長野県民は田中康夫さんの何を否定したのか


否定の論理構造という視点から長野県知事選の結果を考えてみたいと思う。田中さんは7万8000票差で破れたという。これを大差だと見る見方もあるが、田中さんには53万票くらいが入ったというから、決して否定されたわけではないという見方もあるだろう。

しかし結果的には選挙に敗れた。その事実の中に入っている、田中さんに票を入れなかった人々の「田中さんへの否定」というものがどこにあるのかを考えてみたいと思う。それは、ある意味では僕には事前には浮かんでこないものであるように感じるからだ。

否定の論理構造においては、可能性としての「事態」の予想を持っている人間が、その「事態」に反する「事実」を見たときに、「事態」の否定として否定の判断が生まれるというふうに見える。「事実」そのものをただ眺めているだけでは否定の認識が生まれてこない。何かが「赤い」と感じた人間が、実際にそれがそうでないことを見たとき「赤くない」という判断をするように。

僕自身は田中さんの政治というものを高く評価したい人間なので、田中さんが行うことの中から否定的な評価をしたくなるようなものを見つけにくい。いったいどのような視点を持っていれば、田中さんの政治を否定するという判断が出てくるような「事態」を想定出来るのだろうか。それが論理的に整合性を持っていると納得出来るものであれば、今回の選挙の敗北の本質が見えてくるかも知れない。

「<長野県知事選>田中氏の「壊す」政治を県民否定」というニュースには「否定」という言葉で、田中さんの「壊す」政治が指摘されている。しかし、僕はこの指摘には何か違和感を感じる。ここには次のように書かれている。

「02年の毎日新聞出口調査では、田中氏に投票した人のうち7割が、県議会や市町村との対話を求めている。「壊す」から「創(つく)る」県政への転換を訴えた田中氏に4年前、県民が与えた信任は白紙委任ではなく、そのための対話を求める条件付きだった。
 しかし田中氏の県政運営の手法は2期目も変わらず、議会では対立が繰り返された。「脱ダム宣言」の象徴となった浅川のダム問題でも代替案をめぐる混迷が続いた。財政再建に伴う福祉の充実や、入札制度改革など他県に先駆けた試みはあった。しかし住民票移転問題などが県民の目にパフォーマンスと映り、実績が埋もれた。新党日本代表になるなど国政にも及ぶ活発な田中氏の発言・行動に、県民の中から「飽き」が生まれていたことも否めない。」

ここに書かれていることを素直に解釈するなら、県民が否定したのは「対話がない」ということであって、何かを壊したことが問題になって、その壊す政治を否定したようには書かれていない。というよりも「壊す」政治について具体的な記述は何もないのに、「壊す」政治が否定されたという判断を語ることに僕は違和感を感じる。

「壊す」政治を否定するのなら、「壊す」ことによって何かいいことがあるはずだという予想があったにもかかわらず、それが予想どおりにならなかったという論理構造がなければならないのではないだろうか。

上の記述を見ると、「壊す」ことを否定したというよりも、壊した後の段階である「創る」の方がなかなか行われなかったことに待ちくたびれたという評価の方が正しいのではないかと思えてくる。それがなかなか行われなかった原因が議会との対立にあり、そこに対話がなかったからだ、だから田中さんの「対話がない」ことを否定する、という論理の流れなら整合性を感じる。

この議会の対立ということについては、田中さんだけに責任があるのではなく、むしろ議会の方の責任こそが大きいものだというふうに外から見ている人間には感じる。「長野県知事選の結果について②」で関さんが、

「残念ながら、政策よりも人間性で判断した長野県民は多かったようです。いや「人間性」そのもので判断したというよりも、田中氏の「人間性」を攻撃する議会と知事の不毛な対立がこれ以上延々と続き、県政が不正常な状態のまま続くのを回避したいと考える県民が多かったということでしょう。
 「これまでの政策は一定評価するが村井に入れた」という人が多かったようです。そういう人々は、単にゴタゴタが続くのを見たくなかったということなのでしょう。

 この責任は、田中知事ばかりにあるのではなく、住民票問題などで意図的に県政を混乱させようとした県議会議員たちの方に多くがあるように思えます。」

と語っている。これが客観的な見方なのではないかと僕は感じる。だから、「対話がない」ことが問題ならば、本来は田中さんを否定するのではなく、県議会議員たちの方を否定する方が正しいだろうと思う。そうすれば実りある対話が復活すると思うからだ。田中さんを否定するということは、実りある対話の方向へ行くよりも、古い談合体質を復活させる方向へ行くのではないかと僕は「事態」を想像してしまう。

田中さんの政治が否定されたというのなら、どのような政治のどの面が否定されたのかを具体的に分析する必要がある。だが、どの記事を見てもそれは語られていない。だから、政治そのものが否定されたように僕には見えなかった。対話がないことが否定されたということなら少しは整合性を感じることが出来る。だが、それは間違った判断ではないかと感じる。否定する相手を間違えているのではないかということだ。

対話がないということで田中さんを否定した人々は、対話がないことは田中さんが原因だという「事態」を頭の中に持っていたのだと思う。これは間違いだと思うが、長野での最大のマスコミである信濃毎日はそのようなイメージを増大させるような記事を連日配信していたという。だから、田中さんを応援する側の人々は、このマスコミ宣伝が選挙の敗北につながったと見る人が多いように感じる。そしてこのマスコミの行為に、ジャーナリズムとしての間違った姿勢を感じて憤っている人が多いようだ。

関さんも

「ただ、新聞各紙が必要以上に、田中氏の正の側面を隠蔽し、負の側面を誇張したことも事実でしょう。新聞は熱心に田中叩きを行いました。

 そして新聞がそうした行動を取った背景には、田中知事が行った「記者クラブ制度の廃止」という改革があったようです(脱『記者クラブ』宣言)。
 マスコミの人々は、他人の業界に関しては「やれ利権だ、やれぬるま湯の温室構造だ、やれ護送船団だ」とわめくくせに、自分たちの業界が記者クラブ制度に支えられた完全なる護送船団だということは理解できないようなのです。彼らは、自分たちの護送船団に傷をつけようとする改革者が現れると、土建業界や労働組合も顔負けの「抵抗勢力」になるのです。
 本当に困ったことです。」

という文章でマスコミの問題を語っている。マスコミが、公共的なジャーナリズム精神ではなく、記者クラブ廃止で被った損害を回復させようという私益を追求するために田中さんを攻撃したとしたら、そのマスコミはもはやジャーナリズムだと呼べないものになってしまっただろうと思う。

このように厳しい背景があったにもかかわらず7万8000票差ですんだというのは、ある意味では田中さんの正しさが示されたことでもあると僕には感じる。もしも長野県民に浮動票が多く、マスコミの宣伝に乗せられる人がたくさんいるのなら、もっと大差で破れてもいい感じがする。しかし、53万人くらいは少しもぶれることなく田中さんへの高い評価を持ち続けたのは長野県民の民度の高さを表すものではないかと思う。

そう考えると、マスコミの攻撃が田中さんの敗北につながったと見るのはどうも単純すぎる見方のようにも思える。長野県民の多くは、そのようなマスコミのエゴから来る攻撃に踊らされてはいないのではないか。それは長野県民の民度をあまりにも見くびっているのではないかと感じる。長野県民は、もっと論理的に整合性のある行動をしたのではないか。

田中さんは、知事になった当初から反対勢力とは対立し続けていた。これは利害が衝突するのであるから対立は必然的なものだったとも言える。今回の選挙でも、対立する側が、自らのエゴを捨てて公共性の方を選び取って田中さんを支持する方に回るということは考えられなかった。だから、最初から反対票がどのくらいになるかは見て取れたはずだ。

以前の選挙ではその反対票が田中さんを脅かすほどの量にならなかったのではないかと思う。関さんの記事では「土建業界とか労働組合の連合」というものが、田中さんの改革路線と利害が対立する相手として語られている。これらの勢力は、反田中として村井氏の方に票を投ずるのは当然のことではないかと思われる。問題は、この勢力が田中さんを支持する層を上回るかどうかということだ。

今までの選挙では田中さんを支持する方が票を上回った。今回はなぜそれが逆転してしまったのだろうか。利害が対立する人々が増えたのだろうか。このあたりのことは具体的に検討してみないと分からないだろう。どなたか情報を提供してくれる人がいるとありがたいと思う。

また関さんの次の記述には、僕は今回の選挙結果が逆転した本質的な面を見るヒントがあるのではないかと感じた。関さんは、

「彼が自分の周囲にイエスマンばかりを近づけ、自分に意見する有能な人材を遠ざけようとしたことは事実です。そうした独善的行動に対する批判は、誤解ではなく事実に基づくものでしょう。」

と書いている。もしこのことが事実としてあったのなら、田中さんは、かつての味方を敵にしてしまったということになるのではないだろうか。最初から敵としてはっきりしている人間は、今回必ずしも増えていないのではないかと思う。むしろ田中さんの政治によって恩恵を被る人々が増えてきたのではないかと思う。

だが、かつての味方が切り崩され、それが敵の側に回ったとしたら、田中さんの支持票が少なくなり、相手の獲得票が増えるという2倍の効果が現れる。これこそが実は選挙の敗北の本質を物語っているのではないだろうか。

長野県民は田中さんの壊す政治を否定したという判断は違うのではないかと感じる。むしろ、今まで田中さんを支持してきた人々が、その期待を裏切られたという、期待という「事態」を否定されたことで田中さんを否定したという解釈が整合的な解釈なのではないだろうか。そのような考察をさせてくれた関さんの選挙結果分析は、この選挙を語ったものの中で最も納得する部分が多いものだった。