論理の飛躍について −−無限を扱う場合

実無限と可能無限について考えたとき、無限の全体を把握したと考える実無限については、いろいろと困ったことが起こることが見つかった。いわゆるパラドックスと呼ばれるものだ。パラドックスでなくても、有限存在である人間的な感覚からすると奇妙に感じるものがある。

数学では極限の問題として次のようなことを考える。

  0.9999…… = 1

……の部分は、9がどこまでも続くことを意味している。これは、感覚的には1にどこまでも近づいていく過程を示しているように感じる。しかし、数学的にはこれは1とイコール(=:等号)で結ばれる。これはどうも感覚的にしっくり来ない。

これが感覚的にしっくり来ないのは、どんなに眺めても、ちょうど1にぴったり重なる場面が見えないからだ。それは限りなく近づいているという運動をしているので、どこかで切り取ってしまうと、運動が停止して、上の数字が表現している状態が失われるからだ。

すっきりするためには、1とぴったり重なって欲しいのだが、そのような場面は永久に見ることが出来ない。見ることが出来るのは、永久に近づきつつある状況だけだ。このようなものが本当に等しいといっていいのかどうか、そこには論理の飛躍を感じる。

この論理の飛躍を埋めるには、等しいと言うことの意味を、静止した存在がぴったり重なるというふうに受け取っていたらいつまでも出来ない。一方は静止した状態ではないからだ。等しいと言うことの意味を、運動する存在にも整合性を持つように考え直さなければならない。どのように考えれば妥当性を持つだろうか。

数学は運動しているものを、運動したままで取り扱うことが出来ない。それは形式論理一般がそうなのだと板倉さんは語っていた。形式論理というものは、対象を静止したものとして設定し直さなければ取り扱うことが出来ないと言う。なぜなら、形式論理においては、真偽というものは、それが決定したらもう変わることが出来ないからだ。運動する対象は、真偽が決定出来ないので形式論理では扱うことが出来ない。

運動する「0.9999……」を数学で扱うためには、これを固定的に設定し直す必要が出てくる。そこで、どこでもいいから任意のところで有限の9を区切って

  0.999999999999

という数字を考えたとき、その後に一つ9を付け加えることが出来る存在を想定する。これはどちらも有限なので対象としては静止したものとして決定する。しかし、もう一つ9を付け加えた存在をいつでも考えることが出来ると言うことで、これは可能無限を設定したものと考えられる。

可能無限は、「0.9999……」という存在を全体としては把握出来ないけれど、その過程としての一部分はいつでも把握出来るとする考え方だ。この過程の部分と1との差を取れば、それは両者とも静止した対象だから数学の取り扱いが可能になる。

  1−0.999999999999=0.0000000000001

というふうに普通に計算出来る。しかし、これは当然のことながら1との差が存在するのでイコールでは結ばれない。このように過程においては1とイコールになる場面は存在しない。これは感覚とも一致する。

では極限としてはどうしてイコールになるのか。極限は静止ではなく運動した状態だ。それを結果として把握することは出来ない。可能無限としては常に過程としての把握が可能だと言うだけだ。その過程において、1との差を取ったときに、その差が常にもっと小さくできる可能性を持つ。つまり、極限を持つ数は、極限とその数との差が確定しないのだ。確定しないだけではなく、それはいくらでも小さくできるという任意性を持っている。

差が確定せず、いくらでも小さくできる任意性の可能性を持つ運動した数は、その結果を形式論理で把握することは出来ないが、差が確定しないのだから、それを新たな等しい(イコール:=)という定義にしようと言うのが数学の発想だと思う。このような定義の元では、運動している「0.9999……」は1と等しいと言うことが数学的に言えるのだと思う。

板倉さんは、運動というものを静止の論理である形式論理で捉えることは出来ないと語っていたが、それを形式論理で表現せずに、「運動している」と言えば表現においては問題は無いとも言っていた。これは、運動は、形式論理ではなく、真偽が入れ替わる弁証法論理で捉えることが正しいと言うことでもあるだろうと思う。

アキレスと亀パラドックスにしても、それを静止の論理である形式論理で語ろうとするからパラドックスが生じるという指摘もあったように思う。弁証法論理は、一つの対象に対して違う視点を認める論理になる。「0.9999……」という対象に対しても、それを静止した論理で捉えれば、過程として捉えたときは1と等しくない。しかし極限という結果としての対象で捉えれば1と等しくなる。同じ対象が1と等しくもあり等しくもないという反対の結果を背負っている。このような矛盾の存在を認めて考察するのが弁証法論理になるだろうと思う。

形式論理的に言えば、仮定としての存在と極限としての存在は違うものだ。同じ存在ではない。だから、等しいと等しくないという正反対の性質は、違う存在が背負うことになり、形式論理的な矛盾は生じない。これを同じ存在だと見なすことが弁証法論理というものにもなるのだろうと思う。

無限を扱うときは、静止と運動という論理にとって重要な性質が関わってくるのかも知れない。それだからこそ難しい問題が生まれてくるのだろう。この断絶が、形式論理にとっては論理の飛躍として出てくるのだろう。

この論理の飛躍に関しては、同じような構造が、仮説が科学という真理になるときに生じるように感じる。仮説というのは、それが科学の仮説である限りでは、一般的な任意の対象に対して成立するような法則を語っている。しかし、実験で確かめられるのは、その実験が行われる個別的な事実に関してだけである。

ちょうど「0.9999……」の過程に対してだけ形式論理が適用出来る状況とよく似ている。確かめられるのは個別的なその場面だけなのである。しかし、結論としては、無限が並んだ極限の状況に対しても考察しなければならない。

仮説が科学となるときも、個別に確かめられた実験結果を越えて、可能なあらゆる実験対象に対してその仮説が真理となるという論理の飛躍を語らなければ、仮説は科学とはならない。任意性というものが実験においてどのように証明されるかが、仮説が科学になる鍵のように思われるが、この論理の飛躍はすっきりと納得することは難しいだろうと思う。

科学はどこまで行っても仮説であって、真理とはならないと考える人も多いのではないかと思う。唯物論と観念論という世界観との関係を考えても、個別的な実権から得られる知識は、具体的な存在から反映した知識として唯物論的な感じがするが、まだ実験にかけられていない無数の存在に対しては、それが存在するかどうかも分からない観念的な対象に対して、単に法則という言葉の上での表現(観念)を押しつけているのではないかとも感じるかも知れない。

だが、僕は、科学は仮説に過ぎないという主張よりも、科学は仮説実験の論理によって確かめられた真理であると受け取りたい気持ちの方が強い。それは数学の極限のように、可能無限を捉えることによって、過程の運動として科学の認識を捉えることになるのではないかと思う。

結果としての極限は捉えることが出来ない。つまり、それは存在しているかどうかは決定出来ないものになる。それを存在していると仮定して考えるのは、観念論的な方向にも見える。存在が確定していないものは非存在として退けるのが唯物論的な感じもする。しかし、そのようにして極限の存在を否定してしまえば、数学の持っている豊かな宝は失われてしまうだろう。

極限や科学の真理性も、究極的には唯物論的に解釈出来るという論理も展開出来るかも知れない。しかし、そのような解釈をしてもあまり実りはないのではないかとも感じる。唯物論の正しさを証明することにはあまり意味がないのではないかと最近は感じるようになった。

むしろ、唯物論や観念論というのは、発想法として利用した方が役に立つのではないかという気がしている。観念論的な発想で論理が展開しやすいのならどんどん観念論的に考えていいのではないかと思う。そして、それが誤謬に陥る危険性があるところで唯物論の歯止めを考えるという発想が役に立つのではないだろうか。

観念論は長い歴史を持って偉大な哲学者をたくさん生み出しているが、それは論理展開の積極性という面で役に立つからではないかとも感じる。その反面で誤謬に陥る可能性も高い。これは長所は短所と背中合わせと言うことではないかと思う。逆に言えば、唯物論は誤謬に陥る可能性が低いかわりに、積極的な論理展開も難しいのではないかとも感じる。歴史上偉大な観念論哲学について学び直してみたいものだと思う。