イラク人質事件の際のバッシング再考


仲正昌樹さんが『なぜ「話」は通じないのか』(晶文社)という本で、イラクの人質事件の際の議論の噛みあわなさを考察している。基本的には、論点のずれがあるにもかかわらず、どちらもそれに気づかず、自分の論点の主張をしているので、議論が噛み合っていないという指摘だ。議論を噛み合わせるには、何を議論しているかというお互いの了解があって、両者がマトモに議論を使えるだけの技術を持っているという基礎がなければならない。そうでないと、「話は通じない」ということになってしまう。

イラクの人質事件で問題なのは、議論が噛み合っていないということもあるが、さらに重要なのは、そこで人質になった3人に不当なバッシングがされたことだ。「自己責任論」という言葉で有名になったものだが、このバッシングは、まともな批判ではなく、根拠のない人格攻撃にまで発展してしまったので不当性が言われていた。

普通は、このような不当なバッシングはそれをする方が間違っており、その不当性を理解出来ないのは頭が悪いからだと思われてしまう。だが、当のバッシングをしていた多くの人々は、それを不当だと考えるまともなロジックよりも、何らかの感情のロジックによってそのようなことをしていたように僕は感じる。その感情のロジックを引き起こした要因は、バッシングされる側にもあったというのが仲正さんの考察だ。

これはうっかりすると、何か仲正さんが暴言を吐いているように短絡して受け取る人がいるかもしれないが、仲正さんは、不当性がないという主張をしているのではない。バッシングをしている側の不当性は充分認めながらも、不当性を持ちながらもそう主張せざるを得ない感情の流れを、その原因がどこにあるかを分析している。

そして、その原因は、人質になった3人自体にはないという主張だ。むしろ、彼らの「応援団」と仲正さんが呼ぶ人々の論理的な間違いにその原因があるという指摘である。ここで誤解してはいけないのは、バッシングされるような原因を作ったから、バッシングされても仕方がないというようなことが仲正さんの主張ではないということだ。むしろ正しい主張がバッシングされるような間違いが起こる可能性というものをよく理解することによって、不当なバッシングを避ける手だてを考えるヒントにしようと言うことだ。

仲正さんの指摘で最も重要なのは、「自己責任論」というものの論点が二項対立的な単純化をされたために、マトモに議論する対象になることなく、議論が発展しなかったという点だ。その二項対立は、しかも本来は対立していないところに無理やり対立を持ち込んだような、論理的な誤りもあるという指摘だ。

そもそもの「自己責任論」の対立は次のようなものから発生した。

  • あえて危険な地域に自らの意志で行くのなら、実際に危険があったときには自己責任を持って欲しい。
  • 人質になった3人は、物見遊山で行ったのではなく、むしろ推奨されるような目的で言ったのであるから、命の危険があるほどの事態においては、国家がその安全を守ることが国家の責任であって、それを個人の自己責任に帰するのはおかしい。

これは、どちらの主張が妥当であるかは難しい問題だろうと思う。自己責任の中身を具体的に深く分析し、それが個人に帰することが妥当であるか、それとも個人を越える責任として、国家がそれを担うことに妥当性があるのか、それを議論しなければならなかっただろう。

このような論点であれば、議論はマトモに噛み合う可能性があっただろうと思う。しかし、国家の側は、自衛隊の派遣などに論理的な無理をしてきたという思いがあったせいだろうか、この議論を避けようとした感じがある。そこで論点をずらしてきたと思うのだが、それに「応援団」の方が見事にはまってしまったのではないかという感じがする。

政府与党の方は、人質になった3人が、反権力的な考え方の持ち主で、国家を非難していたにもかかわらず国家に頼るのはおかしいではないかと、彼らの行動ではなく、考え方という思想の方を非難して、その思想と結びつけて自己責任論を展開してきた。このとき、宮台氏なども指摘していたが、国家に対して忠誠を持つ人間とそうでない人間を差別するということがそもそも、公共性というものに反するのだから、たとえ反権力的な思想を持とうとも、国民という点で差別をしてはいけないと言うことが、公共という観点からは出てくるはずだ。

ところが、自己責任論の展開は、そのような方向には向かわず、彼らの思想が正しいかどうか、彼らの行動が立派かどうかという善悪の二項対立の方向へと向かう。これは、当時のアメリカの国務長官パウエル氏の言葉も影響していたようだ。パウエル氏は、「立派な志を持って、あえて危険に飛び込んだ若者を非難すべきではない」というようなことを語った。これは、「非難すべきではない」と言うことで、たとえ失敗であってもその失敗は尊いものだという意味だと思うのだが、これが人質たちの行動の正しさをパウエル氏でさえ認めているのだと受け取った感じもする。

人質になった3人は、自衛隊イラク派遣に対して反対していたと言うこともあって、この事件で自衛隊イラク派遣の是非というものも論点になった。それは仲正さんが指摘するように、

「たとえ人質の命が危険にさらされても、自衛隊派遣を継続すべき」
「人質の命を危険にさらしてまでも、自衛隊を派遣し続ける価値があるのか」(反語的に、価値はない、つまり自衛隊派遣を継続すべきではないという主張になる)


というような二項対立であれば、議論がマトモに展開出来る可能性があった。この議論は、どちらが正しいかは議論をしてみなければその妥当性が深くは突き止められない。しかし、最初から自衛隊派遣が正しいと思い込んでいたり、それが間違いだと思い込んでいたりすれば、ここに議論の余地はない。いかに相手が間違えているかという主張をするしかないだろう。

ここで「「左」の側は、そういう真っ正面からの切り返し方をしないで」論点をずらす方向へ行ってしまったと、「左」の間違いを仲正さんは指摘する。この「左」が、仲正さんが言うところの「応援団」に当たるものだ。どのように論点をずらしたのか。それは

「「自己責任論の背後には、市場での自由競争に負けた敗者に対して『自己責任だ、しょうがない』と言って切り捨てようとする新自由主義の論理が潜んでいる」といった、いかにもマルクス主義の焼き直しのような批判とか、政府に逆らう人間は、『自己責任だ』といって見殺しにするお上の論理だ」といったタイプの時代がかった人情左翼的な言説で対抗しようとした。」


というようなものだ、と仲正さんは指摘する。このような抽象論は、現実がその抽象論にうまく合致するということを証明しなければならないのだが、それはかなり難しい。結局は、この前提を認める人間が賛同するということになるだろう。つまり、結論がすでに出ている人間が、ご都合主義的に理由を見つけて来るという論理になってしまう。このような論理展開が結果的にバッシングにつながってきたと仲正さんは見ているようだ。次のように分析している。

「左翼陣営が「自己責任」という言葉に飛びついて、その背後の“意図”を深読みし始めたおかげで、政府・与党は「国全体の政策」と「個々の国民の生命」のバランスについての議論を本格的に展開しないで助かったわけだが、「左」の側はそれに全く気づいていないかのように、“自己責任論争”を盛り上げることに貢献した。日本国民の大多数は市場経済を破壊したいとは思っていないはずだし、政府の個別の政策が間違っていると思うことはあっても、政府の存在自体を否定しているわけでもないので、“「自己責任」の前提になっているもの”、つまり「自由主義的な国家」を「左」が本格的に問題にし始めたら、「右」が勝ってしまって当然である。そうやってわざわざ自分たちにとって不利な問題設定をしておいて、「お上に潰される!」と大騒ぎしたがるのは、55年体制の下での「何でも反対野党」のどうしようもない体質である。「国家の安全と市場経済を守る自衛隊」を誇りにする「右」に対して、「危険なボランティアという崇高な目的のために出かけていって人質になった3人」を誇りにする「左」という図式を作れば、どっちが勝つかは目に見えている。「左」の側は、“自己責任”という言葉を拡大解釈しすぎて、自ら、勝ち負けの分かり切った二項対立にはまりこんでしまっただけでなく、人質に対する「バッシング」のきっかけまでも生み出してしまった、ように私には思える。」


現在の日本社会は、すぐにでも破壊・改革しなければならないほど、人々に深刻な問題を突きつけてはいない。それなりに豊かであり、今ある生活を全部壊して新たな社会を作るという要求を持っている人は少ない。そういう意味では、国家を解体しようというような革命的な方向に賛成する人は少ないだろう。もし「左」の側の論理がそこまでエスカレートしていけば、大衆の賛成を獲得するという勝負では負けるだろう。

極端に走った論理的な間違いが、「右」の側にちょうどいい攻撃材料を与えたというのが仲正さんの分析ではないかと思う。攻撃されて当然のような間違った論理を提出したというのがその評価であるように思う。だが、「左」の側には、それが間違いだったという自覚が乏しいようにも感じる。あくまでも自分たちは正しい主張をしていたと思っているのではないだろうか。もしそのように思っているなら、このようなバッシングはまた繰り返されるのではないかと思う。

「左」の側が、このようなエスカレートすることによる間違いに陥るのは、噛み合っていない議論において、その正しさのみを主張するという点もあるのではないだろうか。噛み合っていない議論がどのような原因で噛み合っていないかを、お互いに了解するだけで、極論に走ることはかなり防げるのではないかと思う。

不毛な二項対立がバッシングの背景にあるのではないかという発想は現実の分析としては有効ではないかと思う。また、その不毛な二項対立の原因が、相手の頭の悪さだけにあると考えるのは、それが現実のバッシングにつながったときは再考してみる必要があるのではないだろうか。たとえ相手が間違えているとしても、その間違いに至る過程に、バッシングされる側の論理的な間違いがないかどうかを再考してみるのは悪いことではないと思う。バッシングされる側というのは、権力を持たない側だから、どんなに小さなミスでもそれがバッシングの原因になることがある。どんな小さなミスにも対処するという手だてを高めるために、自分たちのミスを再考するのは役立つと思う。バッシングされる側にも原因があるという発想は、相手の行為を容認するために行うのではなく、どんな小さなミスでも避けられるような高い能力を身につけることが目的だと考えれば、必ずしも暴言だとは言えないのではないかと思う。