抽象的な批判と具体的な批判


仲正昌樹さんは『ラディカリズムの果てに』(イプシロン出版企画)という本の中で「ラディカル」というものについて語っている。それは、「ラディカル」の批判を語っているのだが、「ラディカル」という抽象概念そのものの批判と、「ラディカル」を体現していると思われる具体的な人々に対する批判とを区別して捉えないとならないのではないかと思う。

まずは「ラディカル」という言葉の意味だが、仲正さんは次のように語っている。ちょっと長いが引用しておこう。

「昔左翼だった人がよく「ラディカル」ってことを強調していたし、今でもけっこう強調している人はいるけれど、この「ラディカル」という言葉には少なくとも二通りの意味があると思います。その二つのレベルが時としてごっちゃになって使われるので、どういうのが「ラディカル」なのかわかりにくくなっているような気がします。
 まず「ラディカル radical」の意味を英語の辞書で見ると、「根本的」とか「根元的」というのがあります。「根」と関係があるんですね。ラテン語で「根」のことを radix と言いますが、多分、radix にまで遡って「考える」とか、その遡った根元的思考に従って「行動する」というような文脈で「ラディカル」という言葉が使われるようになったんだと思います。そこで「思考」の面での「ラディカル」と、行動の面での「ラディカル」が出てくるわけですが、この二つのレベルはなかなか一致させるのが難しい。なぜ一致しにくいのか?
 当たり前のことですが、「根本に遡って考える」っていうのは、外から見てすごくわかりにくいんですね。「何が根本なのか?」ということそれ自体がそもそも問題なんだから、本人が「私は根本まで掘り下げて考えている」と自称しても、そう簡単には信用出来ません。キリスト教の信仰でいうところの「原罪」のようなものをイメージしているのか、初期マルクスの「疎外」のようなものなのか、それとも精神分析でいうところの父殺しのようなものなのか?自分が「根本」だと感じているのとは違うものを“根本”だと言われても納得出来ないでしょう。」

「ラディカル」というものを抽象的に考えると、その抽象の過程によって、意味が様々に違ってくることが分かる。だから、「ラディカル」を抽象的に批判するならば、その違った意味のそれぞれに対して吟味することになる。これは、単純に欠点や間違いを指摘するのではなく、どの場合にはどのような属性があるのか、それは長所である場合も欠点である場合もあるだろうが、広く全体に渡って吟味すると言うことが「批判」をすると言うことになる。

僕がまだ若い頃、津田道夫さんの著書について文章を書いて欲しいと頼まれたことがあった。その時に、「批判」をするようにと言われて、それを何か欠点を探してそれを考えろと言われたように感じてしまった。その時に、それが分かるくらいなら、津田さんの本を読む必要もないのではないかと返事をした覚えがある。

しかし、津田さんの真意は、カントの『純粋理性批判』で使われているような「批判」をして欲しいと言うことだった。つまり、全体に渡って広く吟味して欲しいというような意味での「批判」だった。カントは理性というものを批判的に検討したのだが、それは理性の限界を示そうと言うことが目的だった。そのためには、理性の欠点をあげつらうのではなく、理性が出来ることのすべてにわたって吟味をする必要があった。そのような意味での「批判」が抽象的な「批判」というものになるのではないかと思った。

「ラディカル」と言うことを抽象的に批判すれば、それには長所も欠点もあり、欠点となるところではどこに気をつけなければ失敗をするかということを考えることになるだろうと思う。「ラディカル」だからいいとか、「ラディカル」だから悪いという結論にはならないだろう。仲正さんの批判もそのようなものになっていて、中見出しにあるように「思考の“ラディカルさ”は安易に評価出来ない」と言うことが批判の結論になると思う。

これが、具体的に「ラディカル」を語る人々に対する批判になると、それはいいとも悪いとも言えないという中途半端なものにはならない。それは「ラディカル」の欠点を強く持っているもので、「ラディカル」というものに対する理解の間違いを指摘するものが、具体的な批判になっている。具体的な批判では、間違いの指摘というものが本質的なものになると思われる。

仲正さんは「思想の“ラディカルさ”は安易に評価出来ないにもかかわらず、「外」に出た行動をその表現形態と見なして、それを尺度にして測ろうとする少々無茶な人たちが出てくる」と、具体的な間違いに通じることを語っている。行動と思想は違うものであるにもかかわらず、それを混同するところに間違いがある。さらに、この間違いの具体性は次のように語られる。

「「ラディカルな思想」であることを“示す”ために「ラディカルな行動」を示すという左翼的な本末転倒が起こってくるんですね。それで、常軌を逸した変わった行動、過激な行動を志向するようになる。「過激な行動」っていうのは、考えてみると何を基準に「過激」と言っているのかよく分からないけど、左翼的な業界では「身体を使った暴力」だっていうふうに短絡してしまう面があったようです。ラディカルに志向したらそれが絶対「形」になった身体レベルで現れてくるんだっていう反映論的な大前提に立っていたんですね。あるいはその逆に、身体レベルでの秩序破壊的な暴力は必ず意識レベルにおける(ブルジョワ的な)秩序的思考の破壊に通じる、と考えたのかも知れません。思考のラディカルさが行動におけるラディカルさを導き出し、行動におけるラディカルさが思考のラディカルさを導き出す、という妙に左翼的な循環論法が働いていたので、どっちを先にしてもよかったわけです。」

ここでは、この間違いが「分かりやすく暴力をふるえばラディカルなのか」という問いとして中見出しにされている。暴力は行動の範囲の問題なのに、それが思考の範囲での「ラディカル」と直結されているところに間違いがある。

行動としての暴力は、思想に関係なく原則的に間違いであると僕は思う。よほどの特殊な事情がない限り暴力は肯定されない。唯一肯定されるのは正当防衛の時くらいではないかとも思う。教育のためとか、「ラディカル」さを示すためとか言うのは、そのよほどの特殊な事情には入らないと思う。それを、特殊な事情として許されるのだと考えるところに間違いがあると批判出来ると思う。

仲正さんのこの批判は、具体的に「物理的「暴力」で何か規制の権力の象徴のようなものをぶちこわして、人目を引く」という行動があったという事実に基づいている。そういう意味で、抽象的な概念に対する批判ではない。具体的だからこそ間違いの指摘が出来るのだと思う。なお、この具体的な間違いの底にある、思想としての間違いは、この考えを極端にまで推し進めるとよりハッキリしてくる。

次の指摘は事実の指摘ではないが、思考の間違いを指摘するための一つの方法として極論を考えて思考実験してみるという方法を示唆する。これは事実の指摘ではなく、仮言命題を発展させたものと捉えなければならないだろう。

「今から振り返って落ち着いて考えてみると、分かりやすく暴力をふるっている人間がラディカルだということになれば、ヤクザが左翼や政治家よりもラディカルだということになる。その延長でいうと、アメリカが一番ラディカルだということになるでしょう。沖縄からイラクとかに派遣されている海兵隊員が、ラディカルだということになるでしょう。沖縄からイラクとかに派遣されている海兵隊員が、ラディカルなアメリカの軍人の中でも一番ラディカルだということにならざるを得ません。ラディカルっていうときに、何か人と違う目だったパフォーマンスをするというようなことを基準にすると、米海兵隊が一番ラディカルだというような妙な話になってしまいます。」

この指摘に対して、「ラディカル」を主張している人は、ヤクザがラディカルだと言っているのはいないではないか、というような事実で反論するのは論理に対する無理解ということになるだろう。暴力をふるう人間がいて、それが暴力であることによって非難されたとき、いいわけとして「ラディカル」を持ち出すのなら、論理的にはその根底にあるのは上のような考え方ではないかという指摘なのだ。

だから、事実として反論するのなら、暴力の正当化として「ラディカル」と言うことを使った人間がいないということを言わなければならない。もしそうであれば、「ラディカル」につながる上の考察は、事実を元にしたものではなく、想像で作り出したものということになるだろう。事実としては、暴力のいいわけに「ラディカル」を持ち出したかどうかが重要になる。ヤクザについて語ったかどうかは、事実の問題として争うような事柄ではない。

仲正さんの批判が、批判として論理的な正当性を持っていると感じるのは、抽象的な部分に関しては深い吟味を語っていると感じるし、具体的に語る部分は、事実を元にして事実の中に不当性を見つけているからだと感じる。真っ当な批判というのはこのような構造を持っていなければならないのではないかと思う。

仲正さんは、この後「深く考えない人間の方が派手な行動は取りやすい」という指摘をしている。これは、深く考えることこそが本当の意味で「ラディカル」であるとするなら、間違った「ラディカル」・短絡的に暴力的な行動と結びつく「ラディカル」は、本当には「ラディカル」でないことによって、その間違いを際立たせることになる。この皮肉な指摘も、批判としてまったく見事なものだなと思う。