『はじめて考えるときのように』(PHP文庫)−−野矢茂樹さんの『論理哲学論考』


僕が強くリスペクトを感じる学者に、もう一人哲学者の野矢茂樹さんがいる。野矢さんは専門が論理学であるという親しみも感じているのだが、なんといってもリスペクトに大きな要因として感じているのは、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を理解するための媒介としていろいろなことを学ぶことが出来たからだ。

いきなり結論を語るウィトゲンシュタインの言葉を、一つずつ丁寧に解きほぐして、どのような思考を重ね、どのような論理をつなげていけばその結論に達するかを野矢さんは教えてくれた。これは、野矢さんに教育者としての優れた資質があったからではないかと思う。学者としてのリスペクトとともに教育者としてもリスペクトするものである。

ウィトゲンシュタインの文章はとてつもなく難しいが、野矢さんの文章は易しく理解しやすいように配慮されて書かれている。その野矢さんが、野矢さんなりの『論理哲学論考』を書き直すとすればこれではないかと思ったのが『はじめて考えるときのように』という小さな本だった。この本はとても面白く、とても深い内容を持ったものだ。

ウィトゲンシュタインは思考の限界を示すと言うことで『論理哲学論考』を書いた。野矢さんは、限界を示すと言うよりも、思考そのものすなわち「考える」ということはどういうものなのかを示そうとした。これは結果的には思考の限界を示すことになると思う。「考える」ということの本質が分かれば、ある対象について自分は考えているのかどうかということが分かるだろう。そして、考えることの出来るものは考えられるということから、考えることの出来ないものがどういうものかということが浮かび上がってくるような気がする。それは直接表現は出来ないが、考えるということを極めたとき、それが見えてくるのではないかと思う。ウィトゲンシュタインにはそれが見えたのだろう。しかし、天才でない普通の人にはそれはなかなか見えない。だが野矢さんの手引きでいくらかでも近づけるような気がする。非常に難しいことを大衆的な、誰もが近づけるものにすると言うことで、野矢さんは優れた教育者だと思う。

野矢さんが語る「考える」ということを、『はじめて考えるときのように』という本から、野矢さんの珠玉のような言葉を引いて、自分なりに理解したことを紹介したいと思う。まずは次の言葉だ。

「知ってることを答えるのには考える必要はない。」


この感覚は僕にはすぐ分かった。「考える」というのは記憶することではないのだ。言い換えれば、知っていることは理解していることではないとも言えるだろうか。例えば我々は地球が太陽の周りを公転していることをほとんどの人が知っている。しかし、それを理解している人はどれくらいいるだろうか。見かけ上は太陽の方が地球の周りを動いているように見える。それなのに、なぜ反対の方が正しいと「考えられる」のだろうか。

野矢さんは、「考える」ということの鍵は

「ふだん何気なくしていて、目には入っているのに気づいていないこと、見えていないことっていうのが無数にある。「考える」ということはきっとそう言うことにも関係がある。」


と語っている。これは、あることを問題だと感じるときに、その問題を解こうとして「考える」ということが始まるといっているようだ。逆に言うと、問題を感じない人には「考える」ということもないといっている。問題を感じないというのは、世界をあるがままに受け入れることだ。それはそういうものだというような悟りのようなものを持つと考えなくてもよくなる。

宮台氏が語る「選択前提」というものは、それが前提であることは自明のことであって、考える対象ではない。当然そうあるべきものだと思っているものが「選択前提」だ。だが、この「選択前提」が選択肢の中に入って来るという「再帰性」を経験すると、そこではものすごく「考える」ことになる。当たり前のものが当たり前でなくなると、そこには「考える」ということが発生する。

例えば日本が敗戦に至った戦争は「侵略戦争である」ということが自明の前提になっている人は、そのことについて「考える」ということは出来ないだろう。もしかしたら「侵略戦争でなかった」かもしれないと思うときに、このことに関して「考える」ということが起こってくる。これは、「侵略戦争でない」と結論づけることではない。自明な前提に疑いを抱くという「再帰性」を「考えている」だけだ。

僕も若かった頃は「侵略戦争である」ということに疑いを持ったことはなかった。それはある意味では自明の前提だった。しかし、年をとって、言葉というのは複雑な意味を隠し持っているものだということが分かってくると、「侵略戦争である」ということは単純すぎる結論ではないかという疑いが出てきた。

それは、日中戦争のある一面を取り上げて判断すれば自明の前提のように思えてくるが、明治からの日本の歴史と、その当時の世界の情勢を考えに入れて「考えて」見ると、「侵略戦争でない」面が見えてきたりする。これは、実は弁証法的な考察をすれば、対立物の統一が見えてくるのが当然なのだから、ある意味では当然の考察であるような気もする。だが、自明の前提という意識があると、それを弁証法的に考えるという発想が抜け落ちてしまう。

日本が負けた戦争が「侵略戦争」ではないと考えることは、年をとったために思想が右傾化したのだとも判断されるかも知れない。しかし、対中国の戦争は「侵略戦争」だが、対アメリカの戦争は「侵略戦争ではない」ということは、本多勝一さんでさえ語っていたことだった。単純に「侵略戦争である」ということを自明の前提としていたら、戦争について「考える」ということが出来なくなるのではないかと思う。

「考える」ためには、そこに問題を発見することが必要で、そのためには複雑な側面をよく見て、対立する面を発見するという弁証法的な発想が必要になる。そしてよく考えた上で、その問題に結論を出した場合は、その結論がたとえ自明の前提を持っていたときと同じ結論であろうとも、認識の深さが違っているのではないかと思う。

小泉さんの靖国参拝は間違いだと結論するのも、それが「侵略戦争」を賛美し、日本が軍国主義化するからだということから結論するのは、あまり考えていない単純な結論のように見えてくる。「侵略戦争」とか「軍国主義化」というのは、簡単に結論が出せる問題のようには見えない。それを前提として論理を展開するのは、論理としてはかなり危なさを感じるし、あまりよく考えていないのではないかと思ったりする。

むしろ「侵略戦争」とか「軍国主義化」というものを自明の前提とせずに疑いを持って、これはなかなか結論が出せない難しい事柄だと自覚すると、この結論に乗っかって対立したことを考えるよりも、結論が出ない難しい問題だからこそ、国際的なつきあいでは「手打ち」というものが必要になるのだと発想を展開することが出来るのではないだろうか。これが「考える」ということではないかと思う。

「手打ち」というのは、論理的に正しいかどうかはまだ結論づけられないけれど、とりあえず感情的にある種の合意をして、共に生きていく区切りの気分をつけようというものだと思う。それは気分の問題だから、ある意味では「感情のロジック」だろうと思う。これは、将来的には本当のロジックで問題を片づけなければならないと思うが、現実的な問題処理としては「手打ち」は役に立つと考えられる。

「手打ち」はベタにその内容を受け取れば、それは論理として間違っているだろうと思う。だが、「手打ち」を「手打ち」として理解していれば、それは役に立つ手段として認められるのではないか。そのような手打ちとしての理解をサンフランシスコ講和条約の体制に見れば、首相の靖国参拝は間違いだということになるだろう。これは、よく考えない結論と同じものかも知れないが、考えた末の結論としては、僕は間違っていないと感じている。

mechaさんが「「靖国問題」と「靖国参拝問題」のコメント」で紹介してくれている「記事タイトル:「東京裁判受け入れ国際的約束」:A級戦犯には『結果責任』〜後藤田元官房長官指摘!」の後藤田さんの言葉を読むと、同じような結論が書かれているのを見ることが出来る。

後藤田さんは、日本の戦争を単純に「侵略戦争」だと断罪した人ではないと思う。だからこそ、後藤田さんの結論は、考えに考え抜いた末のものではないかとも感じる。考えるということの具体像がそこからは読みとれるのではないだろうか。

考えるということは、今まで信じていたことを疑うことから始まるから、それはあまり気分のいいものではないかも知れない。でも、その方が真理に近づけると僕は思う。だから、気分的にはよくなくても、それが大事だと思ってやることが出来る。

野矢さんは、

「「考える」っていうのも、結局、ぜんぜん心の状態や心の働きなんかじゃないんだ。」


ということも語っている。これは、僕には感覚的にはよく分かる。僕もそう思う。だから、今度は、このことを具体的に説明出来るかどうかをよく「考えて」見ようと思う。これを「その通り」と思うだけでなく、この中に問題を発見して、その問題を解決する方向で理解することを考えてみようと思う。