映画の感想

土曜・日曜はケーブルテレビで撮りためた映画を見ることが多い。僕は、だいたい好きな俳優が出ている映画を見ることが多い。日曜日もカーク・ダグラス主演の「巨大なる戦場」という映画を見た。

映画の感想を語るにはどうしてもそのストーリーにも触れなければならない。だから、ストーリーの面白さを映画の楽しみの一つにしている人は、ここから先はあまり読まない方がいいかも知れない。ストーリーよりも、何がどう表現されているかに関心がある人には、人が語る感想も一つの見方として参考になるかも知れない。

さて、この映画は、イスラエルの独立の頃に、軍事顧問として独立戦争の指揮をするためにアメリカから招かれたミッキー・マーカスという人物の伝記を描いたものだった。この人物は優れた軍事家で、知性と勇気を併せ持った合理的精神の持ち主として描かれていた。

映画の主人公であるから、その魅力的な点を描くのは当然であるとしても、完全無欠のヒーローになってしまうと、何か安っぽいSF映画を見ているような気分になってしまう。そこはさすがに名優を配した映画なので、そのような安っぽさはない。いかに優れた指揮官といえども困難な状況では失敗もするし、自らの使命感に忠実に生きていても、それを必ずしも共有出来ない妻との心の溝が広がっていくというような描写があり、何もかも理想的でいいことばかりが描かれているという映画ではない。

このような失敗や欠点を描くことによって、かえってリアリティを増して、主人公の人間性をより深く描くことでさらに魅力的に表現するという映画的な手法もあるのかも知れない。

僕がこの映画を見ていて気になったことは二つあった。一つは、これが中東戦争イスラエルの側の視点に立って描いていたことだ。映画では、最初から最後までイスラエル独立戦争を戦う側が、虐げられた抵抗者として描かれていた。独立戦争は正義の抵抗戦争として描かれていた。

これは、イスラエルの側に立てば当然のことではあるのだろうが、現在のパレスチナイスラエルの姿を見ている目からは、ちょっと一方的な描き方ではないだろうかという疑問はわいてくる。アラブの側は、独立を弾圧する理不尽な存在として、600万人を虐殺したナチスドイツと重なるようなイメージで描かれているように感じた。

アラブの側の重火器に対して、イスラエルの側がライフルだけで戦車に挑む姿は、愛国の精神だけで強大な敵に向かう恐怖を克服しているという、何かナショナリズムを高揚させるような描き方をされている。現在では、イスラエルのミサイルに対して、石を投げるパレスチナの子どもたちの姿を見ていたりするので、これはまったく逆のことを描いているという感じさえしてしまう。

イスラエル独立の頃は、この映画に描かれたような状況だったのかも知れない。しかしそうであるなら、アラブとイスラエルの互いの心に深く刻み込まれた恨みと不信は、そう簡単にぬぐい去ることは出来ず、和平ということもかなりの困難を伴うのだろうなと思った。

歴史というのは、立場が違えば違って見えるというのは、「新しい歴史教科書をつくる会」でなくても、そう主張したくなることはたくさんあると思う。だから、歴史はそれを必要とする人々が自分たちの誇りを込めて作るものだという主張もある。この主張にも一理あるとは思うが、何か釈然としないものも感じる。

歴史が物語であるなら、この映画などは、歴史を描いたものとしてイスラエルの側からは歓迎されるだろう。だが反対の側からは、本当のことが描かれていないと思われるのではないだろうか。反対の側のことは考慮する必要がないといってしまったら、和平ということはまったく可能性が無くなってしまう。

スピルバーグが最近作った「ミュンヘン」という映画も、立場的にはまったくイスラエルの側に立った表現だったといわれている。これを、両方の立場に関係のない第三者は、「憎しみの連鎖」というものがいかにむなしい結果に結びつくかというメッセージとして受け取っているようだ。

しかし、そのメッセージは、あくまでも憎しみを持った当事者ではない第三者が感じるもので、当事者は、そのようなメッセージのニセモノ性を感じてしまうのではないかという批判があったように感じた。映画の表現としては、あくまでもイスラエルの側に感情移入して共感するようなものになっていたといわれている。

ミッキー・マーカスという人物の個人の描き方としては、様々な側面を表現して、そのリアリティを出しているのに、国家間の関係では一面的でリアリティを失っているような感じが僕にはしたのでそのことが気になった。政治的な側面は、立場抜きで表現するのは難しいのだなということも感じた。

もう一つ気になったのは、主人公のミッキーが死んでしまう最後の場面だった。これは事実を元にして作られているので、事実がそのように不条理なので、フィクションとして感動的に作ることが出来ないということがあるのだと思うが、ミッキーの死は、華々しい名誉の戦死というものではなかった。

それは一つの間違いで殺されてしまうという、まったく不条理な死だった。イスラエルの独立がアメリカに承認されて、独立戦争の方向がある程度期待通りに行くと感じたミッキーは、ここが潮時だということで帰国する決心をする。ある意味では、仕事をやり遂げたという満足感とともに、新たな出発をしようという門出でもあった。

妻とのギクシャクした関係も改善の方向を見出して、何かの希望を抱いていたと思う。映画的には、そのようなハッピーエンドを示唆して終わるという物語も作れただろうと思う。しかし、現実はそのような幸せにはつながってくれなかったので、映画としても史実に忠実に合わせたのだろうと思う。

もし、この映画が、実在する人物に材料を取ったとしても、それを実名で伝記的に描かなければ最後を変えることも出来たと思う。でも、僕はこの最後の終わり方の方が芸術としてはより深みがあるような気がする。

ハッピーエンドで終わってくれれば、映画を見ていい気分に浸りたいと思っている人は、それなりに満足するだろう。しかし、それは感情のフックに引っかけて、感情を刺激して気分をよくさせただけに過ぎない。そのような感情的な気分の良さは、映画を見終わったらすぐに忘れるようなものになるだろう。

しかし、見終わっても必ずしもいい気分に浸りきることが出来ず、何か引っかかりが残るとしたら、そこから違う種類のメッセージ性を受け取ることが出来る。このメッセージ性こそが芸術としての映画に通じるものではないかと思う。

この映画は、主人公が不条理な死を遂げることで、戦争の持つ不条理さをも表現しているのではないかと僕は感じた。ミッキー・マーカスは優れた軍事家であり、敵を殺し、味方が犠牲になったとしても、それだけで非難されることはない。それは、戦争においてはやむを得ないこととして人々に承認される。

むしろ、勇気を持って作戦を実行する姿に、指導者としての偉大さを見ることが出来るだろうと思う。ミッキー・マーカスの偉大さは確かなことではあるけれども、それでもなお戦争という行為は多くの不条理さを持っているのだということが、彼の最後によって描かれているのではないかと思った。

彼が死んでしまったのは一つの間違いだった。しかし、その間違いを犯した人間も、誠実さや真面目さのゆえに間違いを犯したとも言える。そのような間違いが戦争という行為には不可避につながっているのではないかというのが、戦争の持つ一つの不条理だと思った。

ちょっと前に見た、若いティモシー・ハットン、ショーン・ベン、トム・クルーズが出ていた「タップス」という映画では、この若い陸軍幼年学校の学生たちに、ある軍人が語る言葉があった。それは、勇気を持って死をも恐れない自分たちに誇りを持っていた若者たちに対して、軍人というのは死を恐れるものこそが本当の軍人なのだと語るものだった。

死を賛美してたたえるのは本物の軍人ではない、というその言葉は印象に残った。軍人にとってもっとも大事なことは、どうやって生き延びるかということだと、その軍人は若者たちを諭していたのだ。このような発想こそが、戦争の不条理を克服するものではないかと僕は感じた。

かつての軍国主義の日本では、死というものをあまりにも美しく賛美しすぎたのではないかと思う。このような発想が日本の軍隊にもあれば、多くの間違いは避けられたのではないかと思う。映画と違って、現実のアメリカの軍隊は、このような発想はもしかしたら少ないのかも知れない。しかし、映画の中でこのような描かれ方がするということには、人間の偉大さに対する一つの期待にもなるのではないかと思う。

「巨大なる戦場」も「タップス」も、いわゆる面白い映画ではないかも知れないが、立ち止まっていろいろと考えることが出来るという意味では、とてもいい映画ではないかという気がする。少なくとも、単純にヒーローが活躍するだけの映画ではなかった。