モラルやマナーの問題とルールの問題

僕は小学生の頃にプロレスのファンになったが、子どもだった頃は、単純にジャイアント馬場アントニオ猪木が一番強いものだと思っていた。よく考えてみれば、テレビの中継に合わせて試合が終わったり、どんなにたくさん試合をしても決して負けないなどということが現実にはあり得ないことを思えば、それが本当に強いのだということに疑いを持ってもよかったのだが、子どもの頃はそれほど深く考えなかった。しかし、そのおかげでプロレスファンとしては、プロレスを心ゆくまで楽しめた子ども時代を送れたので良かったとも思う。

少し大人になって裏が読めるようになってくると、プロレスの本質のようなものも分かるようになったが、それでプロレスが嫌いになったかというとそうでもなかった。むしろ本物の格闘技である総合格闘技やプライドのようなものがひどくつまらないものにしか見えなかった。ケンカをしたら誰が一番強いかなどというのは、見ていてもあまり気持ちのいいものではないからだ。

プロレスの面白さは、見せるための身体の動きの美しさにあると僕は思っていた。本当に相手を倒そうと思っている格闘技では、見せるためのポーズを取れば相手にそのスキをつかれて負けてしまう。見せるということは二の次になることは、そのルールから明らかのように思えた。

プロレスは、レスラーの肉体の美しさ(これは単に体型の美しさに限らず、信じられないくらい大きな人間という驚異的な部分を感じる美しさもある。そして、その動きの華麗な美しさも含む。)を観客に見せることで成立している芸術のように僕は感じていた。強さということよりも美しさの方が価値があるという感じだろうか。

だから、プロレスのルールというのは、その美しさを引き立たせるためのものであり、強いか弱いかを決定するものではない。5カウント以内であれば反則が許されるなどというルールは、もし強さを決定するのであれば、相手を一撃で倒すような反則を使えばいいことになるが、そのような反則を行うレスラーは人気が出ない。

反則というのは、観客の憎しみを集中させて、正義のベビーフェースが悪の反則レスラーを倒すことに気分の浄化を感じる観客の期待を盛り上げるためにある。反則で勝つレスラーは、プロレスの世界では邪道ということになる。時には反則で勝つように見える場合もあるが、それは最後のイベントでベビーフェースが逆転の勝利をすることを盛り上げるための途中の演出としてそのようなことが行われる。

力道山の試合なども、試合の大半は相手の技を受けてやられることが多かったという。そして、観客の気分が最高に達したときに、絶体絶命の危地から反逆をして、それまで我慢していた気分を一気に晴らすという試合に観客は拍手喝采したという。ジャイアント馬場アントニオ猪木の試合も基本的には同じような演出で作られていたと思う。最初から最後まで完全な強さを見せて勝利するのはあまり面白くないのだと思う。

だからプロレスラーの資質としては、いかに相手の技をうまく受けるかということや、技を見せる際の身体の動きの美しさ(バランスの良さ)をアピール出来るかということにあるのではないかと感じる。プロレスラーには強さは必要ないとも言えるのではないかと思う。

プロレスのルールには、噛みついてはいけないとか、目や男の急所をねらってはいけないとかいうルールがあるが、このルールはしばしば破られる。レフェリーの目の前でやられるときは、それがあからさまなときは反則負けになることもあるが、たいていは5カウント以内では見過ごされる。ルールはあって無いようなものだ。

しかしルールには書かれていないが、暗黙の了解のようなモラルやマナーに属するようなものを破ると、プロレス界を永久に追放されるような処分を受けることもある。それは、危険な急所をあえてねらうような攻撃をすることではないかと僕は感じている。かつて前田日明長州力の顔をねらってキックをしたのは、そのようなプロレス界のモラルに反するような行為だったのではないかと思う。前田は、そのことで当時のプロレス界からは追放されたのではないかと僕は感じている。

プロレスというのは自分の強さを証明すればいいものではない。対戦相手との共同で、肉体の動きの美しさを表現する芸術と言っていいものだと思う。対戦相手は、単に倒すべき敵ではないのだ。むしろ、共同で作り上げる芸術として質の高いものを作れる相手は、大事にしていかなければならない相手だ。その相手をケガさせるような恐れのある、急所への攻撃は最大のタブーになる。

強さを競う各闘技では、その相手と対戦するのはただ一度だけになるかも知れない。そのような相手との対戦であれば、相手を倒すことだけに集中すればいい。その相手とまた明日も観客を喜ばせるような試合を見せる必要がなければ、運悪く相手にケガをさせたとしても、それは試合の不可抗力として仕方がないものとされるだろう。

しかしプロレスでは、同じ相手と何回でも、芸術品としての身体の動きを見せるという試合をしなければならない。強さを見せるよりも、美しさを見せるという目的から、プロレスではルールよりも大事なモラルやマナーが存在すると僕は思っている。

宮台真司氏は、人間のいろいろな行為をゲームという比喩で捉えて、そのゲームを成立させているプラットホームという言葉で、ゲーム盤の重要性を語ることがある。このプラットホームの存続に関わるものが、ルールよりも大事なモラルやマナーというものになるのではないかと僕は考えている。

プロレスというゲームを支えるプラットホームは、対戦相手を大事にしてケガをさせるような無茶はしないということが、暗黙の前提として存在しているのではないかと思う。もしこの前提が無くなってしまえば、プロレスというゲームそのものが崩壊してしまう。

しかし、このモラルやマナーは、あくまでもモラルやマナーでありルールにはならない。もしこれをルールにしてしまったら、やはりプロレスのプラットホームは失われてしまうのではないかと僕は感じる。

もしプロレスのルールの中に、相手をケガさせるような無理な攻撃をしてはいけない、などということを入れたりしたら、プロレスはニセモノの格闘技だということを自ら語っているようなものになる。プロレスは、そのような暗黙の前提があるにもかかわらず、幻想的に格闘技として競うことによって、その動きの美しさや気分の浄化を味わう芸術として機能しているのだ。暗黙の前提をルール化することは、そのような幻想をぶちこわすことになってしまう。プロレスの面白さを破壊してしまうのだ。

モラルやマナーは、ゲームに参加する人間が、そのゲームを深く知れば知るほどその重要性を認識出来るものとして存在していなければならないと思う。初心者がこれを知らなくても仕方がないが、そのかわり初心者にはルールを厳しくして、モラルやマナーを破らないような配慮をしなければならないだろうと思う。プロとしての技量が高くなればなるほど、モラルやマナーの意識も高くなるということが必要だろうと思う。

さて、長々とプロレスについて考えてきたが、実は最近の村上ファンドの問題に関連して、僕は、証券市場というもののモラルやマナーの問題とルールの問題とが気になってこのようなことを考えてみた。

村上氏は、単純にルールに違反したから違法として断罪されているのだろうか。それとも、証券市場というプラットホームの存在に関わるモラル違反やマナー違反があったから、厳しいルールの適用がされているのだろうか。

インサイダー取引というのは、その判断がかなり難しいものらしい。証券市場で儲けている人間は、大なり小なりインサイダー取引の疑いがある行為につながる恐れがあるともいわれている。村上氏の場合は、その金額があまりにも巨大だったことがルールに違反した行為となったのだろうか。それとも、影響の大きさを考えて、厳しいルールの適用がなされたのだろうか。

ルールの問題には、違反者をどう適切に処罰するかということもある。厳しく罰することもあれば、時には見過ごされることもある。そこにはいろいろな判断が関わっているだろうが、論理的な妥当性というものはどう考えられるだろうか。

サッカーの試合などでは、ルール違反の反則があった場合でも、反則をされた方がその後の展開でむしろ有利に展開しそうだと判断したら、審判はその反則を摘発せずに、試合をそのまま流すこともあると聞いたことがある。これは妥当な判断ではないかと思う。

またルール違反に対して、相手の反省を促し、自らの失敗を深く自覚したなら、それをあえて摘発して処罰することはしないという教育的配慮というものもある。教育的配慮の場合は、処罰することよりも、深く反省させる方が大事だから、それが行われればそちらの方がいいという判断だ。これも妥当なものだろうと思う。

村上氏のルール違反がどのようなものであるのか、それはモラルやマナーの違反にも通じるものなのか、また処罰や責任の取り方はどうすることが妥当なものなのかというのは、けっこう難しいのではないかと思う。金儲けしか頭にない金の亡者が悪いことをしたから、見せしめのために重い罰を科せばいいと単純には考えられないのではないかと僕は感じる。

資本主義の証券市場というものが健全なものであるためには、そのプラットホームを支えるモラルやマナーというものはどんなものがふさわしいのか。もし、モラルやマナーに関わる部分までルール化してしまうと、証券市場というものが持つ利点が殺されてしまわないのか、そのような問題があるのではないだろうか。ワイドショー的に、気に入らないやつを叩くという方向は、何か誤謬をおかすのではないかと僕は感じる。