世界観や立場と真理性の問題

僕は若い頃に三浦つとむさんに出会い、その見事な論理の展開に魅了されて、すっかり唯物弁証法の信奉者になった。これこそが現実の真理を発見する方法だと思ったものだった。数理論理学も真理に至る一つの道だとは思ったが、それは数学という限られた対象の世界での真理性を求めるものだと思っていただけに、広く世界を対象にして現実の物事に対する真理性を判断する道具として唯物弁証法は素晴らしいものだと思った。

それと同時に、三浦さんが批判する観念論や形而上学などは、結果的には誤謬に導くものとしてあまり深く考えることなく思考の対象からは捨ててきたように思う。その具体的展開としての構造主義批判やソシュール言語学批判なども、三浦さんの文章を読むことによって、その批判的側面を理解したつもりになって、これも深く考えることなく捨てられるものとして受け取ってきたように感じる。

しかし、観念論・形而上学構造主義ソシュール言語学といったものは、今の時代の観点からは批判される部分が多いとしても、それが主流を占めた当時は、その時代の最も優れた人々を魅了した考え方だったのではないかと思う。単純に時代が進んでいなかったから間違えたのだという理解ではどうもしっくり来ないものを感じる。実はたいへん魅力的な優れた考え方の近くに誤謬の落とし穴があるのではないかという感じもする。

構造主義に関しては、内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』という本で再評価・再発見することが出来た。構造主義というのは思考の枠組みであり、一つの視点を提出するものであるというとらえ方が出来た。構造主義そのものが正しいか間違っているかというとらえ方をすれば、すべてにわたって正しい解答を出すものではなく、時には行き過ぎた逸脱した適用によって誤謬を生むのだから、総体としては間違っていると言わざるを得なくなる。

しかし、それの適用の行き過ぎに注意をし、一つの視点を設定するものとして利用すれば、構造主義は発想法として非常に役に立つものになるのではないかと思った。特にそれまでの常識が、構造主義が提出する視点をまったく考慮に入れていなかったりすれば、構造主義の視点によって新しい発見がもたらされるのではないかと感じる。

ある種の視点を提出する世界観に関わるものは、その視点を固定して他の見方を排除してしまえば、その視点にふさわしくない対象を考えるときに誤謬をもたらすだろう。それは弁証法といえども、弁証法性を持たない対象を考察すれば、弁証法的に考えることによって間違えるという弁証法性を持つことになる。これは三浦さんも指摘していたことだ。

構造主義は大変便利な道具だったから、あらゆる対象を構造主義的に解釈したくなったのではないかと思う。そうすれば当然逸脱した適用の仕方も出てくるだろう。そこが構造主義の間違いとして批判されることになったのではないかと思われる。構造主義の適用を間違えたのか、構造主義そのものに欠陥があったのかは、非常に微妙なところになるだろう。

これは、近年マルクス主義も同じ道を歩んだのではないかと思われる。マルクス主義も非常に便利な道具であり、それまでの常識をひっくり返すような斬新な視点を与えてくれる発想法だったと思う。しかしすべての社会現象をマルクス主義的に解釈しようとすれば、それは論理を無理やり現実に当てはめるという間違いを犯すことになるだろう。

マルクス主義ではブルジョアジープロレタリアートという二項対立的な視点で社会を見る。そして、資本主義社会が否定されて理想とされる共産主義社会が訪れると言うことを歴史的必然性と考える。三浦さんが語っていた理想的な共産主義社会(社会の生産能力が発展し、誰もが必要に応じて社会的な生産物を受け取ることが出来る社会)は、まさに実現されれば素晴らしいものに感じたものだった。

しかし、共産主義社会へと向かっていった現実の社会主義国家は、とても理想が実現出来るようには見えなかったものだ。これはマルクス主義の理解と実践に間違いがあるものだと思っていた。三浦さんのように正しい理解があれば、理想に向かって進めるものだと僕は思っていた。

しかし、ことはそう単純なものではなさそうだと言うことが年をとることによって分かってきた。いくら理想的な正しい考えだと思えても、それが理想的であればあるほど現実には実践は難しい。そして、理想が理想であるがゆえに間違いに落ち込む道がたくさんあるように思えてきた。地獄への道は善意によって敷き詰められているという感じが実感として分かってきた。

三浦さんを通じてマルクス主義を学んでいたときに、他のマルクス主義の文献も読んでみたが、資本主義を評価しているものは無かった。資本主義の否定面ばかりが論じられていた。資本主義には否定されるべき面もあるだろうが、僕はそれが過去の時代を発展させた積極面もあるだろうと感じていただけに、それをまったく評価しないことに違和感を感じていた。板倉さんは、資本の発明と言うことを社会の発展の一つにあげていただけによけいに違和感を感じていた。

現実の社会主義国家の崩壊によって、あれほど正しいように見えたマルクス主義も、正しい範囲を逸脱して行き過ぎれば誤謬をもたらすという、ごく当たり前の姿を現実に見せてマルクス主義も終わってしまったように感じる。マルクス主義は、その真理性が完全なものに見えただけに、その崩壊も徹底した極限にまで行き着かなければ起こらなかったという感じもする。そのうさんくささを感じつつ真理性を問題にしていれば、極限に至る前にその誤謬に気がついたのではないかと思う。

世界観というものは、その総体を正しいものと思い込むのは危険ではないかと思う。むしろ、それは一つの視点を提出するものであって、常に別の視点を意識しながらその視点を利用するという意識が必要なのではないかと思う。別の視点を意識することで、その視点の固定化や行き過ぎを防げるのではないだろうか。

これは弁証法というものがそれを語っているのだが、弁証法も、それだけの視点にこだわっていると弁証法の視点が固定されてしまうという皮肉なことが起こってくる。弁証法に対しては、その反対である形而上学的な視点を意識しつつ、その視点でも時に眺めてみると言うことが必要なのかも知れない。

世界観における二項対立というのは、二項対立を解消するのではなく、永遠に二項対立を保ったままらせん状に発展していく道を考えなければならないのではないか、ということを仲正昌樹さんの『分かりやすさの罠』という本を読んで思いついた。世界観においては、どちらか一方が正しいのではなく、どちらも正しい場合を持っているし、間違った場合も持っていると受け取った方がいいのではないだろうか。そして、正しいとか間違っているとか言う判断が出来るのは、抽象的な世界観の範囲ではなく、具体的な対象を考えたときの具体的な判断として出てくるのではないかと感じるようになった。

正しいか正しくないかという真理性の問題がもっとも鮮明に出てくるのは、科学の考察においてではないかと思う。科学というのは、世界観のように完全な抽象化をして考える対象ではない。そこには常に現実的対象が存在して、現実に対しての法則性を語るものになっている。しかし、その法則性は、任意の対象に対して成立するという抽象性も持っている。現実性と抽象性の両方を持っているのが科学の命題だ。

数学は、現実性を切り捨てて抽象的な対象のみを扱うものとして、科学の中では特別な位置を占めている。これが真理性を主張出来るのは、抽象的対象を限定しているからではないかと思う。数学的な抽象的対象は、あらかじめ決められた対象の範囲にとどまり、それ以外は排除してしまう。だから、真理性を問題にすることが出来るのではないかと思う。

それに対して世界観の問題は、世界内存在のあらゆるものを対象にしてしまう。それは、まだ知られていない物さえも含む「実無限」の対象について語ることになるのではないかという感じがする。数学の抽象的対象は、知られていないものは排除しているので、「可能無限」に近いものを対象にしているのではないかとも感じる。

自然科学が対象にする任意性も、実験しようと思えばそれが出来るような対象に関する任意性になっているのではないかと思う。まだ知られていないような対象のすべてに関する言明は科学にはない。科学が語る対象は、ある範囲に属するもので、その範囲に属する対象は、実験の対象にしようと思えばどれでも自由に取りだしてこられる対象を扱う。実際には、どの対象を選ぶかで恣意性が生じるので、科学の真理性を検証するには、まだ知られていない未知の対象で、その科学が問題としている範囲に入りそうなものを探して来るというのが、仮説実験授業の発想なのではないかと思う。

科学における実験も個別的な経験を積み重ねているだけだ。しかし、その個別的な経験が、いかにして任意性と普遍性に通じるかは、仮説実験の論理に関わっているように僕は思う。それによって科学は真理性を獲得するのだという感じだろうか。

それに対して世界観の問題は、個別的な経験を考察するのは科学と変わりがないが、経験を越えた未知の世界を限定せず、世界のすべてを包括して捉えるところが総体としての真理性を語れないところではないかと感じる。科学は対象を限定するので真理性を語れるが、世界観は対象を限定しないので真理性を語れないのではないかと思う。

だから世界観や発想法に関するものは、真理性を問題にするのはあまり意味がないような気もしてきた。むしろ今までは真理ではないと感じてきたものに対して、実は真理性をもたらすような場面もあるのではないかという再評価をすることが面白いのではないかとも思うようになった。観念論は、今までは間違った考え方ということで深く考えたことはなかったのだが、これを再評価するのは面白いのではないかと感じている。

ソシュール言語学は発想法ではないが、それまでの言語学の対象を変えて、言語学に革命をもたらしたと言われている部分には発想法的な側面がありそうな気がする。今までは、三浦さんの批判によってその否定的側面しか考えたことがなかったが、肯定的な優れた面を再発見したいものだと思う。多くの優れた人々に影響を与えたものが、優れた面を持っていないはずはないと思うからだ。その優れた面が優れているという理解をしたいものだと思う。