歴史における真理とは何か

北朝鮮」のミサイル発射に関することは、国連での非難決議の成立で一定の決着を見てしまったのでもはや旬の話題ではなくなってきた。この決着が、それぞれの国のどのような思惑が働いているのかを考えるのは、何が「事実」なのかを考える上で大事だとは思うが、素人考えではあまり深みのある考察が出来そうにない。

この決着は、日本にとっては想定の範囲内だったのか、それとも外交のミスと呼べるもので、マイナスの結果として受け止められているのか。将来的には有利な方向へ向けることが出来るのか、あるいは不利な方向へ今のところは行っているのか。「北朝鮮」にとってはどうなのか。これらのことを考えるのに、素人では今のところ大したことは考えられそうにない。

素人としては、具体的な問題について考えるには、どうしてもデータを持っていないので限界がある。そこでこのことをもっと一般化して考えてみるのがいいのではないかと思った。そして、一般化するのにちょうどいいような情報をマル激での江川達也さんの言葉に見つけた。

江川さんは、日清・日露の戦争に関するイメージは、通説として知っているものはほとんどデタラメばかりだと主張する。我々日本人が抱いている日露戦争の「物語」は事実に基づいたものではなくフィクションだというわけだ。つまり真理ではないということだ。このこととのつながりで、戦争の歴史はすべて狂ったまま現在につながっているという。敗戦になった第二次世界大戦についても、それは単純な「侵略戦争」ではないというのが江川さんの主張だった。

江川さんは「左翼の嘘」という言い方で戦争の歴史を語ったりもしていたので、右翼的な立場なのかと誤解されそうなところもあるのだが、あえて立場を表現すれば、論理的整合性の立場というような感じがして、僕には共感を感じるものがあった。

江川さんが歴史に対して持っている姿勢というのは、何が真理かと言うことを決定しようと言うものではないように感じた。江川さんは、「日露戦争物語」というマンガを描いているが、今までの歴史をすべて「物語」と捉えているように感じた。

歴史が「物語」であるというのは、「新しい歴史教科書をつくる会」の主張だが、江川さんの主張はこれとは少し違うものを感じた。「つくる会」の主張は、歴史は本質的に「物語」であるのだから、日本に誇りを持てるような「物語」として構成することに意義があると考えているように僕には思えた。

これに対して、江川さんの主張は、今まで「真理(事実)」だと言われていた歴史もすべて「物語」に過ぎないのであって、今までの記述では、歴史は「物語」以上の記述は出来ないという主張のように感じた。つまり、「つくる会」の歴史は「物語」だが、それに対抗する科学的な歴史は「真理(事実)」を語ったものだとは必ずしも言えないという主張だと僕は受け取った。

それでは、歴史においては「真理」はないのだから、「物語」として語ればいいという主張と同じなのかとも誤解される。しかし、僕はそうではないと思う。「真理」というものを哲学的に突き詰めて考えると、歴史において「真理」というものは断言出来なくなると言うことだと思う。つまり、「真理」にこだわっていると、歴史は「物語」に過ぎないものになり、自分に都合のいい事実を拾ってきてストーリーを作ることが出来るものになってしまうということだ。

歴史を考えるときは、「真理」にこだわるのではなく、江川さんの言葉で言えば「つじつまが合う」という「整合性」の方を重視すべきではないかと言うことだ。「真理」は究極的には決定出来ないが、「整合性」の方は、知られた事実をつきあわせることで判断することが出来る。とりあえずは「整合性」がうまくいくように歴史を解釈すると言うことが必要なのではないかという視点を、江川さんの言葉からは感じた。自分に都合のいいことだけではなく、知られたことのすべてに「整合性」がつくような解釈を考えると言うことだ。

「整合性」がうまく取れる解釈は、それが「真理」であるということまでは分からないが、「真理」である可能性が最も高い解釈として受け取ることが出来るのではないかと思う。歴史における「真理」というのは、そのようなものとして我々の前に現れてくるしかないのではないだろうか。

江川さんが日露戦争に関してつじつまが合わないと感じているのは、日露戦争は日本の勝利として「物語」としては語られているのに、少しも勝っているように感じないと言うことにあったようだ。ノモンハンの戦いなどでは大きな被害を被って、むしろ負けているのではないかとも思えるのに、どうして勝ったなどと言うような「物語」になってしまったかということの「整合性」を考えようとしたようだ。

実際には、日露戦争においては、日本もロシアももはや戦争を続けるだけの条件が失われていたというのが本当のところだったらしい。どちらもやめたかったというのが講和につながり、外交上の駆け引きによって日本が勝ったように「物語」を作り上げたというのが江川さんの解釈だ。この解釈をすればかなりのつじつまが合って来るという。

「物語」というのは、それを読む人間の気分をよくさせる「フィクション」というものが必ず入っている。本当のことは必ずしも気分のいいことばかりではない。しかし、「フィクション」を入れればすべてを気分良く解釈する「物語」に出来る。この「フィクション」を「フィクション」として正しく受け止めることが出来ると、今までつじつまが合わなかったものが合うようになってくる。

ネタをベタに受け取るとつじつまが合わなくなるが、ネタをネタとして受け止めると、すべてが「整合的」になって来るというわけだ。あえて設定した「フィクション」や、願望や希望が成長して生まれてきた「フィクション」を突き止めることが出来ると、歴史はかなり「整合的」に解釈出来るようになるかも知れない。

マル激では、宮台氏が朝鮮半島からの強制連行に関して次のようなことも語っていた。今までの歴史「物語」では、朝鮮半島から日本へ来た人の大部分が強制連行で連れて来られたことになっているが、これはフィクションだというのだ。「大部分」という点がフィクションだと語っていた。もちろん強制連行された人もいただろうが、「大部分」は自ら日本へ渡ってきた人だと宮台氏は主張する。

これは、その通りかどうかは断言が難しいことだ。自ら渡ってきた人をどう解釈するかという問題もある。朝鮮半島では生活出来なくなって、やむを得ず日本へ来ざるを得なかったと解釈することも出来るだろう。そして、その原因を作ったのは日本の「侵略」なのだから、結果的には強制連行と同じだと解釈する人もいるかも知れない。

それに対して、形の上では「強制」はないのだから強制連行ではないと解釈する人もいるだろう。それは、戦前の日本の移民と同じようなものだと解釈も出来る。国内にいたのでは生きていくことが難しいとなったら、新天地への可能性を夢見て国を出ることもあるかもしれない。これは必ずしも「強制」とは言えない。

また「侵略」という言葉をどう受け止めるかも難しい問題だ。言葉というのは、それを使ったとたんに概念としての一般性が結びつくので、そこにフィクションが生まれる可能性がある。言葉で語った歴史は「物語性」を免れない。

江川さんは、小泉内閣をただ一点の功績で評価すると語っていた。それは、「北朝鮮」に拉致を認めさせたことだという。これは、今までフィクションとして語られていた、拉致はなかったという「物語」が、小泉さんの行為によってフィクションだと言うことが明白になったことに功績があるという評価だった。江川さんの歴史観から言えば、まことに整合的な評価だと思う。

歴史にはフィクションがある。そして、何がフィクションであり、何が「真理」であるかを判断することは極めて難しい。既に過ぎ去ってしまった過去は、それをそのまま再現することは出来ない。抜け落ちてしまったところをフィクションで埋めるしかない。だがそれがフィクションであるのか、「真理」を言い当てているのかと言うことは分からない。

フィクションであるかどうかは完全に判定は出来ない。だが、「真理」であれば必ず整合的な解釈が出来るという前提を持てば、つじつまが合わない「整合性」が見つからない部分はフィクションである可能性が高いということが言える。また、「整合性」が見つかった、つじつまを理解した部分は「真理」である可能性が高いと言える。歴史について言えるのはそう言うことなのではないだろうか。そして、歴史というのは、日々我々の目の前を通り過ぎる現実の生活のことをさしているのではないかと思う。

僕は、若い頃は数学こそが「真理」を語るものだと思って数学少年になった。そして、より確かな「真理」を求めたくて哲学青年にもなったが、究極的な意味での「真理」はないのではないかと感じるようになった。また、それはないとしても大した問題ではないとも思えるようになった。

究極的な意味での「真理」がないことは、カントが指摘し、ウィトゲンシュタインが語り、ゲーデルが証明しているのではないかとも思える。しかし、究極的な意味での「真理」がなくても、それに近づいていくための現実的な「真理」はつかめるのではないかと思う。それが江川さんが言うような「つじつまが合う」という「整合性」なのではないかと思う。論理こそが、やはり「真理」に近づく道なのではないかと思う。