元気でいること

今週配信されているマル激のゲストは衆議院議員の辻本清美さんだ。その前は自民党総裁候補の河野太郎さんだった。またちょっと前には、民主党保坂展人さんが出ていた。いずれの人にも共通するのは「元気」だと言うことだった。難しい問題に取り組み、逆風が吹いている状況かも知れないのに、彼らはいずれも元気に活動していた。そのさわやかさに大きな共感を覚える。

河野さんは自民党総裁という、リーダーの中のリーダーを目指している人だが、国会議員であるということがすでにある種のリーダーとして存在しているとも言える。三浦つとむさんは、「指導者の理論」で指導者はその行動において模範を示さなければならないということを書いている。その意味では、この3人は模範となる行動で、指導者としての資格を獲得していると言えるのではないかと思う。

宮台氏は以前に国会議員にプライベートはないと語っていた。すべての行動が公共性を持ったものだという主張だ。それから考えると、この3人の行動は、常にパブリックな活動がプライベートな活動に優先しているとも言えるのではないかと感じる。このあたりも指導者にふさわしい資質を持っているのではないかと感じるところだ。

リーダーと言うことで連想が浮かんでくるのは、オーストラリア戦で惜しい敗退をしたサッカー日本チームの中田と中村の二人だ。二人とも高い技術を有し、その冷静でクレバーな頭脳による判断は、充分他のメンバーの模範となっているので指導者としての資格を有していると思われる。しかし何か足りないものも感じる。その足りない何かは「元気」というものに通じる何かではないかと感じた。

これは二人の性格や、冷静でクレバーな頭脳を保ちたいと言うことが影響しているのだと思うが、見るからに元気だというカリスマ性はなかなか感じない。熱狂的なオーラを発散するというタイプではないのだ。元気さに欠けていたように感じたのは、あの試合が途中までは勝っていた試合であったにもかかわらず終始重い雰囲気に包まれていたように思えたからだった。あの試合に、ただ一人中山のような元気な選手がいたらちょっと違っていたのではないかとも思って残念だった。

かつての「ドーハの悲劇」の時は、思いがけない交通事故にあったときのような感じがあったが、一昨日の試合では、一度切れた糸がつながることなくそのままボロボロになっていくような感じで敗戦までの10分が過ぎたように感じた。

元気さを体現するリーダーにはいろいろあると思うが、典型的なのは小泉さんかも知れない。小泉さんが言うこと・やることは、ほとんどが間違っているのではないかという気もするが、小泉さんが言う通りにしていると何かいいことがあるのではないかという気にさせるような元気さがある。そのあたりのカリスマ性は典型的に表れているのでいつまでも支持を失わないと言う感じがする。逆に言えば、小泉さんのような元気さがないリーダーが同じことをすれば、そのメッキがいっぺんにはげて支持を失うだろうというような感じもする。

他者を鼓舞するリーダーとしての資質から言えば、ヒットラーでも最高のものがあったのではないかとも思える。そういう意味では、この資質は社会に与える影響は諸刃の剣だと言えるだろう。この元気さの資質はいったい何からもたらされるものなのだろうか。

ヒットラーの場合は、狂信的な信念がその元気さの原点にあったとも思える。自分が信じるものに疑いを持たず、それが絶対的に正しいと思っていれば、正しいことをする自分が元気でいないはずが無いという感じだろうか。小泉さんにもそれに近いものを感じる。狂信の対象とされる新興宗教の教祖などもそれに近いものがあるだろうか。どんなことがあろうとも自分の信念が揺るがないと言うことを基礎にした元気さというものがあるのを感じる。

冷静でクレバーな頭脳の持ち主は、このような狂信的な信念を持つことが出来ない。だから、このような種類の元気さは資質として持ち得ないと言うことがあるだろう。中田や中村にこのような元気さを期待しても難しいと思う。

冷静でクレバーな人間は自分の状況を的確に把握する。不利であり勝てる要素が少ないとなれば、それなりの対応をしようとするだろう。空元気を出すことは出来ない。冷静でクレバーな人間が元気を出すためには、状況を改善して自分に有利なように変えていくか、充分勝てる可能性が高いという判断が出来るときに勝負に出ると言うことが出来るときになるだろう。

仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんや、その仲間である岩波映画社で科学映画を作っていた運動家の牧衷さんは、冷静でクレバーな人間であるが実に元気な人間であるように見える。その元気さは、狂信的な信念から生まれる元気さではない。未来に対する大きな信頼感から来る元気さのように見える。

牧さんは、運動が好きで他者に働きかけることが好きな元気な人だ。生まれついてのリーダー性を持っている人のように感じる。若い頃は、狂信的な元気さで引っ張ったこともあったそうだが、それで失敗して、運動において「穴に落ちる」と言うことを深く反省して今に至っている。

その牧さんは、運動は勝てる運動しかしないということを明言している。勝てる可能性があるところに全力を注ぎ込むので、常に希望を抱くことが出来て元気でいられるというわけだ。

勝てない運動には手を出さないのだそうだ。これは今までの運動の考え方とはまったく違う革命的なものだと僕は思う。今まで運動に携わる人たちは、たとえ勝つ可能性が低くても、それは大事なことだから、訴え続けるためにも運動をしなければならないと考えていた人が多かったように感じる。まったく成果を感じられないつらい運動でも、その重要性を自覚した人たちが頑張っているというのが運動の現場であるように僕は感じていた。

牧さんは勝てる運動しかしないといっているが、それでは勝てない運動は自分とはまったく関係がないものとして無視するのかと言えばそうではないようだ。旗幟鮮明にして旗を立てておいて寝るというのが牧さんの戦術のようだ。運動というのは、それが大事であり正しいものであれば、必ず勝てる時期というものが訪れる、というのはやや信念のようでもあるが、経験的な真理のようにも感じる。牧さんは、勝つ可能性が少ないときは、それが勝てるようになるまで待つというのが基本的な戦術となっているようだ。今は勝てないかも知れないけれど、将来は勝てるだろうという希望が元気さを保つ秘訣かも知れない。

板倉さんの元気さは、科学的真理に対する信頼感から来る元気さのような感じがする。板倉さんは「真理は10年にして勝つ」という格言を語っている。今はなかなか理解されない真理であっても、10年もすれば理解する人の方が多数派になるという希望と信頼がここにはある。問題は、それが真理であるという確信が得られるかどうかと言うことだ。板倉さんは、それが科学であれば100%の信頼を置いて真理であると確信しているのでこのような元気さが出るのだろうと思う。

板倉さんの格言に「どちらに転んでもシメタ」というものもある。これは、世の中の構造をよくよく考えてみれば、必ずプラスに転換する方向が見えてくるので、それを見つけることが出来れば「どちらに転んでも」いい方向に転換出来るという意味で「シメタ」なのだと言うことだ。

これは、「ものは考えよう」という格言とよく似ているが、板倉さんの発想では、考えるだけではなく、その対象に客観的に存在している属性がプラスになるようなものが必ず発見出来るのだという意味が込められている。フィクションで元気になるのではなく、実質的に元気になるような方向を見つけるということだ。

学級崩壊が始まって、子どもたちがわがままになったといわれたときに、板倉さんは仮説実験授業にとってはいい時代が到来したと語ったものだ。仮説実験授業は、子どもが主体性をもって、それが面白いかどうかを自分で判断して授業の中に入ってこなければ成功しない。わがままと紙一重の主体性が明らかに表に出るようになった時代は、まさに仮説実験授業にとっては、その正否が確立される時代が到来したと歓迎したのだった。

冷静でクレバーな人間は、先が読めるので、ある意味では先が見えすぎてお先真っ暗という状況にもなりやすい。敗北主義的な元気のなさが襲いかかってくる恐れがある。その時になお元気を保つための技術として「どちらに転んでもシメタ」という発想は有効なものだと思う。人間は失敗することも多い。それだけに、その失敗を乗り越えるためにも「どちらに転んでもシメタ」だと受け止めると元気を失わずにすむだろう。

ワールドカップで初戦敗退したチームが決勝トーナメントに進む確率は4%だというニュースがあった。これはお先真っ暗の元気を消沈させる発想だなと思う。これをどうやって「どっちに転んでもシメタ」という発想にするかが、これからの試合で元気を出せるかどうかに影響するのではないだろうか。

決勝トーナメントに行く可能性が薄くなったということは、ある意味ではこれからの2試合は勝負というものにあまりこだわらなくてもいい試合として受け止められるのではないかとも思える。これを勝たなければならない試合だなどと考えるとかえってプレッシャーが強くなってまた元気がなくなると思うが、勝負は関係ない、いいプレーをしようというふうに気持ちを切り替えれば、冷静でクレバーな人間はかえって元気が出るのではないかとも思える。

人間にとってプレッシャーが動きを悪くするというのは科学的真理ではないかと思う。人間というのは、それくらい精神的な影響を強く受ける生き物だと思う。この敗戦によってよりプレッシャーを受ける方向へ行ってしまうのか、それともプレッシャーを取り除く方向へ行けるのか、どちらへ行くかで「どっちに転んでもシメタ」が実現出来るかどうかが決まるのではないだろうか。

僕は子どもの頃学校の勉強は嫌いだったがテストは好きだった。テストの時の緊張感が、普段は出来ない発想が出来たりして、その集中力を高めていく感じが好きだった。テストはまったくプレッシャーにはならず、むしろ実力を高める方向に作用してくれたからだ。しかし、それは、どのような結果が出ようともまったく気にしなかったということがあったからだろうと思う。テストの結果を気にしてそれを受けていたら、おそらくプレッシャーを感じて普段の力も出せなかっただろうと思う。『車輪の下』のハンス・ギーベンラートがプレッシャーに押しつぶされたようになってしまうだろう。

たとえ0点を取っても気にならないというプレッシャーのなさが、僕にとってはテストの問題を考えるということに集中することを楽しみと感じられるような元気さをもたらしてくれたのだろうと思う。たとえまったく知らないことであっても、そこに問われている問題に関連して集中して頭に浮かんでくることを考えるというのは、短時間のテストの時間内だけであれば、その集中した頭の状態がとても心地よく感じたものだった。

いろいろな意味での元気さを持ちたいものだと思う。信念の中で感じる元気さも、気分的には悪くないだろうなと思う。それが、他の元気さと調和よく保たれるのならいいものではないかと思う。