文章の易しさと難しさ


学生の頃ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を読んで、これほど難しい本はないと思った。書いてあることがさっぱり分からないという感覚を持ったものだった。年をとって、野矢茂樹さんを通じてこれを学び直したら、ようやくその文章が分かりかけてきた。なぜ分かってきたのかというのを自分なりに考えてみたいと思った。

ウィトゲンシュタインは、冒頭の文章で

「1 世界は成立している事柄の総体である。」


という文章を書いている。この文章を文法的に理解することは可能だ。つまり、言葉の形式としての枠組みを理解することは出来る。だが、この文章でウィトゲンシュタインが本当は何を言いたかったかという「内容」を理解することは難しい。文章における易しさと難しさは、その「内容」を受け取ることの易しさと難しさに関わっているように僕は感じる。

ウィトゲンシュタインの上の文章を、文法の形式として理解するというのは、個々の単語の辞書的意味をたどることになる。「世界」「成立している」「事柄」「総体」「である」というような単語の意味を理解し、それが上のような順番でつながれているとき、形式的な一般的な意味がどうなるかということがまず問題になる。

そうすると上の文章は、「世界」という言葉で何が示されているかという、「世界」という言葉の定義を語っているのだなと受け取れる。「成立している」ということは、実際に目の前に現れているというような、現実性を表しているのだという解釈も出来る。そして、それを全部集めたものが「総体」であり、対象としては「事柄」であって、個々の物質ではないと言うことが上の文章から読みとれる。

このように読めば、上の文章は理解したということになるだろうか。これだけでは僕は何かが分かったという気分にはなれなかった。<それがなぜ「世界」なのか?>という疑問がわいてきて、それが理解出来ないと、この文章の内容が理解出来たという気にはなれなかったのだ。

これはとても困ったことだ。それは、ウィトゲンシュタインを読む前には、ウィトゲンシュタインが語る「世界」という言葉の内容を知らないからだ。ところが、「世界」がこのようなものであるという理解がなければ、この最初の文章でさえその内容を読みとることが出来ない。ウィトゲンシュタインは「おそらく本書は、ここに表されている思想−−ないしそれに類似した思想−−をすでに自ら考えたことのある人だけに理解されるだろう」と序に書いている。ウィトゲンシュタインの難しさはおそらくここにあるのだろう。その内容を一度考えて、自分なりの結論を出した人間にしか理解出来ないという難しさがあるに違いない。

ウィトゲンシュタインの文章は、その出発点において、実はすでに全体像を把握した人間が到着点を見ながら語っている文章になっている。ここにウィトゲンシュタインの文章の難しさがあるのを僕は感じる。世界を外から眺めるような超越的な高い視点を持っている人間が語ることを、自分の周りの低いところしか見えない人間が理解しなければならないという難しさを感じる。これをどう克服したらいいかは、学習における重要な問題だろう。

野矢茂樹さんによってウィトゲンシュタインが少しは分かるようになったということは、野矢さんの文章は、いきなり頂点から眺めるのではなく、低い場所から見えるようなことから始めて、少しずつ高いところへと昇っていくような書き方をしているからではないかと思う。ウィトゲンシュタインに比べれば遙かに分かりやすい文章になっていると思われる。

内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』という本も、構造主義などと言うものを全く知らない人間でも、身近なよく分かることを眺めることから出発して、少しずつ現代思想の最高峰である構造主義に近づいていくという書き方になっているように思う。それが分かりやすさをもたらしているものだろうと感じる。

このような分かりやすさという点で衝撃を受けたものに、つい2,3日前に読んだ『社会学入門』(見田宗介・著、岩波新書)がある。これは本当に易しく書かれた本で2日もあれば読めてしまう。しかし、そこに書かれている内容は、「社会」という得体の知れない存在に対して、実に豊かな想像力を与えてくれる、社会学の入門書としては優れたものに感じた。

見田さんの文章には、専門用語の難しさというものがない。普通学問的な内容を書いたものは、専門用語の理解を前提としているので、それが出来ていないと非常な難解さを感じるものだが、この本にはそういうものは全くない。

宮台真司氏の文章が難しく感じるのは、そこに多くの専門用語がちりばめられていることによることが多い。これは、学問的な内容であることを最初から表明しているようなものはある程度仕方がないとも言える。『権力の予期理論』などという本は、注釈を参照したり社会学辞典を引いたりして読まなければ一行の文章を理解するのでさえ難しい。しかし、これはある程度仕方がないとあきらめられる。

だが、大衆的な読者を想定した本でも時に難しい文章が出てくるのはちょっと困ったものだと思う。『バックラッシュ!』という本では、インタビューに答えて宮台氏は次のように語っている。

ジェンダーレスは「社会的性別の消去」だけど、ジェンダーフリー概念によって推奨されるべきは「社会的性別に関わる再帰性の自覚」であって、「ジェンダーフリーだから、ああしろ、こうしろ」という直接的メッセージは本来、出てきません。」


この文章は、最後の結論である「直接的メッセージは本来、出てきません」という文章はたやすく理解出来る。しかし、この結論を導く論理の流れを捉えようと思うと、「社会的性別に関わる再帰性の自覚」と言う言葉の難しさが壁となって立ちはだかってくる。これは、この言葉に関する注が書かれているので、注とこの文章を行ったり来たりしながら理解する努力をしなければならない。

これをもう少し分かりやすく書いてくれれば大衆教育としては役立つのだがなとは思うが、それは分析の正しさを目的とする学者に要求することではないかも知れない。それは、大衆教育を担う人の方がすべきことかも知れない。

三浦つとむさんは、若い労働者の教育に強い関心を持っていた人で、三浦さんの文章は、基礎的な知識を身につける条件がなかった人々でも、正しい認識に到達出来るように、身近な世界を出発点にして論理を展開するという書き方だった。そこが三浦さんに惹かれた一番大きな部分なのだが、真理を獲得するときに、誰にでも分かるような書き方をすると言うことは大事なことではないかと思う。

誰にでも分かるような書き方をするというのは、論理に従っていることがよく分かるような書き方と言うことだ。そして、論理に従っているということが、その主張の真理性を保障する。易しさという分かりやすさは、真理性と深い関わりがある。

しかし分かりやすさにも落とし穴はある。仲正昌樹さんが語る「分かりやすさの罠」というものだ。仲正さんが語る「分かりやすさ」は、単に簡単だから分かりやすいということではなく、複雑性を全部抜いて単純な二項対立にして結論を出すという「分かりやすさ」だ。この「分かりやすさ」は、論理的な厳密さを捨てて、いわば「感情のロジック」で結論を選び取るような間違いにもつながりやすい。

靖国参拝問題にしても、その複雑性を無視して単純化すれば、参拝しなければ中国に屈したことになり中国の利益になり、参拝すれば中国の言いなりにならなかったので中国の利益にならない、と言う二項対立にすることが出来る。この場合、どちらがいいかを考えるのは易しくなる。もちろん、参拝することが正しいということになる。

だがこの二項対立的な思考は、参拝することが論理的に考えて正しいのかどうかという視点が抜け落ちてしまう。ここに「分かりやすさの罠」がある。中国に屈するかどうかは、論理的な正しさからの判断ではない。それは利害の観点から、ある意味でゲームの勝者になるかどうかと言う観点からの判断になる。ゲームに勝ちさえすればどんな手を使ってもいいのだという考え方もあるだろうが、ゲームが終わった後も国と国の関係は続くのだということも考えた方がいい。

文章の易しさと難しさの本質を理解することは、そこで語られていることの論理の流れを理解することにつながるのではないかと思う。論理の流れがうまく分かりやすく伝わる文章は、易しくて優れた文章だと言える。しかし、論理の流れではなく、「感情のロジック」に応えるような易しさは、「分かりやすさの罠」に陥る易しさになるのではないかと思う。

難しい文章の評価は、それが、語っている対象の難しさを反映した仕方のないものであれば、難しいものであっても一読の価値があるものだろうと思う。しかし、それが他人の言葉のコピーに過ぎないものであって、説明不足から難しくなっているだけなら、コピー基の文章を読んで考えた方がいいだろう。本当に自分の認識を基にして書いている人なら、それは必ず現実との結びつきがある表現があるはずだから、その部分から難しさを解きほぐしていくことが出来るからだ。だが、他人の文章をコピーしただけの文章は、単に言葉をつないでいるだけなので、そこに語られていることの現実が想像出来ないので、難しさはいつまでも解消出来ないだろう。

易しくて優れた文章のどこに重要な真理が書かれているかという観点で、内田さんや見田さんの文章を読み直してみたいと思う。また、宮台氏の難解な文章に関しては、それが対象の複雑性のどこを捉えたために難しくなっているかを考えてみたいと思う。それは、対象の複雑性を捉えることが出来たとき、その難しさが解消出来ると思う。