的に昇ったときの大事な問題としては、マル激を聞いていて次のようなものが浮かんできた。天皇制が穏健な宗教として日本社会の安定に役立ち利益として働いたとしても、その中に安住することは果たして正しいことなのかという問題意識だ。

穏健な宗教として存在するということは、様々な判断において、自分で判断するのではなくその宗教に従った判断に従うということを意味する。それは、宗教が穏健なものであればそれほど大きな失敗をすることはない。だから、自分で判断して失敗するよりは、宗教に従って失敗をしない方を選んだ方が安全だ。

だが、現在の日本のように複雑化した社会で、果たしてそのような単純な対応でいつも穏健な結果が出るというふうに期待出来るだろうか。象徴天皇制という宗教は、穏健な宗教として存在することが難しくなっていくのではないか。それはある政治勢力から利用され、天皇軍国主義の失敗を繰り返す可能性がないだろうか。

今の明仁天皇の時代においてはそのようなことはないだろうと思える。明仁天皇の具体的な姿は、天皇軍国主義の中心に座るようなことはほぼ絶対的にないと感じられる。しかし、天皇の世が変われば、どのような資質を持った人間が天皇になるかは分からない。

そのようなときのリスクを避けるために、日本国民は、象徴天皇制という宗教を必要としない、自らの判断で民主的でリベラルな道を選択出来るように努力すべきではないかと思う。明仁天皇個人には尊敬感を抱くが、天皇制そのものは、日本国民の成長を妨げるものとして穏健な形として廃止出来る方向が望ましいのではないかというのが今の僕の考えだ。

宮台真司氏は、天皇について語るとき「陛下」という敬称を使う。僕は、明仁天皇に対する尊敬感を抱いていても、この言葉を使うことには何か違和感を感じてしまって使えない。このあたりのメンタリティの違いを考えるのも面白いかも知れない。