再びフェミニズムについて考えてみる

また同じ議論を蒸し返してしまうかも知れないと恐れながらも、もう一度フェミニズムについて考えてみたいと思う。これは、自分自身に対して深い理解をしたいという思いからでもある。

こんなことを思うきっかけは、ワールドカップ決勝でのジダンの頭突きのことを考えてからの連想だった。僕はあの頭突きを、単にプロの試合での戦術に引っかかっただけという単純な理解をしている。そこに深い意味を見出そうとは思わない。

ジダンがこれまでも差別というものと闘ってきた社会意識の高い人間だったとか、暴言を吐いたマテラッツィが、以前からの差別主義者だったということなら、そこには考えるべき深い意味があるかも知れない。しかし、単に戦術上の問題だったら、マテラッツィの暴言も、昔はよく言われた子どもの悪口の「おまえのカーちゃんでべそ」という類のものと一緒だと思う。相手を怒らせることが目的のものであって、それ以上の意味はないという受け取り方だ。

ジダンの反応も、感情的なもので、そこに深い考えがあってしたこととは思えない。つい身体が動いてしまったというもののように感じる。後から反省するといろいろなことが考えられるが、あのときは単に頭で考えるよりも身体が先に反応したと言うことだろうと思う。あえて言えば、「おまえの侮辱を許さない」という意思表示を身体全体でしたと言うことだろうと思う。

それに対して、ジダンは暴力肯定主義者ではないかと想像するのは考えすぎだと思う。本当の暴力だったら、相手にケガをさせないように、胸に頭突きをするなどという行為にはならないだろうと思う。

ただ、このような単純な解釈は他者だから出来ることだと思っている。ジダン本人からすれば、家族を侮辱されたと言うことは特別の意味を持つものだっただろうと思う。そこには他者には分からない深い部分があるに違いない。しかし、そのようなものを他者が詮索しても仕方がない。

このようなジダンの失敗を、自分の以前のフェミニズムを巡る議論での論理的失敗と重ね合わせてみると、他者から見れば、僕の中にある一つの偏見が失敗に結びついたという解釈で充分だろうと思う。偏見は論理の展開にとって一面的な見方による失敗をもたらす。誤謬論としてはそのような理解でいいと思っている。

これは、もっとあからさまに言えば、あるブログでの記述に引っかかって過剰反応したのが原因だった。ちょうどジダンが、マテラッツィの言葉に過剰反応して短絡的に感情的な行為をしたのと似ていると思った。だからこそ僕はジダンに同情したのかも知れない。過剰反応して乗せられたのが失敗だったのだが、過剰反応した時点ではそこまで冷静に考えることが出来なかった。

これが他者の目であればそう言う単純な理解でいいと思うが、自分自身のことであると、単純な理解では寂しいという思いもある。もっと深い意味を見つけて、何とか気分的にすっきりしたいものだ。なぜ過剰反応したのか。それはもしかしたら極めて個人的な理由かも知れないが、論理の問題も絡んでいるような気がするので、一度考えてみる価値があるのではないかとも思える。

僕は、内田樹さんの文章を通じて、フェミニズムで語られる言説にある種の反感を持っていたことは確かだ。それは、あまりにも短絡的に反応しすぎているのではないかと感じていた。男という存在をすべてひとまとめにして、その違いを無視して語りすぎていると思っていた。

しかし、それはあくまでも一般論的な感想で、具体的にここが変だという指摘を出来るだけの材料を持っていなかったので、あえて自分の主張として展開する気はなかった。それがなぜか変な方向に行ってしまったのは、筆坂さんのセクハラ問題に対して疑問を呈した文章を書いたことがきっかけだった。

筆坂さんのセクハラ問題は、当事者の主張がまったく違っていて、そのどちらが正しいかというのはかなり微妙な問題だと思った。筆坂さん自身は、自分の行為は親しみを表したものであって、セクハラに至るようなものではないと思っているようだった。これを客観的にどうだったかと決めることは出来ないのではないかというのが僕の疑問だった。

ただ、筆坂さんは、相手がそう感じてしまった以上自分には責任があるという考えから、いくつかのポストを辞任することで責任を取るという対応をした。この、責任を取ったという行為が、セクハラ行為であったことを認めたことであり、セクハラの証明であるというような主張をどこかのブログで見た。これをどこで見たのかはもう忘れてしまったが、これはあまりにも短絡的で、論理的ではないと感じたものだ。

しかもこの主張を補強していた考えが、男というものは、男として存在しているだけでセクハラ予備軍なのだという前提を置いているように見えたことだ。これも極めて乱暴な論理だと思ったことと同時に、このような論理を許容することは出来ないという感情的反応が僕に生まれてきてしまったようだ。

そして、ジダンが頭突きで反応したように、僕は「フェミニズムのうさんくささ」という言葉で感情的に反応してしまった。このときに、もっと深く現象を分析して、僕が見た言説のどの部分が具体的に批判出来るのかを冷静に考えれば良かったと思う。しかし、僕はジダンがすぐに頭突きで反応したのと同じように、具体的な言説を批判するのではなく、「フェミニズム」一般の批判へと向かってしまった。

これは、僕がなまじ論理が扱えるということが原因しているのだろうと思う。具体的な批判をすべき所を、一般論的な批判をしてしまったために論理的には失敗した。感情的な反応をしたときは、人間は失敗をするものなのだろう。

一般論としての批判になってしまったために、本当の「フェミニズム」というものが問題になってしまった。本当の「フェミニズム」などというのはどこにもないのだが、僕が批判の対象にしているのは、「フェミニズム」であるのかないのか、という決定出来ない不毛な議論の展開になってしまった。

最近の考察で感じているのは、今まで「フェミニズム」で語られている議論は、それを肯定するにしろ否定するにしろ、まだ「物語」の域を出ていないのではないかと言うことだ。それは、何が真理かという論理的な段階にまでは来ていない。だから、真理を巡って議論すれば、お互いの定義の違いが議論の空転を呼んでしまうだろうと思う。

フェミニズム」を批判したい人間は、批判に値する「フェミニズム」の「物語」を作ることが出来るだろうと思う。また、逆に肯定するのにも「物語」を作ることが出来るだろうと思う。これは両者とも「物語」であるから、本質的にどちらが正しいかを決定することは出来ない。それが論理的に整合性を持っているかという、つじつまが合うかという問題が語られるだけではないかと思う。

仲正昌樹さんは『ラディカリズムの果てに』という本の中で「左翼」に対する批判をしているが、これは「左翼思想」の批判ではない。仲正さんがこれまでに出会った、具体的な相手で「左翼」と呼べるような人々に対する批判だ。「左翼思想」の批判になってしまえば、どのようなものを「左翼思想」と捉えているかという、「左翼思想」全体に対する概念が確立していなければ、その批判は正確に伝わらない。

だが、これは難しいだろう。「左翼思想」は単純に一枚岩で説明出来るものではないからだ。複雑なものを十把一絡げにして批判することは出来ない。だから、批判出来るのは、「左翼思想」ではなく、具体的な「左翼」の人物になるのではないかと思う。

「左翼思想」は「物語」であり、具体的な「左翼」の人物は「事実」に当たるのではないだろうか。「物語」としての批判はどうしてもご都合主義的になり、批判出来るものを自分で設定して批判出来る。ある意味では、いくら批判しても何の意味もない批判になるだろう。

批判として意味があるのは、「事実」に対するものだろうと思う。批判は具体的に語らなければならないと思う。具体的に語る批判というものを仲正さんの文章から学び取りたいと思う。

さらに付け加えておくと、「物語」としての抽象理論に対する批判はどうするかということを考えると、次のようになるのではないかと思う。抽象理論は、具体的な「事実」と違って、前提や結論を具体的に取り上げて批判することは出来ないだろうと思う。抽象理論は、その論理の流れを捉えて批判することしかできないだろうと思う。

抽象理論の批判をするには、そこで語られている理論の全体像をつかむ必要があると思われる。それが何を前提として、どのような論理の流れで、何を結論としているかという全体像の把握が必要だ。そして、個々の論理の流れに正当性があるかどうかという批判がまず検討されるだろう。その論理の正当性が確かなものであるとしても、今度は全体としての主張が、何らかの意味を持つものとして、価値あるものであるかどうかという批判が最後に来るだろう。

抽象理論の批判は、専門的な技量がなければ難しい。僕の最大の失敗は、よく分かっていない「フェミニズム」という抽象論の批判にまず突っ走ってしまったことだろう。これはたぶん個人的な原因があると思われるが、おそらく無意識に属することなので自分には分からないだろうと思う。専門的な技量がなくても批判を展開出来る、もっと具体的な対象に対するおかしさの感覚を出発点にすれば良かったと思う。

これからは、「フェミニズム」という抽象論を語る気はないが、どこかに具体的におかしいと感じるような「事実」があったときは、その意味を考えてみたいものだと思う。そして、その意味が単純に理解出来るものであるのか、深い考察を必要とするものであるのかを考えたいと思う。深い考察を必要とする事柄は、簡単に理解しようとしないように気をつけようと思う。これも仲正さんの言葉だが、「分かりやすさの罠」に陥らないようにしたいと思う。