リベラルの側の失敗とバックラッシュ


今はやや下火になってきた感じがするが、ちょっと前の一時期にネット上での「サヨ叩き」というものが席巻した時があった。イラクでの人質事件に関連して、人質になった3人を叩く言説がその典型だっただろうか。

そのほとんどは、論理としては全く不当なもので、非難する理由のないところにまでけちをつけて文句を言うためにアラを探す、あるいはアラを作り出して捏造するという感じのものまで見えたものだった。自作自演だというような非難はその際たるものだったかも知れない。

イラク人質事件の3人は、いわゆる左翼系の人々だと言うことで、それだけを理由にして叩かれる対象になったとも考えられる。これは全く不当なことで、根拠ある正当な批判であれば議論をする価値もあるのだが、これらのバッシングはバックラッシュと呼ぶにふさわしい反動ではないかと感じたものだ。

これら根拠のない非難を浴びせる人間たちはかなりの多数に達したものの、彼らは間違っており、その論理的な誤りを指摘すれば、論理としての批判は終わってしまう。そして、根拠のない非難を浴びせるひどい奴らだと言うことで、そのことは片づけられてしまう。しかしそれで批判は全て終わったと決着をつけていいのだろうか。

もしこの批判が、批判として有効性を持つなら、同じように根拠のないバッシングが起こったときに、この経験を参照して失敗を繰り返さないような思考が出来るはずだ。ところが日本社会では、同じようなバッシングが繰り返される。イラク人質事件のような大きな事件にはならなくとも、安田弁護士に対するバッシングなどにも同じような構造を感じたものだ。

頭の悪い連中が根拠のないバッシングをしたという理解は、事の本質を見誤らせるのではないかと思う。たとえ間違ったバッシングであってもそれが現実に存在するのなら、それが発生するだけの状況がどこかに存在していなければならない。それを本当に捉えない限り、同じようなバッシングは繰り返されるだろう。バッシングそのものを正当化するために根拠を求めるのではなく、バッシングが生まれてこないような社会的状況の変革のためにこそ、バッシングを生んだ状況の合理性を求めてみたいと思う。バッシングが生まれるには、それが生まれるだけの根拠がどこかにある。その根拠を探そうという感じだ。

「サヨ叩き」のきっかけのようなものは、マル激での江川達也さんの言葉がヒントになるのではないかと思った。江川さんは、ただ一点で小泉政権を評価すると語っていた。その一点は、他にどんなマイナスがあろうとも、それがあることで他のマイナスを凌駕してしまうほど価値の高いものとして江川さんは評価していた。

それは、小泉政権が、「北朝鮮」の拉致を公式に認めさせたと言うことだった。左翼の嘘を暴いたと言うことが高く評価する点だった。江川さんが左翼の嘘というものに拘るのには理由がある。江川さんは、幕末から明治にかけて日清・日露の戦争について大きな関心を持って考察しているという。ところが、幕末から明治へという歴史をたどっていると、その連続性が途切れて大きな断絶を感じるという。歴史のつながりがどうしてもつじつまが合わなくなるのだそうだ。

特に日本の戦争の歴史について、それが「侵略戦争」であり不正な戦争だったということで考察していくと、明治の頃の日本の発展が合理的に理解出来なくなると言う。日本を指導した人々が、他国を侵略しようと企てた悪人ばかりで、日本の戦争は最初から最後まで悪いことばかりだと考えると歴史のつじつまが合わないと言う感覚を持ったそうだ。

どこかで道を誤ったという転機があるかも知れないが、それまでの連続性が合理的に理解出来るように歴史を構築し直さないと駄目なのではないかと感じていたようだ。だが、その考察を邪魔するような思考として、左翼の「侵略戦争」観というものが立ちはだかっていたようだ。これは、それに反感を抱く人たちが「自虐史観」と呼ぶようなものだ。日本の戦争の歴史は、最初から最後まで「侵略戦争」という単純な見方で済ませるような歴史ではなかったというのが江川さんの見方のようだ。

北朝鮮」に関しても、左翼の主張は、拉致問題は存在しないというものだった。ところが、これが現実に存在するものであることを当の「北朝鮮」自身が認めたのだから、これは衝撃的なことだっただろう。拉致問題に関しては、江川さんが語っていた「左翼の嘘」というものが明らかにされてしまった。そのおかげで、今まで疑いを持たれなかったことの全てが「左翼の嘘」ではないかという空気がいっぺんに生まれてしまったというのが江川さんの解釈だった。

宮台氏が付け加えていたのは「強制連行の嘘」というものだった。それは、左翼の主張として、朝鮮半島から日本へ来た人々のほとんどが強制連行だったというのが嘘だというものだった。強制連行された人々もいただろうが、大部分は自らの意志で来た人々だったというのが宮台氏が語ったことだった。これはなかなか難しい問題だと思う。自らの意志で来た人々も、そうせざるを得なかったのだから強制連行と同じだと主張する人もいるかも知れない。しかし、明確なイメージとしてある、暴力的な形での「強制連行」ではない人々が圧倒的多数だったと、宮台氏は指摘したのだろうと思う。

本国で食えなくなった人々が、外国で一旗揚げようと思って流れていくという現象はよくあるものだ。それらの人々は、本国での貧しさがある人々だから、当然外国へ行っても貧しさからスタートしなければならないだろう。かなり大変な生活になるのは予想出来る。しかし、それが大変だからと言って、強制連行されたことと同じだとは主張しにくい。そのような状況だったかどうかは、僕には今確かめるすべはないけれど、そう言う可能性もあるだろうとは感じる。大部分が強制連行だったとは、今は考えにくい感じがする。

左翼の嘘が暴かれるというのは、リベラルの側の失敗であると思うが、これがバックラッシュのきっかけになりそうだというのは論理的な結論ではないだろうか。リベラルの側は権力を持たない側だから、彼らは失敗が許されていない。常に正しい行動をして、正しさゆえに権威を持つという事実性を積み重ねていかなければならない。

権力のある側は、小泉さんが何度も論理的にメチャクチャなことを言って失敗しても、権力があるがゆえにそれが攻撃されることが少ないという面を持っている。権力を持つ側は、失敗してもそれをごまかすことが出来る。だが、権力のない側は、失敗が命取りになる。

北朝鮮」の拉致問題に関して、それが全く可能性のないものでないのなら、絶対あり得ないというような発言をするのは失敗につながる危険がある。強制連行についても、可能性として、朝鮮半島から来た人の全てが強制連行ではないのだというものが考えられるなら、ほとんどの人が強制連行だというような危険な主張はしない方がいい。

それは、主張としては弱いものになるかも知れないが、権力を持たない側は、危ない主張は控えるという用心深さを持った方がいいのだと思う。その用心深さを持たない、単純思考の人間は、考察の範囲を危ないところにまで広げてしまって、その間違いが暴かれるような所にまで行ってしまうのだろう。仲正さんが語る言葉で言えば、このような左翼が「バカ左翼」と呼ばれる人たちになるのだろうと思う。

ネット上の「サヨ叩き」は、叩く方の不当性と間違いもひどいものだったが、叩かれる原因を作った「バカ左翼」の問題を抜きにしては総括しきれないのではないかと思う。「バカ左翼」が生まれなければ、バックラッシュとしての「サヨ叩き」も生まれなかったのではないだろうか。それでは、何故に「バカ左翼」が生まれるのか。

この「バカ左翼」の問題は、仲正さんが、不当な攻撃を受けていると憤っているように、リベラルを叩く側のいわゆる「ネットウヨ」と呼ばれる人たちの存在と、左翼の中での異端者を叩こうとする「バカ左翼」とは構造的には同じものがあるのではないかと思う。それは、思い込みと偏見によってバッシングをするのであり、正しい論理的な判断で異端者を批判しているのではないという構造を持っている。

三浦つとむさんは、スターリン批判をしたときに左翼陣営で袋だたきにあった。それは、まだスターリンが権威を持っていた時代で、三浦さんの批判が正しいかどうかよりも、スターリンを批判したことそのものがケシカランという理由で叩かれたようだ。三浦さんとしては、権威があるからこそ批判しなければならないと考えたのだった。権威が落ちて誰の目にも間違いが明らかになった後で批判しても仕方がないと思ったのだ。学者の責任として、間違いを確信したら、その時に批判しなければならないという気持ちからの批判だった。

だが、三浦さんの批判を理論的に検討出来ない人たちは、批判したことそのものを問題にして三浦さんを叩くようになった。これは不当な攻撃でありバッシングと呼べるものだ。その行為は「バカ左翼」の行為と呼べるだろうし、リベラルを叩く「バカ右翼」と構造的には同じだろう。

「バカ左翼」と「バカ右翼」によるバッシングは、相対的な多数派がどちらにあるかで叩かれる対象が違ってくるが、現象としては全く同じ構造を持ったものになるだろう。ということは、彼らが多数派にならなければ、不当なバッシングはなくなるということになるだろう。しかし、現実的には彼らが少数派になるということは想像しにくい。これはどうしてだろうか。

これこそは、内田さんが『私家版・ユダヤ文化論』で展開している議論を参考にして考えなければならない事柄ではないかと思う。内田さんは、現実的には決してなくならない不当なユダヤ人迫害が、なぜなくならないのかということを考察している。それは、心がけを変えたり、正しい論理を理解すると言うだけではなくすことが出来ない。非常に根が深いところにその存在の根拠がある。

不当なバッシングは、第三者として外から眺めていて気持ちのいいものではない。関係のない第三者なら、ほとんどの人がそれを嫌うのではないかと思う。しかし、当事者になったとき、攻撃をする側は、自らの正義を疑わずにそれをしていることが多い。それを決して不当だなどとは思っていない。そこにこの問題の根深さがある。かつて板倉聖宣さんは、「いじめは正義から始まる」と語った。いじめをする当事者は、それがいじめという悪い行為だという感覚がなく、むしろ正義を実現していると感じていると言うことだ。

この感覚をもっとよく理解する必要があるのではないかと思う。不当なバッシングを不当だと思わず、むしろ正義だと思わせてしまうものは何なのか。それほど深い恨みの気持ちを生じさせている原因は何なのか。内田さんの本が、そのヒントをくれるだろうか。