ウィトゲンシュタイン的世界と論理空間−−哲学の応用について

学生の頃はさっぱり分からなかったウィトゲンシュタインの哲学が少し分かりかけてきた。これは、はてなダイアリーの方のわどさんのコメントをヒントにして気づいたのだが、年をとるとそれなりに経験を積むことが出来るので、見えるものが増えてきたことによって理解出来ることも増えてきたのではないかと感じた。同じようなことを内田樹さんも語っていたが、年をとると、それだけで分かることも出てくるような気がする。年をとると言うことはいいことだ。

若い頃は、ウィトゲンシュタインが語る「世界」というものが、まったく抽象的なイメージしかなく具体的な自分の周りの「世界」との結びつきがなかったので、たぶんウィトゲンシュタインが語る「世界」と僕が考えていた「世界」とに接点がなく、ウィトゲンシュタインが何を言っているのかさっぱり分からなかったのだと思う。

今ではそれが少し分かるようになったのは、その見ている対象が重なっていると感じているからだ、これはもしかしたら大いなる誤読かも知れない。しかし、誤読が出来ると言うことは、そこに書かれていることを、たとえ間違った理解であろうとも理解は出来たと言うことなので、全然理解出来ていない状態よりはいいのだと思う。誤読も正しい理解への第一歩に出来ればそれなりに役に立つだろう。

さて、ウィトゲンシュタインが語る「世界」を僕は、現実に存在している、ある意味では唯物論的な対象としての自分の周りの「世界」ではないと理解した。これはむしろウィトゲンシュタインが構成し直した、抽象的対象を「世界」と呼んでいるのだと思う。ウィトゲンシュタインは「世界」を「論理空間」として見ている。

「論理空間」というとかなり数学的なイメージになる。ここには、その要素としての対象というものが考えられる。それは命名作用によって一つの概念としてまとめられるものが論理的操作の対象になるということで、「論理空間」の要素と考えられているようだ。

この「論理空間」は一つの集合を形成するが、この集合自体を「世界」とは呼んでいない。「世界」と呼ばれるのは、この集合(空間)にある構造を設定して、要素の間の関係を論理によって表現したものを寄せ集めて、その集合を下に「世界」を考えているようだ。

「論理空間」における対象は、論理的な結合子によって命題になる。それは、

  「〜でない(否定)」「かつ」「または」「ならば」

というような言葉で説明されるものだ。例えば「男」「学生」というような論理空間の要素があったとき、それから構成される命題は

  「男でない」「学生でない」
  「男かつ学生(である)」
  「男または学生(である)」
  「男ならば学生(である)」

というようなものになる。命題はある判断を語るので「である」という言葉を補った。これらは論理空間の要素を用いて構成的に作ることが出来る。このように作られた命題をウィトゲンシュタインは「事態」と呼んでいるようだ。これは、可能性として語られる「世界」と言うことになるだろうか。

この可能性としての「事態」の中で、現実に実現されるものを「事実」と呼び、これを「世界」としてウィトゲンシュタインは定義しているようだ。論理空間は無限の要素を持っているので、これをいっぺんに把握すると考えると「実無限」を考えることになるのでやっかいだ。だが、論理結合子は有限個しかないから、構成的に「事態」を作るというのは「可能無限」の範囲で把握出来るかも知れない。

いずれにしても「世界」をいっぺんに全部把握出来ると考えるとパラドックスが心配だが、把握は出来ないかも知れないが、「世界」をそういうものとして想定すると言うことであれば、そのような「世界」について考えるという限定として「世界」の限界を定めるというふうに考えれば、これは役に立つ発想のように見える。

ウィトゲンシュタイン的な「世界」をこのように理解すると、考察の範囲としての「世界」を限定出来るので、その中で漏れのないように、はみ出さないようにという、誤謬の可能性については注意をすることが出来そうだ。これは、宮台氏が語るフィージビリティスタディというものに通じるような発想に感じる。

フィージビリティスタディというものも、現実のあらゆる可能性を想定して、可能性として考えられる限りのことを考えようとするものだ。ウィトゲンシュタイン的に言えば、論理空間で考察出来る「事態」のすべてを考えよと言うことになるだろうか。それがどれほど現実には荒唐無稽のように思えようと、「事態」として考察が可能であれば、まずは「事態」としての極大化した命題の集まりを考えるのがフィージビリティスタディになるのではないだろうか。

ウィトゲンシュタインでは、この「事態」として想定された可能性の命題の中で、現実化したものを「事実」と呼び、それを「世界」の要素としている。これは理論の枠組みとしては分かりやすいのだが、技術的な問題としては、何が「事実」であって何が「事実」でないかを決定するのは難しい。これは哲学だけの問題ではなく、個別科学の問題にもなってくるだろう。

理論的な枠組みとして考えた場合、このような哲学的考察は面白いと僕は感じるが、そこにとどまる限りでは単なる言葉遊びで終わってしまいそうだ。ウィトゲンシュタインの哲学は、論理を基礎にしているだけに極めて数学的な雰囲気を感じる。そして、数学というのは、たいていは純理論的な問題を現実に応用するという側面を持っている。ウィトゲンシュタインの哲学も、純理論としての哲学的側面を、数学のように応用出来ないかを考えるのは面白いのではないかと感じる。

その一つの方向はフィージビリティスタディに通じる発想だと思う。ここに応用するには、まずは「論理空間」というものを設定する必要があるだろう。考察の対象にするものが要素として持つであろうものをすべて拾い出して「論理空間」を作るというものだ。これは、現実を対象にしている限りでは有限個にとどまるのではないかと思う。抽象化して理論的な対象を設定すれば、可能性として無限個の対象が想定出来るが、現実には無限は存在しないから、現実に即して考えている限りでは対象は有限個にとどまるだろう。

そして、その有限個の要素を持った「論理空間」の中で論理結合子を使って「事態」の命題を作っていく。この「事態」の中で矛盾を引き起こしたり、意味がなかったりするものは排除してもいいだろうと思う。論理に反するものは現実的ではないという判断をしてもいいだろうと思う。

そして、最後に可能性として残った「事態」の中から、「事実」を探し出すという作業をすることになる。これは、現実的には決定が難しいと思うが、もっとも可能性が高いというものを選ぶことは出来るのではないかと思う。そして、理論の応用としては、そのような結論が出れば満足出来るのではないだろうか。少なくとも、思い込みや願望ではなく、可能性として高いものが選択出来れば、物事を深く考えたと言うことになるのではないかと思う。

それが正しいかどうかの判定はなかなか出来ないと思うが、深く考えたということは言えるのではないかと思う。そして、たとえ間違ったとしても、深く考えたことは次に正しく考えることの役に立つだろうと思う。

このような発想で、難しい対象ではあるが、「北朝鮮」によるミサイル発射について「論理空間」を基礎にして考えてみると言うことをしてみたいと思う。宮台氏の話では、日本のマスコミはこの事件に対して、「北朝鮮」はおかしな国だからおかしなことをするケシカラン行為だという論調が多いという。これはたいへん分かりやすい論理だが、果たして現実を正しく言い当てている「事実」だろうか。

これは、あらゆる可能性の中から、思い込みと願望による判断で選んでいるに過ぎないのではないだろうか。もっと深くいろいろな可能性を考えることが出来るのではないだろうか。日本のマスコミには載ってこない多様な視点を探して、「論理空間」を広く深く構築したいものだと思う。

また、「「北朝鮮」はおかしな国だ」という命題は、実は命題としては成立しないのではないかとも僕には感じられる。「おかしい」という言葉をどう定義するかが問題なのだが、この言葉の本質には、「理解出来ない」という心情が含まれているのではないだろうか。そうすると、「「北朝鮮」はおかしな国だからおかしなことをする」という命題は、実は「「北朝鮮」については理解出来ない」という意味に受け取れるのではないだろうか。

北朝鮮」によるミサイル発射を整合的に理解したいと思ったとき、それは実は「理解出来ない」ことだったと結論するのは、どうも論理的に変な感じがする。「北朝鮮」はおかしな国だ、という前提を立ててしまえば、目の前の事実を合理的に理解する道を閉ざしてしまうのではないだろうか。

北朝鮮」がミサイルを発射したというのは、紛れもない「事実」だ。その「事実」の意味を、合理的に理解しようとすれば、やはり「論理空間」を広く設定して、あらゆる可能性を考える方がいいだろう。合理的な理解を放棄してしまえば、思い込みや願望でそれを受け止めるようになる。田中宇さんのレポートなどを参考に、何とかこの「事実」を合理的に理解したいものだと思う。