「考える」と言うことの本質を考える


野矢さんの『はじめて考えるときのように』(PHP文庫)をヒントに「考える」ということを考えてみたい。まずは次の命題から考えてみる。

「「考える」って言うのも、結局、ぜんぜん心の状態や心の働きなんかじゃないんだ。」


この命題は、現象として我々が感じているものと反対のことを言っているような気がする。何かを考えているとき、普通は頭を働かせていると感じているのではないだろうか。そして、その頭とは、心と呼べるようなもののような気もする。しかし、「考える」と言うことをよく考えてみると、それは「状態」や「働き」ではないということだ。これはどういう意味なのだろうか。

野矢さんは、「考える」と言うことはコンピューターには出来ないと言っていた。将来的には出来るようなコンピューターが生まれるかも知れないが、現時点でのコンピューターはそれが出来ていないと判断していた。「状態」や「働き」が「考える」と言うことだったら、それはコンピューターで再現出来そうな気がする。これが「考える」というものではないから、今のコンピューターでは「考える」と言うことがまだ出来ないのだと言えるのではないだろうか。

「状態」は対象の静止面を捉えた概念だと思われる。コンピューターで言えば、情報をメモリにため込む「記憶」というものが「状態」に相当するのではないだろうか。コンピューターの記憶は、スイッチのオンとオフのように、電流が流れるか流れないかという二つの値に対応して、その状態を記憶する。

人間の場合の記憶のメカニズムはもっと複雑だろうが、原理的には同じではないかと思う。何かの情報の形があって、その情報の忠実なコピーを作ることが記憶に相当するだろう。コンピューターの「状態」は、この記憶で全てを語ることが出来るだろうが、人間の場合はもう少し複雑かも知れない。

人間の場合は、記憶の前に認識という「状態」が区別されるかも知れない。記憶としてメモリーにため込むかどうかは分からないが、外界のコピーを反映した形での認識というものを考えることが出来るだろう。これは広い意味では記憶に入れてもいいかも知れない。一時記憶をするメモリーにため込むことが認識であって、それを保持するための記憶装置に書き込むことが本当の記憶と考えてもいいかも知れない。

外界を認識するだけでは「考える」と言うことになっていない、という主張は納得出来るもののように思う。「考える」と言うことは、認識する以上のものが必要な気がする。認識は、外界の表面を確認することで、現象的な理解というものになる。「考える」というのは、その現象面という表を理解するだけではなく、隠された本質という裏を理解すると言うことが含まれているのではないだろうか。

「状態」というのは確かに「考える」と言うことではないと感じる。それでは「働き」の方はどうだろうか。これは静止面ではなく、動的な面を語る言葉だ。情報をただため込むのではなく、情報を加工するという関数の面を持っているものだ。

コンピューターで言えば、これは「計算」に当たるものだろう。コンピューターの計算は、数学的な計算だけにとどまらず、プログラムとして与えられている動作をするものは全て計算と考えていいのではないかと思う。例えば、データとしてある数字が与えられたとき、あらかじめその数字に対応して、日本語の文字(ひらがな・カタカナ・漢字など)をデータとして出力してくるプログラムがあれば、それは単に記憶しているのではなく、数字を文字に加工する「働き」だと考えられる。

これは「考える」と言うことになっていないだろうか。これはかなり微妙な問題だ。野矢さんは、「知っていることを答えるのには考える必要はない」と言うことを語っている。コンピューターの「働き」はまさに「知っていることを答える」ことになっている。あらかじめプログラムされた手順に従って、記憶にためられた情報を探して提出しているだけだ。情報を探して提出するだけというのは「考える」と言うことではないのだろうか。

これは、客観的に証明出来ることではないように僕は思う。「考える」という現象を抽象化し、「考える」と言うことの定義を考えるとき、上のような「働き」を「考える」の中に入れるかどうかは、その定義を設定する人間が、「考える」と言うことの本質をどこに置きたいかということに関わっているのではないだろうか。野矢さんとしては、ため込んでいた記憶をただ吐き出すだけなら、それは「考える」と呼びたくないのだと思う。

コンピューターの場合は、プログラムがなければ、情報の加工という「働き」をさせることが出来ない。だから、今のコンピューターでは、野矢さんが言う意味での「考える」と言うことは出来ない。人間の場合はかなり微妙だ。何かの質問に答えるときに、それは質問というデータを答というデータに加工して、記憶としてため込んだ情報をただ吐き出しているだけなのか、記憶ではない新しい情報が創造されたのかと言うことを区別するのは難しい。

子どもや学生が学校において評価されるときも、それが記憶量の大きさと加工の速さという「働き」の能力で評価されているのか、新たな方向への「考え」の発展が評価されているのかは難しい。ほとんどの場合は記憶量が評価されているとは思うのだが、美術などの芸術的な分野では、技術的な描き方の評価ではないものでは、記憶的な面の評価は難しいと思われるので、そこでは「考える」という側面が評価されているかも知れない。

数学の題材などでも、ほとんど予備知識がいらないが、目の前に与えられたデータを試行錯誤によって加工していきながら解答に近づくというような問題がある。そのような問題を解くときは、知識量という記憶も、今までに習ったアルゴリズムという手順としての「働き」も全く役に立たない。何か分からないけれど一種の発想とでも言うようなもので解答が得られる。しかもその発想は、すぐに思いつくこともあれば、長い間浮かばないこともある。そして、どれくらい時間がかかったかは、発想の素晴らしさとは関係がない。すぐに思いついたものと、うんと長い間考えたものとは、どちらが優れた発想かはなかなか優劣がつけにくい。

野矢さんは、「考える」ということを考えるために、なぞなぞというものを例に出している。「子どもがみんな欲しがる文房具は何だ?」というなぞなぞを野矢さんは提出している。このなぞなぞの答をすでに知っている人は、ここで考えているだろうか。おそらく考えるのは難しいに違いない。答がすぐに情報として出てきてしまって、この問題についていろいろとイメージを展開させることが出来ないだろう。

しかし、このなぞなぞの答を知らない人は、頭の中にいろいろな文房具を思い浮かべて、この答を探すために「考える」のではないだろうか。そして、答が見つかるまで「考えて」いるのではないかと思う。それは、ある時突然、答が見つかって終わる。その答を見つけるためのきっかけは発想と呼ぶことが出来るものではないかと思う。

「考える」ためには発想というものが大事で、間違っているかもしれないけれど、幅広く可能性を探ることが大事なのではないかと思う。アルゴリズムとして手順が分かっているものには発想は必要ない。アルゴリズムを崩し、手順としては確立されていない未知の領域に踏み込むとき発想というものが大きな意味を持ってくる。

これは「働き」というものを幅広く考えれば、頭の「働き」ではないかとも感じる人がいるかもしれない。しかし、これも「働き」の中に入れてしまうと、全く質の違う二つのものが混在することになるので、理論的な扱いが難しくなるのではないかと思う。だから、アルゴリズム的な手順を踏んだ関数的なものは「働き」とし、試行錯誤的な発想に関するものは「考える」と呼んだ方がいいのではないかと思う。

「働き」と「考える」の間には、価値評価的な優劣はないと思う。どっちが優れていると言うことはないだろう。どちらも、それにふさわしい場面で使うことが出来れば充分有効性を発揮する能力だ。むしろ、互いに補い合って問題を解決することが出来ればそれが一番いいのではないかと思う。

数学では、小学校で文章題というのを習うが、中学校ではそれを方程式にして考える。方程式は解答に至るまでのアルゴリズムが確立しているので、ある意味ではほとんど考える必要がなくなってしまう。方程式が使えない小学校の文章題は、かなり頭をひねって立式をしなければ解答が得られない。

これは、中学で習う方程式が上級で、小学校の文章題が低級だというものではない。「考える」対象が違ってくるという見方の方が正しいだろう。小学校の文章題ではそれほど複雑な構造を持った問題を考えることは出来ない。なぜなら、加減乗除の計算をして、問題が表している現象と対応するような構造を発見するには、その問題の全体を把握しなければならないからだ。

代表的な文章題では、植木算とか鶴亀算と呼ばれるものがあるが、それは、植木の本数とその間隔であるとか、鶴と亀の頭の数と足の数であるとか、対象となるものの構造としてあまり多くのものを想定することが出来ない。もっと複雑になってしまうと、その対象の間に成立している均衡関係などの構造が読みとれなくなるからだ。

それに対して、方程式の場合は、どこに量的な等しさがあるかという構造を見るだけですむ。対象の全体像をまずつかんで、そこから問題の解答を考えるという必要がなくなる。考察をすればいい部分を最初から絞り込んでいくことが出来る。それは量的な等しさという面のみで足りる。だから、文章題で扱う対象よりも複雑なものを方程式では考えることが出来る。

鶴亀算などは、連立方程式にすると信じられないくらいに簡単に答が求まる。これは、遠山先生などは、自分の頭の代わりに方程式が考えてくれているのだと比喩的に表現していた。野矢さんの言葉では、方程式は「考える」ことが出来ないので、これはあくまでも比喩的な表現だが、文章題においては考える必要があった部分を、連立方程式ではアルゴリズム的な手順にしてしまったので、その部分においては考える必要がなくなってしまったと解釈するのが正しいだろう。

「考える」と言うことの本質は、未知なる対象に対する試行錯誤というものにあると僕は思う。既知のものに対しては「考える」ことが出来ない。既知のものでも、そこに疑いを持ち、既知の中に未知を発見すれば「考える」対象になるだろう。そういうものは「再帰性」という言葉で語られていたように思う。「再帰性」を理解する人間は、よく「考えて」いるのではないかと思う。

記憶を膨大にして知識の加工をする「働き」は役に立つ。しかし、未知なるものの謎を解く「考える」と言うことの楽しさは、それを味わった人間には忘れられないものになる。宮台氏の凄さは、膨大な知識量があるにもかかわらず、その知識を新たな発想につなげて「考える」と言うことに実に鋭い面を見せてくれることだろう。知識量の大きさが、その発想の豊かさを支えていると言うことがすごいところだと思う。普通の人間は、知識量に寄りかかって、知っていることをただ語るだけで終わる。そこから「考える」所に踏み出せるというのはすごいことだ。知識量のない人間が、それを補うためによく考えるのはたやすいが、知識量のある人間が考えるのはとても難しいと思う。