「思考言語」という言い方について


「思考言語」という言葉を初めて聞いたのは、養護学校で障害児教育に携わっていたときだった。障害児の中には、言語を話す機能に障害があるため、表出される言語はないものの、こちらが話す言語はよく理解し、文字盤などを使って何らかの表現を引き出すことが出来る子どもたちがいた。

文字盤というのは、ひらがなの50音を書いたもので、どのひらがなを表現したいのかを一つずつ聞いていって、イエスかノーの表現をあらかじめ決めておいて、そのやりとりによって対話を行うものだ。文字盤を使った対話は、音声としては現れないが、表現としては外に出てくるので「言語」と呼ぶにふさわしいものになっていると思う。

このような対話が出来る子どもたちは、たとえ音声としての言語表現がなくても、言語の理解をしていることは分かるし、表現をしていないときでも表現の手前までの思考が頭の中で行われていることが分かる。この言語表現のための思考活動に使われる言語を「思考言語」と呼んでいるように僕は感じた。

僕は、このときの「思考言語」という言い方には大きな違和感を感じていた。三浦さんの言語学で言語を学んでいたこともあり、表現されない・頭の中にある状態のものまでも「言語」と呼ぶことに違和感を感じていた。

特に、障害児教育において問題になるのが、イエスやノーの対応さえも現れてこない子どもたちに対して、果たして言語による対話が可能かどうかということが実践的には大きなものになっていたので、対応が現れない「思考言語」を言語と呼ぶことは間違いにつながるのではないかという感じもしていた。言語としての表出が見られない子どもでも、「思考言語」は使っているのだということをどう判断するかということが問題だと思っていた。

反応が現れる子どもだったら、その子どもが言語の理解をして、言語を使って思考していることは見て取れる。つまり、言語を使う能力があるとはっきり判る子供は、その現象の帰結として、言語を使って思考しているということが分かる。だが、言語の表出がない子どもは、言語を使っているかどうかが分からない。思考ということがされているかどうかも分からない。

もし言語を使うことの出来ない子どもたちが、思考そのものも出来ていないという結論をしてしまうと、思考が出来ない存在というものが、その人間性を貶めているようにも感じてしまう。誠実な教員であれば、たとえ言語の表出はなくとも、人間的な思考という活動は行われているはずだと思いたくなる。「思考言語」という言葉は、そのような願望と結びつきやすい言葉だと思った。

願望と結びつきやすい言葉は、客観的真理を考察する際には間違いへと迷い込む可能性を高めるのではないかと思う。直感的な違和感としては、三浦さんから学んだ言語論から来るものを感じたが、特に障害児教育においては「思考言語」という言葉は使わない方がいいのではないかと感じた。

しかし、ウィトゲンシュタインの「像としての言語」というものを考えてみると、これは概念的には思考の際に使われる言語と呼べるので、これを「思考言語」と呼ぶことには説得力があるのではないかとも感じるようになった。ウィトゲンシュタイン自身は「思考言語」という言葉を使っていないが、同じような視点でこの現象を考えている人が、「思考言語」という言葉を使ったとしてもそれは必ずしも間違いではないような気がした。

ウィトゲンシュタインの「像としての言語」は、箱庭の比喩として野矢茂樹さんは語っていた。箱庭というのは、建物や庭木あるいは小動物などの部品を使って、実際の家のモデルを作るものだ。実際の家を建てるという現実化は大変だが、モデルとして箱庭を作るのは簡単に出来る。ということはそこでは試行錯誤ということが出来るわけだ。

この試行錯誤を野矢さんは一つの思考と見ている。そして、現実ではないけれど、部品としてのそれぞれの代替品は現実の「像」として捉えていた。この「像」を操作して現実のモデルを作ることを野矢さんは「思考」と呼んでいた。これは説得的な論理だと思う。

「像」の操作は、数学において図を用いて問題を考えるときなどに、それが「思考」と結びついているのを強く感じる。特に方程式の応用問題などで、文章だけを読んでいたのでは難しい問題を、その文章が表している構造を図式化すると解けるようになるという経験をすると、「像」による「思考」の威力を強く感じる。そのまま考えたのでは難しい問題を、構造を保存したまま考えやすいモデルに移行するというのも「像」の有効性の表れになるだろう。

「像」は箱庭の部品から、数学の図などいろいろと考えられるだろうが、最も広い範囲で利用可能なものが言語になるのではないかと思う。この場合の「言語」というのは、言語学の対象としての「言語」ではない。いわば、言語が使われる現象一般のイメージに結びついたものとしての「言語」を指している。厳密な定義の下に使われた「言語」ではない。その実体はまだ分からないが、とりあえず「言語」と呼んでおこうという感じだろうか。

「言語」という言葉で呼ぶことの出来る現象はたくさんあるだろうと思う。まさしく「言語」というのは、そのような曖昧さを持っているとともに、そのような許容範囲の広さが、どのような場面でもコミュニケーションの道具として使えるという汎用性ももたらしているように感じる。その場合に、特にこのときに限定した言語現象を考えようという意図を持ったときに、「言語」という言葉が特に限定的な意味で学術用語化されるのではないだろうか。

「思考言語」という言葉は、すでに思考というものが出来るということを前提にして、思考の中身を考えるときには便利な用語になるのではないだろうか。それは表出された「言語」ではないが、「思考」という言葉を添えることで、表出された「言語」ではないというニュアンスを持たせれば、言語論と矛盾することはないのではないだろうか。

障害児教育においては、表出言語があるかどうか判らない子供にまで「思考言語」という言葉で考察をすることは間違いを呼ぶ可能性があった。しかし、すでに言語を話す能力を持ち、言語を用いて「思考」していると思われる人間について「思考言語」を考えることは、そのような間違いの可能性を少なくするのではないだろうか。

ウィトゲンシュタインは「思考」の限界を明らかにすることを目的としてその哲学を完成させた。結論としては、「思考の限界は言語の限界として現れる」というものだ。この「言語」は、人間が使う言語のすべてを指しているのではなく、あくまでも「思考」の際に使われる「言語」を指している。この限定された言語に対して「思考言語」という名付けをしても、それは矛盾したことにはならないのではないかと思う。むしろ、限定されているという、その輪郭をはっきりさせるために「言語」とはいわず「思考言語」と呼ぶことで、それがはっきりすることにもなるのではないだろうか。

ある言葉を使うということは、それが使われている社会的な習慣を受け入れるという面もあるが、その言葉を使うことによって、自分がどのような視点を持っているかということを示すことにもなっている。「思考言語」という言葉も、かつて障害児教育をしていた頃にはそれを受け入れがたいと思っていた。それは、表出言語があるかどうかも分からないような状況で、「思考言語」を云々することは、存在しないものについて考えていることになるのではないか、という視点を僕が持っていたからではないかと思う。

言語が使える人間について「思考言語」という言葉を使うのは、「像」として確かに存在していることを感じる対象に「思考言語」という名前を付けただけなのだと感じる。つまり、そのような存在を想定しうるという視点に僕が立っているからこそ、そのような言葉を使って表現するのだということが出来る。

ウィトゲンシュタインが「思考言語」という言葉を使っていないのに、僕がそれを「思考言語」と呼びたくなるのは、僕はそれを区別しないとうまく「思考」出来ないのを感じるからだ。この言葉を使うことによって、普通の意味での表出された「言語」と、思考するときに「像」として働く「言語」とを区別して考えたいと思っているからだ。「思考言語」という言葉なしにそれが考えられる人には、その言葉はいらないかもしれない。

言葉は、客観的な存在の反映として認識の中に生まれてくるのか、それとも、言葉があることによってその概念を存在に押しつけて、存在の一面を切り取って認識するという作用として利用されるのか。どちらなのかは難しいものだという感じがしている。唯物論が正しいのか、観念論が正しいのかは難しい問題だと今は感じる。特に、現実存在が本当にあるかどうか分からない対象を考えるときは、観念論抜きには出来ないのではないかとも感じる。

靖国問題では、戦争責任というものが難しい問題として横たわっているが、これは言葉の定義によって「ある」とも「ない」とも言える微妙なものに感じる。客観的に「戦争責任」と呼べるようなものが存在して、それが反映して客観的真理として「戦争責任」が結論されるという感じがしなくなった。むしろ、「戦争責任」は我々が選び取るものであるという感じがしている。

我々がそれを選び取り、自覚的に反省したときに「戦争責任」という存在が現実の中に存在することになる。言葉が、現実の中に入り込んで、現実を切り取ることによって認識がもたらされるという感じがする。

サンフランシスコ講和条約を受け入れたときに、日本人は、A級戦犯に戦争責任があるのであって、一般国民と昭和天皇には戦争責任がないということを選択したのだろうと思う。そして、その選択が国際的に合意されて、日本の国際社会への復帰というものがもたらされたのだろうと思う。

これはごまかしの選択だったという点では否定されなければならないだろう。しかし、国際的な関係からいって一方的に否定されるわけにはいかない。国際社会での合意を取り付けつつ新たな合意の道を探ることが必要だろう。日本の誰にも戦争責任がないという主張は、国際的な理解は得られないだろうから、誰にどの程度の責任があるかというのを、客観的に正しいと合意出来るように選ばなければならないだろう。

そのような合意が出来るまでは、一方的に合意を否定していると見られるような、首相の靖国参拝はやっぱりまずいだろうと思う。合意を得るための議論を始めるためにも、首相の靖国参拝は自粛されるべきなのではないかと思う。それは個人的な参拝ではなく、首相の参拝であるということが問題なのだと思う。