国家概念抽象の過程 4


萱野稔人さんは『国家とは何か』の中で「国家を思考するためには、今の国民国家のあり方を自明なものとみなすナイーヴな見方から決別することが不可欠だ」と書いている。これはなかなか示唆に富んだ言葉で、ここから多くのことを学ぶことが出来る。

国家を思考するということは、国家というものについて、現実に国家と呼ばれているものの観察の結果を述べることではない。思考というのは論理の展開を伴うものだ。事実を羅列するのではなく、ある事実から論理的に引き出される事柄を考察することが「思考する」と呼ばれる。

だから「思考する」ためには、思考の対象となる国家を抽象することが必要で、それを概念的に捉えなければならない。思考の対象は現実の国家ではないのである。現実の国家を基礎にした抽象としての概念的な国家が思考の対象になる。対象を概念化しなければそれは論理的な操作の対象にならない。単に物質的存在を観察するだけでは、そこには論理的な必然性を見出すことは出来ないのだ。

国家にとって暴力装置が必然的なものであるというのは、現実の国家をいくら観察してもそれを引き出すことは出来ない。現実の国家にはいつでも警察と軍隊が存在していることを観察したとしても、それがたまたまそうなっているのか、必然的に国家に伴うものとして存在しているのかは、観察によっては結論できない。それは、国家が「暴力に関する運動」を行うという概念化によって、その必然性が語られるものなのである。

国民国家のあり方を自明なものとみなすナイーヴな見方」をすると、この概念化が現実から規定されることになる。概念化というのは、思考という論理の展開の出発点になるものであるが、それは多くの実在からの比較などによって抽象されるもので、たくさんのデータから結論として得られるものが出発点になるという、現象的には逆立ちしたようなものとして現れる。

もちろん、現実の国家のイメージから概念を作って、それを出発点にすることも出来るが、この場合は概念の論理展開が、だいたいが現状肯定的な方向に落ち着くのではないかと思う。現在の姿から抽象された概念は、現在を否定的に評価するような概念を捨象してしまうので、意識するとしないとに関わらず、現状肯定的になるのではないかと思われる。このような思考の方向は、「国家を思考する」という一般論としてはやはり弱いのではないかと思う。「現在の国家の一面を解釈する」と限定的に理解していれば間違いはないだろうが、これこそが国家の姿だと思い込めば、それは間違いではないかと思われる。

思考の出発点としての抽象概念を作るというのは、この意味でかなり難しいことだと思われる。全体像の位置付けがうまく出来ないと、対象の一面を抽象しただけになってしまうだろう。抽象したものが本当に本質を捉えているのかどうか、うっかり本質を捨象していないかに気をつけなければならない。

萱野さんは、現在の国民国家というあり方は、国家としては新しい姿であって近代以後に登場したものだと言う。しかもまだ完成された姿になっているとは言いがたい。物質的な豊かさにおいては当然近代になっているはずの日本でも、「国民主権」という国民国家のあり方が本当に理解されているかは難しいと、マル激でも語っていたように記憶している。萱野さんの国家概念によれば、国家は暴力を正当化(=合法化)する権限を持つが、この権限を主権と呼ぶならば、国民一人一人がそれに関わることが出来るような仕組みが出来たのが、近代以後に登場した国民国家ということになる。

この現在の国民国家の姿を、国家一般のありかただと思うと、国家から抜け落ちてしまう対象が出てくるだろう。さまざまな変遷を経て、ということは国家の概念の抽象が変化をしてきた現在の国家は、国民国家という特殊性を国家に付け加えているはずだが、それをそのまま国家一般の普遍性だと勘違いすると「思考する」という論理展開の方向が違うものになってしまうだろう。

三浦勉さんの誤謬論では、特殊性と普遍性の混同ということで、この種の誤謬がよく取り上げられていた。慣れ親しんでいる現実存在のイメージが先入観として普遍性にもぐりこんでくるということはよくあることだ。抽象の過程においては、この種のイメージの影響を注意深く分析していく必要があるだろう。萱野さんの言葉は、そのようなことを教えるものとして印象に残ったが、それとともに逆の影響もあることを感じて、また別の印象深さも感じた。

板倉聖宣さんは、「人間は先入観なしにものを考えることは出来ない」ということをよく語っていた。だから、正しく考えるには、できるだけよい(有効な)先入観を持つことが重要だといって、科学の基礎概念の教育の必要性を主張していた。科学の基礎概念こそがよい先入観になるという考えだ。

人間は、心を真っ白にして、先入観なしにものを見ようとすると、それをあるがままに受け取ることしか出来なくなる。ものが上から下に落ちるのも、それはものがそういう性質を持っているからだということになる。現実を素直に、それを肯定して受け入れることが、実はすべての先入観を排した素直な見方というものになってしまう。徹底した現状肯定というものがそこからは生まれる。

萱野さんが指摘するように、具体的なある種の先入観が、ものを考える方向をずらして間違いを犯すからといって、すべての先入観を排してしまうところまで行ってしまうのは、逆の方向への行き過ぎた間違いになるのである。

具体的な先入観の間違いは、その具体性に沿って間違いを指摘し、間違いを正す方向を示すことによって批判しなければならない。ある先入観が間違った方向への論理を呼び起こすからといって、すべての先入観が問題があるように結論を持っていくのは論理的な誤りでもある。これは特殊性を一般化する間違いになる。実際には、ある先入観の間違いは、もっとよい先入観(対象を考察するのにふさわしい先入観)を持つことによって解決される。

ある種の先入観を持つことをアプリオリズムのように感じる人がいるかもしれない。何か、経験に先立つ前提から導き出されたものが思考の出発点に設定されているように感じるかもしれない。だが、良い先入観というのは、具体的には科学の場合がそうであるように、現実の経験から抽象された結論が、理論展開において前提として設定されているに過ぎない。それは超経験的な、どこか天から降ってきたようなものではないのだ。

むしろ、このような仮説的な先入観を設定して思考を展開しないと、思考そのものの展開ができなくなり、結論を現実と照合して判断をするという実験的な方法も使えなくなる。先入観なしに、現実をあるがままに捉えるだけでは、現実を正しく捉えているかどうかの検証が出来ない。

このようなことを考えているときに、「国家概念抽象の過程 2」のコメント欄で紹介された佐佐木晃彦さんの「<論理>的かつ<理論>的アプリオリズムの問題」の冒頭の文章を読んで、非常に大きな違和感を感じた。この違和感はどこからくるのだろうかということを考えてみた。

佐々木さんは、アプリオリズムの間違いとして、「森羅万象なんでも論理的に扱える方法」という指摘をしている。しかし、これはアプリオリズムの間違いというよりも、形式論理適用の間違いで、形式論理内で解釈できる間違いではないかと僕は感じる。形式論理を本当に理解した人間だったら、それを「森羅万象」に使おうとする人はいない。形式論理は、適用できる対象が限定されているのだ。

例えば恋愛感情に対して形式論理を適用しようとする人はいないだろう。形式論理というのは、命題に対する判断が固定的でなければならない。対象を静止的に表現すると板倉さんは語っていたが、これが形式論理の特徴だ。だから、静止的に固定できる対象でなければ形式論理は適用できない。運動そのものは形式論理では表現できないという限界を知らなければならない。恋愛という運動は、形式論理の対象にならない。常に違う感情が芽生えては消えていくような恋愛感情という対象に対しては、形式論理は適用できない。物質の運動のように、静止画像として切り取れるという工夫が出来たとき、運動も初めて形式論理の対象になる。

形式論理という枠組みは、むしろ良い先入観として理解するほうが正しいのではないかと僕は思う。形式論理という枠組みは、物事を合理的に判断したいときに従わざるを得ない枠組みであって、合理的な判断が必要ないという場合にのみそれを捨ててもかまわないというものだ。合理的な判断をしたいときに形式論理に従わなかったらどうなるだろうか。矛盾を許容しなければならなくなるのだが、矛盾を許容する判断が果たして合理的だといえるだろうか。

形式論理という枠組みは、先入観として排除するものではなく、合理的判断をしたいときには必ず従わなければならないものとして、合理的判断の際に有効な良い先入観として捉えるべきだろう。合理性が問題にならないときは、そんなものは気にせずに忘れていてもいいものだとおもう。文学を味わうときには、合理性を忘れていても大丈夫だ。死んだ人間が生き返り、若返ったとしても、文学としては少しも問題はない。空想の中では、形式論理に従う必要はない。

形式論理の枠組みをアプリオリズムの現象として考察の対象にすることに大きな違和感を僕は感じた。形式論理の枠組みは、合理的思考の展開のためには必要不可欠のものであり、排除することはできないと思うからだ。それが間違った結論を導くとしたら、それは論理の枠組みの間違いではなく、形式論理を適用すべきではない対象に適用したことによって結論を間違えるということなのではないかと思う。その命題の真偽が固定化されたものではなく、展開の途中で変化してしまうようなものでは、形式論理の適用によって正しい結論を得ることが出来なくなる。

アプリオリズムの間違いは、具体的な前提の設定というもので判断すべきではないだろうか。例えば、宗教的な意味での「神の創造」などは、アプリオリズムの典型ではないだろうか。この前提は決して証明できるものではなく、むしろ証明しないからこそ尊い真理として信仰の対象になっているようにも感じる。アプリオリズムの間違いは、神の創造などなかったという証明も出来ないことが特徴ではないかとも感じる。肯定も否定も出来ないからこそアプリオリに無前提に設定されるのではないだろうか。アプリオリズムに見えるような言明が、もし否定的に証明されるなら、それは単に具体的な認識に間違いがあったというだけのことで、アプリオリズムの間違いではないような気もする。

形式論理は、思考の枠組みであって具体的な言明ではない。従ってアプリオリズムの間違いになることが出来ないのではないだろうか。それは、合理的判断の際に従わなければならないルールという枠組みに過ぎないのであって、それ自体は何も語っていない。小室氏の論理展開がアプリオリズムの間違いだという指摘は、小室氏が設定した具体的な前提が分析されてそのような判断が導かれるのではないかと思う。論理の枠組みからはそのような判断は出来ないのではないだろうか。最初の部分では僕はそのような違和感を感じた。