田中康夫長野県知事に対するバックラッシュ


宮台真司氏の『バックラッシュ!』におけるインタビューでの考察を見ていたら、先の長野県知事選で敗れた田中知事に対しても同じような構造があったのではないかと連想させるような部分があった。それは、バックラッシュ現象というのは、論理的に考えてみれば全く的はずれの攻撃であり、それが間違いであることを指摘するのは易しいのだが、大衆的な動員という点ではむしろ理不尽な攻撃の方が勝つということだ。

このあたりの実感は、インターネットで炎上してしまうようなブログを見たりするとき、攻撃する側の方が理不尽で間違っているのに、正当な主張をしている方が動員では負けるというようなものを見て、そのような現象が確かに起こるのだなと感じるところがある。

長野県においても、論理的な主張としては田中知事の方が正当性を持っていることはほとんど明らかであるように第三者からは見える。直接の利害関係がない第三者から見れば、論理的な正しさはすぐに分かるが、当事者にはそれがわかりにくいというのは理解出来る。だが、わかりにくくても全くそれが見えないということはないだろう。少しはそれが見えてくるはずなのに、動員においては論理的に間違っている方が勝つという、このバックラッシュ現象は教訓として記憶にとどめておかなければならないのではないかと思う。

宮台氏は、自らの失敗を次のように語っている。

「10年前の私は「性の自己決定」を唱導するイベントを繰り返して各所で問題を起こしましたが、私にも戦略的錯誤がありました。自称リベラルのヘタレ(性的弱者)を粉砕するには、彼らが依拠する疎外論(××からの疎外)が物象化的錯視(××への疎外)に基づくことを論証し、彼らのいう××(例えばマトモな人間)が主観的思い込みであることを示すべく、彼らよりマトモに見える性労働者を連れてくればよいだろうと思っていたのです。
 でもこれは政治的(=動員的)に失敗でした。このことが大きな教訓になりました。理屈の相対的な正しさを示すことが、必ずしも人々の心を動かすことにつながらないのを学びました。とりわけ人々の実存が絡むような主題については、そうなのだと知りました。必要なことは、多様性が過剰流動性の帰結だとの思い込み、多様性が自らを脅かすとの思い込み、多様性が勝ち組だけを幸せにするとの思い込みを、感情的に解除してあげることです。」


正しい理屈は学問の世界であれば必ず勝利する。板倉聖宣さんも、「真理は10年にして勝つ」といっている。どんなに今は常識にはずれているように見えようとも、科学的に証明された真理は、10年もすればほとんど全ての人に認められるということだ。しかし、学問以外の世界では、このようなことは必ずしも起こらないと言うことだ。

正しくない理屈が観念論的妄想であり、現実を正しく捉えれば、その間違いを悟るだろうと考えたのが宮台氏の戦略だったと思う。しかし多くの人はそうならなかったというのが現実だった。

多様性というのは選択肢が増えることを意味する。それは必ずしも他の選択肢を否定することではないのだが、今まで他の選択肢があり得ないと思っていた人々は、他の選択肢が現れて、自らが大事にしている選択肢が選ばれなくなること自体が、自らの大事にしていた選択肢の否定のように感じてしまうだろう。

宮台氏は、「君は君でいい、私は私でいい。自分とは別の前提を持つ人が近くに生きていてもかまわないと認めようよ。最大多数が自分を脅かされずに生きたい道を生きられるような社会を目指そうよ」と呼びかけてきそうだ。これは全く正当な主張だと思う。しかし「それは強者の論理だ、搾取の温存だ」という反論もあったりする、感情的に受け入れがたい主張のように見られてきたようだ。

理屈だけでなく感情を手当てすることが必要だという面は、田中知事の場合においてはどうだったのだろうか。この場合「手当をする」というのは、何か便宜を図ってやるというような利害を絡めることではない。理屈では正しいことであっても、それが感情的に納得いかないときに、その感情そのものはいったん認めて、その上でもやはり理屈が正しいということを説得出来ていたかということだ。理屈が正しいのだから、感情的反発など無視してもかまわないという姿勢がもしあったら、宮台氏と同じように戦略的失敗を反省しなければならないかも知れない。どうだったかを具体的に調べてくれる人がいたら、きっと今後の教訓になるだろう。

前回のエントリーで紹介した三土さんの靖国議論では、理屈では靖国神社が一宗教法人として公共性を放棄することが正しいということが出てくる。しかし、犠牲になった人々を公的に追悼するという感情の面は、この理屈がたとえ正しくても無視することは出来ないと語っていた。この感情の手当をしない限り靖国問題が解決することはないのではないかと僕も思う。

この感情の手当は非常に難しい問題であるとも宮台氏は指摘する。自明な前提性を持っている人間は、それが自明であることを疑うだけで不安に駆られてしまう。しかし、それに疑いを持たなければ多様性を受け入れることは出来ない。不安を発生させるような方向を取りながらも不安を鎮めなければならないのだから難しいはずである。

しかもバックラッシュによって、このような感情の手当を邪魔する勢力がたくさん出てくる。この種の感情の手当は、手順を踏んだ時間のかかるもので、しかも矛盾した面を持っていることを理解するという論理的な難しさも持っている。それに比べてバックラッシュをかけてくる方は、分かりやすい感情面に訴える煽りをすればたやすく人々がそちらになびくようになる。「不安のポピュリズム」と呼ばれているように、不安を煽った方がより多くの人々がそちらの方を向く。

このような状況を考えると、バックラッシュによる大衆的動員の敗北というのは、リベラルの側にはある程度織り込み済みで覚悟しておかなければならないことになる。宮台氏も次のように語っている。

「このように「多様な幸せの共生」を目指す都市型リベラルの構築は、時間がかかります。そのことが自明ですから、「不安のポピュリズム」に煽られる都市型保守の怒濤のような流れがしばしば見られても、むしろ織り込み済みとするべきで、リベラル勢力が意気消沈しないことが重要です。小泉自民党の大勝のごとき現象や、ブッシュ大統領の当選のごとき現象が、元々回避しがたいことを覚悟するべきです。それは私の責任でもあなた方の責任でもないからです。」


田中知事の落選というものについても、このような「都市型保守の怒濤のような流れ」の一つの現象なのではないかと思う。それは歴史の流れとしてある意味ではどうしようもないことなのかも知れない。

宮台氏は、「多様性の恩恵から排除されがちな人々こそが多様性に反対する」ということも語っている。これは、都市型保守として成長する人々が、実は弱者として排除される存在でありながら、彼らをむしろ排除する政権を支持するという皮肉が起こることの原因を語っているものだと考えられる。

弱者ゆえに「多様性の恩恵から排除されがち」になる人々は、排除されることで多様性そのものに恨みを抱く。伝統回帰をしても、弱者である自分が救われるかどうかは分からない。しかし、多様性が自分たちを排除していることだけは感じている。そのようなときに、多様性に反対して、多様性を叩くバックラッシュを支持してしまうのは、感情的には理解出来る。

多様性が利益だと感じているリベラルの側は、それが今は排除されているように見える弱者にとっても、結果的には利益になることを、感情的にも説得していかなければならない。そうしなければ大衆的動員の勝負には勝てないだろう。理解しないおまえが悪いのだというような態度では、大衆的動員では負けるだろう。

田中知事が選挙に敗れたということは、大衆的動員の勝負には負けたということを意味する。これは、田中さんの主張が論理的に正しかったかどうかということとはほとんど無関係だと思う。理屈として正しくても支持が得られないことは歴史上いくらでもあった。

かつてマルクス主義が華やかだった時代は、誰と誰が敵対して、誰と誰が連帯するかは分かりやすかったのではないかと思う。同じ存在条件を有する人々が確かに存在したような感じがする。その人々の間では、連帯ということがごく自然に行われていた。

しかし、現在では、構造的に見れば同じ存在条件を持っていると思われる人々でも、連帯をすることは容易ではなくなってきている。連帯ということがこれほど難しい時代はないのではないかと思う。連帯をするよりも、むしろ、自分は他の人と違って損しなくてよかったというような利害感覚の方が人々に蔓延しているようにも感じる。

かつて田中知事を支持していた人々が、その支持を変えたのは、どんなものが原因していたのだろうか。単純な利害だけではなく、不安のポピュリズムが関係しているものもあるのではないかと思う。田中知事の主張の正しさを疑わない人々に、なぜ大衆動員で破れたのかということを、深く分析して知らせて欲しいものだと思う。それは、きっと今後のバックラッシュに対処することに役立つだろうと思う。宮台氏が語るように、「リベラル勢力が意気消沈しない」で、元気に語って欲しいものだと思う。