差別とバッシングのバックラッシュの論理、あるいは感情のロジック


内田樹さんの『私家版・ユダヤ文化論』では、それが不当であるにもかかわらず現実に発生しているユダヤ人への迫害というものを論じている。それが不当なものであることはほとんど全ての人が同意する。迫害をする人々の根拠となっている論理は、論理として間違っているのだ。しかし、たとえ論理として間違っていようと、感情では差別・バッシングをせずにはいられないと言うものがある。それはなぜかと言うことの解答を求めているのがこの本のテーマだ。

これが、迫害する人間が邪悪だからだという単純な理解が正しいのなら、その邪悪さを非難してそれがいかに間違っているかを理解すればこの迫害は終わるはずだ。しかし、人々がそのような理屈としての理解をしてもその迫害は終わらない。これは不当な差別がいけないことだと頭で理解しても、現実の差別が社会からなくならないという構造とよく似ている。

個人としての判断と社会の現象とが食い違うというのはよくあることだ。板倉聖宣さんは、この食い違いの認識から社会科学への探求が始まると言っていた。肉体的な目でいくら眺めても社会は見えてこない。ノーミソの目で眺めるとき、抽象された姿としての社会がようやく見えてくる。

内田さんはこの本の冒頭で「誰がユダヤ人なのか」と言うことを論じている。差別の対象となるユダヤ人を、ユダヤ人であると判断する根拠がどこにあるかを求めている。差別そのものの直接的な考察に進む前に、差別する対象としてのユダヤ人という概念がどのように形成されるかということを考えている。それは、この中に差別につながる何らかのきっかけがあると考えているのではないかと思う。

内田さんの結論では、ユダヤ人を他の人間から区別するものが見つからないと言うことだ。内田さんは、

「小論において、私が皆さんにご理解願いたいと思っているのは、「ユダヤ人」というのは日本語の既存の語彙には対応するものが存在しない概念であるということ、そして、この概念を理解するためには、私たち自身を骨がらみにしている民族誌的偏見を部分的に解除することが必要であると言うこと、この二点である。」


と語っている。つまり「ユダヤ人」というのは、存在する対象の属性ではないということだ。客観的に存在するものとして認識が捉えることが出来ないものなのだ。客観的存在ではないということは、論理的にはそれは主観的なものであるということになる。主観的なものであるがゆえに、ノーミソの目で見えてくる属性も客観的なものでなく主観的なものになる。それは、それを見たい人間には見えてくるというものになるだろう。

他の人間には見えない属性を、それを見たい人間が、それが見えたと言うことで攻撃をしてくるとしたら、それの不当性はほぼ明らかな感じがする。根拠のない妄想を基にして攻撃をしていることになるからだ。この構造は、ほとんど全ての不当な差別・バッシングに共通するものではないかと思う。バックラッシュが論理的に間違いだと判断されるのも、客観的に存在しない「悪」に対する非難だからだろう。そう理解すれば、バックラッシュの不当性は理解出来る。だが、問題はそれがなぜ発生するかのメカニズムを解明することだ。これはかなり難しいことのように感じる。

ユダヤ人という概念が、現実に存在する対象の概念ではないとすると、その判断がどこから生まれるのかを考えるのは難しい。そこで内田さんは、これを逆方向から攻める戦略を考える。誰がユダヤ人かと言うことを確定するのは難しいので、誰がユダヤ人でないかという外からこれを埋めていこうというわけだ。その判断基準を内田さんはいくつか提出している。次のようなものだ。

ユダヤ人であることで迫害を受けるとき、自分がユダヤ人でないことを証明出来れば、とりあえず現実的な迫害からは逃れられる。もし、ユダヤ人であるということが、客観的な理由から判断されるものであれば、その客観的属性が自分にはないということが証明出来れば、ユダヤ人でないということも証明出来る。これが、誰がユダヤ人でないかということの問題設定ではないかと思う。

これは、誰がユダヤ人であるかという問題と同じくらいに難しい。今はイスラエルという国があるので、イスラエルという国の国民はユダヤ人だと思いたくなるが、これはそう簡単な問題ではないようだ。イスラエルにはユダヤ人でないイスラエル国民というのがいるらしい。また、イスラエルという国以外にもユダヤ人と呼ばれる人たちがいる。ユダヤ人というのは、アメリカ人というような国民名ではないのだ。

ある人間がユダヤ人だという判断も、ユダヤ人でないという判断も、どちらも客観的根拠がない。そうするとやはり論理的には、主観的にその判断がなされると考えるしかない。内田さんは、

「おまえはユダヤ人だ。なぜなら「おまえはユダヤ人だ」と私が宣言したからである。証明終わり。」


と書いている。これが、誰がユダヤ人であるかということの実態ではないかと僕も思う。それは、誰かがその人間をユダヤ人だと思いたいからユダヤ人と呼ばれるという、事実性から導かれているのではないか。なぜユダヤ人なのかは分からないが、そう呼ばれているからユダヤ人なのだ、という感じだろうか。これは感情のロジックそのものだが、不当な差別とバッシングには、このような判断が伴うのではないだろうか。

「サヨ叩き」が華やかだった頃は、僕もサヨの一員だと思われていた時期があった。僕自身は、マルクス主義者の三浦つとむさんを師と仰いでいるところがあるので、左翼的気分を持っていたことは確かだが、組合活動と障害者教育運動に携わっていたくらいで、それだけで左翼だと自覚するのはむしろ気恥ずかしい感じがしていた。

この頃は年をとったせいもあるが保守に魅力を感じて、思想的には右翼的なものに惹かれるところもある。右とか左とか、自分の考えを単純に振り分けることが出来ないのを自分では感じている。ところが「サヨ叩き」をする人間たちは、相手がサヨであるかどうかは証明の必要のない自明の前提のようにしているのではないかと感じる。ユダヤ人の判断と同じように、

<おまえはサヨだ。なぜなら「おまえはサヨだ」と私が宣言したからである。証明終わり。>


という感情のロジックが働いていたのではないかと思われる。このロジックは、そう呼びたい相手をそう呼べるというロジックで、サヨという言葉以外にも、いろいろと便利な言葉として通用しているものがあるのではないかと思う。最近よく語られる「ニート」という言葉も、「ニート」と呼びたい若者を「ニート」と呼べるという便利な言葉になっているのではないだろうか。

内田さんはこのような構造を次のように語っている。

ユダヤ人がユダヤ人であるのは、彼を「ユダヤ人である」と見なす人がいるからであるという命題は、ユダヤ人とはどういうものであるかについて事実認知的な条件を列挙しているのではない。ユダヤ人はその存在を望む人によって遂行的に創造されるであろうと言っているのである。」


ある人をユダヤ人と呼ぶ人は、その人をユダヤ人だと見たい人がそう呼ぶ。それはなぜだろう。ユダヤ人と呼ぶことで、その人を差別的に扱うことの根拠が発生するからではないだろうか。それは妄想的な根拠なのだが、根拠として発生することによって、ある意味では安心して差別が出来るという心性を生むのではないだろうか。

ユダヤ人を差別的に扱いたい人が、差別的な意味を伴うユダヤ人という言葉を使いたくなる。その時にユダヤ人という対象も誕生してしまうという構造を持っているのではないだろうか。かつて板倉さんは、どのような言葉でも差別語として機能をすると語っていた。「東大生」という言葉でも、それを差別的な意味で使いたい人がいれば差別語になるというようなことを語っていた。

差別語として使われる「東大生」は、東大に所属する学生という、対象の属性を事実認知的に捉えた言葉ではない。むしろ、「東大生」の欠点を誇張してその属性にしたような概念として使われる。例えば世間を知らないとか、机上の勉強しかしていないと言うような属性だろうか。それは、そのような属性しか持っていない「東大生」などは現実には存在しないはずなのに、差別語として使われるときは、そのように思いたい人間によって妄想的な「東大生」の像が創造される。

客観的な実体がないにもかかわらず、妄想的な主観を投影した言葉として、差別したい対象を呼ぶという、差別とバッシングの感情のロジックのメカニズムは似たような構造を持っているように感じる。ほとんど全ての不当な差別の発展のメカニズムは、この図式で解釈が可能なような気がする。発展については、これで何とか理解出来そうだ。次なる問題は、このメカニズムが発生するきっかけをつかむことだろうか。どのようにして差別とバッシングの構造が生まれてくるのだろうか。これは、いつの間にか生まれて、生まれた後の現象は捉えることが出来るが、生まれる瞬間を捉えることが難しいというものだ。果たしてそれは解明出来ることなのだろうか。