「話」が通じるための条件


仲正昌樹さんは、『なぜ「話」は通じないか』という著書で、「話」が通じない例をいくつか書いている。それはたいていは論点がずれているということで理解されるのだが、なぜ論点がずれるかといえば、双方が相手の「話」をよく理解していないことに原因がある。相手の「話」を自分の解釈で理解し、その解釈に対して論点を設定するので、それはお互いに合意が得られていない前提の下に対話をすることになる。

仲正さんはコミュニケージョンの前提として、「相手の話をまず理解すること、少なくとも、理解しようと努力すること」を挙げている。これは、細部に渡って完全な理解をしろということではなく、「相手の話の流れを全体的に理解するということ」と説明している。

細部がわからないと全体が分からないと思っている人がいるかもしれないが、これは状況によるだろう。例えば、方程式の解き方について、そのアルゴリズムの細部に渡って理解がされていなくても、方程式の全体像を理解することは出来る。それは、未知なる定数を、それが等しいという均衡する性質に注目することによって計算しようとするものだ。この抽象だけでは、方程式を理解したとは言えないが、少なくともそこでは何が議論されるかという方向をつかむことは出来る。これが全体的に理解することだろうと思う。

だから、「話」が通じるための条件の一つは、相手の「話」をまず理解するということがあるだろう。しかしこれがなかなか難しい。相手の「話」を全体的に理解するためには、その流れを論理的に理解しなければならないのだが、たいていは我々の感情は、一つの単語に拘って「話」を理解しようとする。なかなか全体の流れに注目するという方向に向かわない。

仲正さんの例では、松本清張の研究会で「中間小説」という言葉に反応して、相手がその言葉で何を表現したいかを理解しようとせず、「中間小説」という言葉を使ったこと自体が松本清張を侮辱していると受け取る人の話が出てくる。これは、差別糾弾運動などでもよく見られる「言葉狩り」と呼ばれるような現象になる。

人々が過剰反応するようなデリケートな内容を含んだ言葉というのは、それを使っただけで、その内容を考えることなく反応する人々がいるので、なかなか通じるような「話」が出来ない。『バックラッシュ』という本で話題になった「ジェンダーフリー」という言葉は、最近の出来事でそのような通じない「話」をもたらす典型的な言葉の一つかも知れない。その内容を考えることなく、「ジェンダーフリー」という言葉そのものに反応してしまう。しかもやっかいなことに、この言葉はまだ誰もが賛成するような確定した意味というものを持っていないようなので、様々な解釈をしてもそれが間違いだと指摘することも難しい。

僕が扱いを失敗した「フェミニズム」という言葉にしてもそうだろう。僕は、この言葉そのものに極論に至る可能性を見ようとしたのだが、そもそも「フェミニズム」という言葉そのものが、そのような検討に耐えるだけの確固とした厳密な意味を持っていなかった。だから、そう思いたければそう思えるだけの定義をしうるという、ご都合主義的な考察が出来るものだった。「フェミニズム」について議論をするには、少なくとも議論をしている相手とは、それが何を指しているかという内容の面での合意をした上で議論をしなければ、「話」は全く通じないものになってしまうだろう。

「話」を通じさせるためには、「話」の流れの全体像をつかまなければならない。そしてその上で、個々に使われている言葉、その中でも特に中心になるような大事な言葉の内容については合意がなければならない。合意をするためには、曖昧に使われている言葉については、その曖昧さをお互いに了解して、曖昧な範囲で議論出来ることと、厳密な定義をしなければ議論出来ないことも区別しなければならない。そのようなことをしてようやく「話」が通じる議論の前提が作られることになる。大変な道のりだ。

このようなことを考えると、個別的な小さなグループでは何とか「話」が通じる条件を作れるかも知れないが、大衆的な幅広い集合体で通じるような「話」をすることは不可能ではないかとも感じてしまう。そうすると、大衆動員で影響を与えるような言説は、論理的に正しいものよりも、やはり感情に訴えかけるものの方が有効だという結論にならざるを得ないのだろうか。

だが、感情に訴えかける言説も、全くのデタラメでは人々は影響されないだろう。それは、ある一方的な視点からの言説には違いないが、その視点から見れば、論理的なつじつまは合うように工夫されている。だから、論理という点で全くデタラメな言説はあり得ないとも言える。問題は、それが一方的な視点での言説に過ぎないということを合意することだ。

内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』によれば、我々のものの見方というものが、完全に自由なニュートラルなものではなく、我々が生きている時代や場所に制約された、ある視点を強く意識せざるを得ない構造を持っていることを構造主義が教えてくれたという。だから、人々の考え方が、それを究極的に考えればどの見方も一方的なものだということは合意可能だとも思えるのだが、まだまだ難しいようだ。世の中の主流を占める多数派は、これが常識で正しいことは絶対だといわんばかりの態度で一方的な見方を押しつけてくる。

かつては知の権威というものがあって、インテリである知識人が、ある程度の知的な常識というものを押しつけていた。それは弊害もあっただろうが、とりあえずはその権威によって得られる共通の前提というものもあった。ところが、マルクス主義の崩壊後、その知の権威もなくなってしまったような気がする。今では、本当に多数派の考え(特にインターネットなどでは)が、ある意味での常識化をしている。これは、考えようによっては民主主義的でもあるのだが、多数決では真理はつかめないので、真理でないものが権威を持って信じられるという現象も起こってしまう。

そして権威になったものは、それに疑問を差し挟むだけで否定されてしまう。やがてそれは議論すること自体がタブーになり、「話」が通じない状況が生まれてくる。現在の時代はなかなかやっかいな時代になったものだと思う。

「話」が通じるような議論をするためには、一定のレベルの思考の技術が必要だが、それでは議論が出来る人は少数派にとどまる。民主主義の時代において、影響を与える多数派をつかむために、何とか一般的なレベルでの考察の技術が高まる方向を考えたいが、現代日本の教育の現状の中ではなかなか難しいものも感じる。知的な技術を持つ人々と、それを放棄してあきらめた人々の断絶があまりにも深い溝を作っているように感じるからだ。

知的な技術として大事なものの一つに、物事は深く追求していけば、どんどん複雑な面が見えてきて、今まで分かっていたと思っていたことに疑問が出てきてある意味ではどんどんわからないことが増えて来るというものがある。知的に考える人は、物事を簡単に理解しないということがある。複雑さをいったん通過した上で、その中で捨てられるものを見出し、複雑さを意識したままの単純さを見出して初めて物事の白黒をつける判断が下せるという段階に来る。

だが、この技術が身に付いていない人は、何が捨てるにふさわしいかが分からないうちに、難しいものを捨てて単純化したものがわかりやすいということで飛びついてしまうことがある。これを仲正さんは二項対立のわかりやすさというもので語っていた。二項対立的な思考というのは、末梢的なものを考察して切り捨てて、本質的なものが残ったあとの二項対立であれば、それは現状を正しく認識したものになる。しかし、その考察がなされず、かえって本質が捨てられて、末梢的なものを残して二項対立させることが起こる。

そのような二項対立はわかりやすさは残るが、全く的はずれな結論を下しても、その論理的な背景がわからなければ、その結論だけを見て「バカな主張をしている」としか思えなくなる。そう言う思いを抱いている人間が、二項対立の陣営の両方にいれば、それは「話」が通じるようになる期待はほとんど持てないだろう。

「話」が通じるための条件として、お互いの「話」を理解するように努力するというものがあったが、これは、二項対立があった場合に非常に難しい。だから、二項対立の解消というものがまず最初に来るべき条件になるかも知れない。だが、これは果たして解消出来るようなものになるだろうか。

二項対立の解消の一つの方向は、それが対立したものではなく、一つが消えてもう一つが勝利するということがあるだろう。これは、対立の一方の側が、自らの間違いを認めて相手の主張を受け入れることになる。この可能性はあまり期待出来ないのではないかと思う。なぜなら、それはお互いが「話」を理解した後に、冷静に考えて、間違えた側が間違いを理解するということになるだろうからだ。つまり、「話」を通じさせるために二項対立を解消しなければならないのに、この二項対立の解消は、「話」が通じた後でなければもたらされないという皮肉なことになっているからだ。

「話」を通じさせるための二項対立の解消は、どちらか一方の消滅というものが期待出来ないので、それを相対化するという方向で図るしかないのではないかと思う。つまり、自分が正しくて相手が間違っていると言うことが絶対的なものではなく、視点を変えれば、その逆も成り立つという視点を獲得したときに、二項対立は消えるのではなく相対化されることになり、相手の主張を理解するきっかけが作られるのではないかと思う。

これもなかなか難しいことだ。たとえ仮定の話ではあっても、相手が正しくて自分が間違えていると思ってみるというのはかなり無理な思考になるだろう。しかし、深刻な二項対立にはそのような面があるのではないだろうか。

僕は、かつては日本の戦争が侵略戦争であることはほぼ確実な真理だと思っていた。しかし、ある視点からは、必ずしもそう見えないという感じが今はしている。「侵略戦争」という概念は、そういう複雑さを持っているものだというのが今の感じ方だ。これは、宮台氏の亜細亜主義の考え方などに影響されたことがあるのだと思うが、一方的な視点を疑うことが出来るようになったので、ある意味では断定的な判断が出来なくなったと言える。侵略戦争でもあり、侵略戦争でもない、という中途半端な言い方になるが、これが正しい弁証法的とらえ方ではないかと感じている。

中国に対する戦争は侵略戦争で、アメリカに対する戦争は侵略戦争ではない、というような割り切った二項対立にも違和感を感じる。中国に対する戦争も、侵略戦争であった面と、そうでなかった面が見えるような気がしている。こんなことを言うと、日本の戦争はアジアの解放に貢献したという右翼的な言い方に近いように思われるかも知れないが、今の僕は、そのような面もあったと考えている。単純に二項対立的に割り切れないと言うのがその思いだ。

二項対立へのとらわれから解放されるのは難しいことだと思う。二項対立による理解は、理解としてはとても分かりやすいからだ。単に疑いの気持ちを持つだけでは二項対立からは逃れられない。どのようにしてそれを相対化出来るのか、その道を論理的に探っていきたいものだと思う。