究極的な存在の考察

観念論の再評価のために『カント入門』(石川文康・著、ちくま新書)を読んでいるのだが、その中に興味深い記述があった。それは「空間・時間は主観的なもの」という中見出しで語られていることだ。

我々は、具体的に存在するものは、物質として客観的に存在すると受け取っている。それはいくつかの実践によって確かめられ、かなり信憑性の高いものとして考えられている。そして、その延長として、存在を抽象した「空間」という存在に対してもその客観的存在をそのまま信じているところがある。

「空間」というものが存在するから、その中で特別な位置を占める具体的な物質が存在出来ると論理的に把握しているように感じる。しかし、言葉として「空間」というものを考えてみると、これがなかなか難しいものだとも感じる。「空間」というのは、物質が占める場のことを意味するのだが、そこに他の物質が存在していれば、もはやその空間には同時に他の物質は存在出来ない。つまり、「空間」というのは、物質が存在していない場所として、ある種のすき間としてしか存在出来ない。

何も存在していないという否定によってその存在が規定される「空間」の存在というのは、直接に確かめられるものではない。すべての物質的存在を捨象した後に残る、「空間」そのものという概念はまったく意味をなさないものになる。

カントのアンチノミーに出てくる「空間」に関する有限性と無限性の対立は、この意味をなさなくなると言うことから導かれるように感じる。物質的存在が「空間」という概念に不可欠に登場するものなら、物質的存在が確認される場というのは当然有限の世界でなければ我々人間には認識出来ない。「空間」をそのように認識すれば有限性を主張しなければならないだろう。

しかし、「空間」を、そのような物質的存在を捨象した究極的な存在と捉えれば、概念的にはいくらでも延長が可能になる。つまり無限性を主張しなければならなくなるだろう。「空間」をどう捉えるかで有限でもあり無限でもあるという弁証法性を持つことになる。このどちらが正しいかという発想をすると形式論理的になる。そして形式論理で捉えてしまうと「空間」は矛盾を含んだパラドックスになってしまう。

「空間」を有限と捉えるのは、常に物質的存在との結びつきを考える立場なので、これは唯物論の立場だと言えるだろう。それに対し、究極的な「空間」を考える立場は、物質的存在を捨象してしまうので観念論の立場だと言えるのではないかと思う。この観念論の立場が、まったく意味をなさないものであるなら、それを否定して唯物論が正しいという結論でいいだろうと思う。しかし、今の僕はそれに対して躊躇する気持ちが強い。

「空間」が有限であるか無限であるかを、どちらかに決定しようとするのは意味をなさない。これは論理的に意味をなさないと言える。どちらも正しいと言えるし、どちらも間違っていると言えるからだ。しかし、どちらか一方の視点で考えてみると言うことには意味があるように感じる。

究極的な存在を観念論で考察するというのは、ある種の「物語」を作ると言うことになるだろう。現実の存在の規定を受け取って、それを整合的に解釈するのは、現実の規定のつじつまが合うようにすると言う論理的な規制を受ける。それに対して「物語」を作る場合は、現実の規制を受けずに、ある意味で自由に自分に都合良く存在を想像して設定することが出来る。これは想像したものであるから必ずしも現実とは一致しないが、すべてが観念論的妄想として片づけられるほど単純ではないと思う。

考察している物事が単純で、表層的な現象をつじつまが合うように考えればいいのであれば観念論は必要ない。しかし、物事の本質が深層に隠されているときは、まだ発見されていない存在を、それがあるかも知れないという想像の下につかむ発想が役に立つのではないだろうか。これは単純な唯物論の立場にいたのではなかなか発想出来ないことではないかと思う。

観念論的な発想というのは、本当に難しいことを考えるときに不可欠のものになるのではないかと思う。究極的な存在というのは、単純にその存在を捉えることが出来ない。存在しているかすら定かでない抽象的な対象だ。その時自由な発想でいろいろな可能性を探ることが出来るのが観念論ではないのかと思う。哲学の歴史の中で、観念論がその魅力を失わずに存続しているのは、このような新しい可能性を常に見せてくれるからではないのだろうか。

観念論を否定するときに、単純な現象に対して観念論を適用して否定するやり方がよくある。たとえば、物質的存在よりも観念的存在の方を重く見るというのを、物質的存在も人間が考えることによって存在が生まれるというふうに捉える批判がある。目の前にあるパンに対して、それが客観的に存在するからパンという認識が生まれるのではなく、観念の中にパンというものがあるからそれが現実に現れるとするのが観念論だと考えるものだ。

これは単純な現象に観念論を機械的に当てはめているので、否定するために観念論を間違えて適用しているような感じがする。観念論で捉える対象というのはもっと複雑で、真理が深層に隠されているような対象でなければならない。「空間」や「時間」という究極的対象がまさにそれに当たるものではないかと思う。この対象を考えるときには、観念論が正しいと思えるようなところが見付かるのではないかと思う。

「空間」というのは、そこに「空間」と呼ばれる客観的存在があって、その反映として認識が成立するという過程になっていないように思う。認識されるのは常に具体的存在であり、「空間」が「空間」として捉えられるのは、そこに具体的存在がないということを認識したときになる。これは、我々が持っている「空間」という概念(観念)を、対象の方に押しつけて対象を切り取って判断しているのではないだろうか。

だから、究極的な「空間」を考えると、何も存在しない「空間」だけというものが考えられるが、それはもはや「空間」だと確かめることの出来るものが何もない対象になる。確かめようのない対象を「空間」だと思って考えることが出来ると言うことは、この究極存在に関しては観念論的考察しかできないということになるのではないだろうか。この考察に意味がなければ、観念論という発想も意味のない言葉遊びだと言うことになるが、僕には深い意味があるような気がしてならない。

究極的な存在としての「時間」を考えてみると、この不思議さはいっそう大きなものになる。ものが何も存在しない世界において「時間」というものが果たしてあるのかという想像をすると、それはとてもあるようには思えない。絶対的に変化が確認出来ない世界で「時間」があるという想像は出来ない。「時間」そのものは存在しない。それは観念の中にある「時間」の概念を現実世界に押しつけているようにも感じる。

問題は、究極的なものとして考えられた「空間」や「時間」のような対象と、現実的に唯物論的に捉えられる物質的存在と関係して現れる「空間」や「時間」という対象との関係だ。これは微妙なところで唯物論と観念論の中間に位置している場合があるのではないか。

確実に実践的に把握出来る存在の場合は完全に唯物論だけで行けるだろう。しかし、唯物論的把握に穴がある場合は、その穴を埋めるために観念論的発想が役に立つのではないかと今は感じる。「物語」を作ることがその穴埋めになるのだが、それは「物語」だという意識を忘れずに行わなければならない。これが観念論の利用と言うことになると思う。観念論的発想はあくまでも「物語」であり、それが「事実」であるという確認は唯物論で行わなければならないと言う感じだろうか。

このような発想に対して、いやそのようなものも唯物論の範疇に入れて説明がつくという人もいるかも知れない。しかし、発想というのは、理論的に一つに収めるよりも、その利用において便利な方がいいと僕は思う。反対の発想を言葉を分けることによって視点を変えるという使い方をした方が便利だと思う。同じ言葉で二つの発想を取り込んでしまうと、一つが忘れられることが多いのではないかと思うからだ。

このような発想は、日常的な出来事にも応用出来るのではないかと思う。最近のニュースで僕が違和感を感じているものに対してこのような発想でちょっと考えてみると次のようなことが浮かんでくる。

秋田で二人の子どもを殺害したとして逮捕されているH容疑者に対して、今までに報道された「事実」を元に考えると、自分勝手でわがままな、大人になりきれていなかった母親の身勝手な犯罪というイメージが浮かんでくる。しかし、僕にはどうも動機に関してつじつまが合わないと言う違和感が消えない。あの程度のことで殺人という犯罪にまで至るのだろうかという違和感だ。

このときに、H容疑者はそういう人間だったのだと、単純に唯物論的に解釈すれば、考察はそこで終わってしまう。単純な解釈を唯物論的に行うというのは実に分かりやすいもので、対象が本当に単純なものだったらその考察は正しいだろうと思う。しかし、真理が深いところに隠されているようなものだったら、これは唯物論的に単純に考えるのではなく、想像を巡らせて「物語」を作って可能性を探る必要があるのではないだろうか。

若い母親が子どもを疎ましく思うというのはごく普通にあり得ることなのではないだろうか。それが子どもの殺害にまで至るのは普通ではないから、普通ではないことが起きた究極の原因というものを考える必要があるのではないだろうか。それが究極であればあるほど、それは観念論的に考えなければ発想出来ないものではないかとも感じる。

「物語」としては、H容疑者の行為は容疑だけであって、本当は犯罪を犯してはいないのだという「物語」も作ってみる必要があるのではないだろうか。H容疑者が殺人を犯したというのは、現行犯で逮捕したのではないから、歴史的事実として究極的には確かめようがないものだ。状況証拠や供述からそれは明らかではないかと言いたい人もいるかも知れないが、それがどんなに明らかそうに見えても100%にはならない、と考えなければいけないのではないかと思う。それが推定無罪の原則ではないだろうか。

そのような前提で「物語」を作ってみるという発想が観念論の有効な利用であるように感じる。これは、「物語」であることを忘れてはいけないが、単純に結論を出せないような難しい問題は、「物語」を作ってあらゆる可能性を考えることで、より正しいもの(真理)に近づいていくという態度が大切ではないかと思う。

ある問題が単純かどうかは、その問題のとらえ方によるだろう。だから、この秋田の事件に関しても、それは単純なものだと捉えている人は、観念論的考察などしないだろう。唯物論的に、報道された「事実」を元にして結論を出せばそれでいいと感じるかも知れない。だが、その結論に違和感を持ち、この問題が本当は難しいのではないかと感じる人は、観念論的な発想が役に立つと思う。

多くの他の問題も、単純か難しいかという判断でその考察が分かれるだろう。今話題になっているジダンの頭突きの問題などは、差別問題などが絡んで難しく捉えている人が多いようだが、僕はこれはごく単純な、唯物論的理解ですむ問題ではないかと感じている。

これは、相手の精神的動揺をねらって、相手が気になることを言うという、スポーツにおける戦術としてはごく平凡な「汚い手」に過ぎないだろうと思う。このような「汚い手」は、アマチュアスポーツでは非難されるだろうがプロでは当たり前のことではないかと思う。ジダンは、この戦術にはまってしまっただけのことであって、これはプロとしての判断においてジダンがミスをしたというだけの単純な問題ではないかと僕は感じている。だから、これはそれ以上の深い考察は必要ないと思うので、唯物論的な単純な理解でいいのではないかと僕は感じている。