二項対立の止揚としてのヘーゲルの弁証法

僕は、弁証法の論理を三浦つとむさんを通じて学び、それが発想法として有効だという板倉聖宣さんの指摘が気に入っていた。三浦さんが語るヘーゲルについて学ぶことはあっても、直接ヘーゲルに関して学ぶことはしてこなかった。それは、ヘーゲルの言い回しが難しくてよく分からなかったからというのもある。

三浦さんの弁証法の解説は、あくまでも現実の具体的な世界を分析することによって、現実の弁証法性を理解することによって、現実存在の構造としての弁証法の論理を学ぶというやり方だった。これはとても分かりやすい方法だった。現実の対象が自分にも分かるものであれば、それをどのような視点で見ればどこに弁証法性が見えるかということが分かったからだ。

これは弁証法そのものを学ぶには分かりやすかったが、現実を学ぶことで済ませられるので、歴史を学ぶ必要がなかった。だから、三浦さん以前のマルクス弁証法ヘーゲル弁証法というものについては、漠然とイメージのようなものはあったが、それがどのようなものであったかという具体的な内容をつかむことは出来なかった。

ヘーゲル弁証法については、世界を結果として見るのではなく過程として見るところに特徴があるというのを漠然とつかんでいたに過ぎない。それが、仲正昌樹さんの『分かりやすさの罠』という本を読んで、ヘーゲル弁証法というのは、どうやら二項対立というものを過程として捉えたものではないかという具体的な内容が浮かんできた。

哲学における究極的な二項対立というのは、精神と物質とどちらが根源的かというものだと僕は思っていた。そして、三浦さん的な唯物論の考え方と、板倉さんの科学の考え方からすれば、まずは物質的な存在があって、それを対象として認識するという精神の作用が生まれると考えるのが自然だと思っていた。だから、この二項対立は唯物論の方が正しくて、観念論は、行き過ぎれば妄想的な精神主義につながったりするので間違いだというのが僕の素朴な感覚だった。

しかし、これは素朴すぎる単純な理解だったかも知れない。物質的存在が根源的だと考えた場合、その根源的な存在として、精神の作用のないカント的な「物自体」という存在を想定せざるを得なくなるような気がする。

三浦さんによれば「物自体」という存在が持っている不合理性は実践を通じて克服されると語っていた。仲正さんも例として引いているが、コールタールの中のアリザリンという紅色染料が、それが発見されなかった間は、存在してはいたが知られていなかった「物自体」であり、発見されることによって認識される物となったということで、「物自体」が実践によって克服されたと考えるというものだった。

しかしこれは本当に「物自体」の克服になっているだろうか。アリザリンの場合はそれが知られることによって認識の対象になった。しかし、永久に知られることのない物は「物自体」にとどまって我々の認識の対象にならない。それすらも根源的な物質的存在と呼ぶのには少しためらいがある。存在が確かめられないものに対して存在だと言っていいものかどうか。

存在が確かめられるには、我々の精神の側にも、その存在を確かめるための準備がいるのではないだろうか。何の準備もなしに、いきなり存在が飛び込んでくるということはないのではないか。卑近な例でいえば、「肩こり」というものを感じる人と感じない人がいるという話を聞いたことがある。「肩こり」を感じない人は、精神の作用の中にその認識がないので、「肩こり」そのものが存在しないかも知れない。それを他者が感じるからといって、根源的な物質的存在だと言えるかどうか。感じない人には存在しないとも言えるのではないか。

また原子の存在というのは、原子論的なものの見方が出来る人には、目には見えなくても、ノーミソの目という想像力でその存在を見ることが出来る。それは、物質的な存在があるから見えるのだと結果的には言えるだろうが、それが見えてくるには原子論的見方という精神の働きを前提にしなければならないだろう。そのような精神の働きなしに、原子が物質的に存在しているから、それが反映して人間に認識されるといっても、それはあまりにも素朴に単純に信じすぎているのではないかと思われる。

精神と物質の二項対立については、それを究極的に決着をつけるのは間違いで、具体的な認識においては常に過程的に対立が存在するのだと理解する方が正しいのではないかと思えてきた。ある場合には精神が先行することがあるし、ある場合には物質が先行する場合もあると理解するのが弁証法的な理解なのではないだろうか。

ソシュールが、言語によって現実を切っていくと指摘していたのは、精神が先行している場合を語っていたのではないだろうか。言語によってある種の世界認識の像が先行しているときは、現実の存在をその像に従って切り分けていくような認識が生まれるだろう。そして、その切り分けに従わない予想外の存在が見えたとき、新発見が生まれたと言えるのではないだろうか。板倉さんもその予想論で、予想をしなければ予想外のものは発見出来ないと語っている。人間の認識において積極的な面を見せる「発見」というものは、精神が先行して物質を見るときにもたらされるのではないかとも思える。

しかし、ある場面において精神が先行したことを、すべての局面において広げてしまえば、過程的だったものが固定的になり、観念論的な妄想を生むことになるだろう。言葉が存在すれば、その言葉どおりの現実が必ず発見出来ると考えれば、それは言霊信仰になるだろうし、極端な精神主義を生むきっかけにもなる。

それは過程的な現象であり、発見のきっかけが精神の働きの先行だとしても、発見した対象は発見する前からそこに存在していたのであり、それが発見によって精神にもたらされたという唯物論的関係は、また過程的なものとして捉えることが出来る。精神と物質の二項対立は、このように過程的なものであり、決して決着がつかない永遠の運動として捉えることが弁証法なのではないだろうか。

ヘーゲル弁証法が「止揚」であるということの意味を、それが過程的構造を保ちながらも一段高い段階へ発展していくことから「止揚」という言葉を仲正さんは使っているように思われる。認識が深まって、対象に対するより深い知識・より本質的な理解が進むというふうに捉えているように感じる。

これは板倉さんの仮説実験の論理にも通じるものではないかと感じる。板倉さんの仮説実験の論理では、対象に対して仮説を持って問いかけることによって、対象の持つ科学的性質が一つずつ明らかになっていく。仮説を持たず、予想を持たなければ、どの現象も、単に事実としてそう言うことがあったという経験で終わってしまう。それを、経験にとどめることなく、一般性を持った法則的認識にまで高めるのが仮説実験の論理ということになる。

二項対立というのは、どちらかが正しくてどちらかが間違っているという決着を見せるものもあるだろう。この場合は対立は解消されて解決される。しかし、精神と物質のように、どこかで終止符が打たれるのではなく、永遠の対立を背負って運動し続ける二項対立というものもあるかも知れない。このような二項対立の場合は、二項対立した状態こそが正しい状態で、それを過程的に理解する必要があるのではないだろうか。そして、その対立の理解を深めていくことこそが止揚になると考えられるのではないだろうか。

ヘーゲル弁証法をこのように理解すると、世界を結果ではなく過程と見る見方というのがかなり具体的に頭に浮かんでくる。しかしヘーゲルは観念論者といわれているように、この過程に精神の方が先行するという決着をつけてしまったようにも見える。「絶対精神」という到達点を否定して、この二項対立を過程に引き戻すにはどうしたらいいのだろうか。

今までは、それは観念論だったから間違っていたのであって、唯物論を基礎にすれば弁証法が正しい道に戻ると思っていたが、唯物論も究極的なものとして固定してしまえば、同じような二項対立の固定化につながってしまう。逆立ちしているのをちゃんと立たせればいいのではなく、立ち止まっているものを歩ませるという運動の側面を持たせなければならないのではないかと思う。

そのヒントとして仲正さんはヴァルター・ベンヤミン(1892〜1940)の考えを紹介している。以下に引用しておこう。

ベンヤミンの仕事は非情に多岐にわたる上かなり複雑なので、その概要を要約するのは難しいが、正当マルクス主義史的唯物論からの距離の取り方という側面に限定して言えば、

1 「始まり」と「終わり」が確定している歴史発展の普遍的法則のようなものを疑い、むしろそのような“法則”を求めようとする主体の願望の解明に焦点を当てる、

2 客観的に実在する“物”の普遍的性質を探求するのではなく、「主体」のユートピア回帰願望がどのように「客体」(=“物”)の表面に表象されているのか、「客体」を構成する素材(Material)の微細な構造に即して美学的に分析する−−の二つの特徴をあげることが出来るだろう。」

「始まり」と「終わり」があれば、それは過程ではなく決着がついたものになってしまうから、過程に注目するには1は大事なことだろうと思う。2は理解するのが難しい。仲正さんも、「これは見方によっては、「客体が主体によって構成される」という前提に立つカント主義に回帰しているようではあるが」と語っている。二項対立を、過程ではなく観念論の方に偏って見ているような感じも受ける。

しかし、これは次のように理解することが必要だろう。

ベンヤミンは「主体」の“本質”をア・プリオリに措定して、そこから演繹的に理論体系を構築しようとするわけでもない。「客体」という形で“私”の目の前に現れている“物”をじっくり見ることによって、「主体」としての“私”自身がいったい何を求めているのか、歴史的・社会的パースペクティヴを背景としながら、間接的に解明しようとしたわけである。我々の生きている世界に“存在”する“物”は、“私”たちの願望を映し出す鏡、あるいは媒体(メディア)なのである。ベンヤミンは、都市空間、歴史的建造物、商品、芸術作品などとして社会的意味を帯びて現れてくる“物”を媒体として「私」自身を知ることを、唯物=素材論(Materialismus)の本来のあり方と考えたわけである。」

物を鏡として認識するというのは、三浦さんも語っていたことで、これは物が精神によって作り出されると考えるのではなく、物質と精神の働きの相互作用を過程として捉えることになるだろう。「「私」自身を知ること」がどんどん発展して深まっていけば、それは二項対立の止揚につながるのではないかとも思える。ベンヤミンという人に大きな関心が生まれてきたのを感じている。