批判の妥当性


「話」が通じない原因として、相手の言っていることを理解せずに、自分の的はずれな解釈で相手の言説を判断すると言うことがある。このとき、相手の的はずれを指摘する言説の方は、それが妥当性を持っていることをどうやって証明したらいいだろうか。場合によっては、相手の的はずれを指摘する言説の方が実は的はずれだったということがあるかも知れない。

論理の正しさをどう評価するかという問題は、単にディベート的な言い争いで勝ったか負けたかという現象的な理解ではなく、客観的に、マトモに論理が扱える人間だったら誰が見てもそう判断出来るというものでなければならない。そうでないと、相手が黙ってしまえば、言い争いには勝ったという形になるので、それで論理的にも論破出来たのだと思ってしまうかも知れない。だが、それは単に声の大きさと圧力で相手を黙らせただけなのかも知れない。どこに論理の正しさがあるかを、客観的に指摘出来るだろうか。

仲正昌樹さんは『なぜ「話」は通じないのか』という本で、「説得力のある「物語」を組み立てるための基礎教養・訓練が足りない」ことの問題を指摘している。「基礎教養・訓練」を欠いたまま物語を作り上げれば、その物語はどこかでつじつまが合わなくなり、主張が的はずれになると言うことだ。では、「基礎教養・訓練」が足りないという指摘は客観的に出来ることなのか。

仲正さんは「基礎教養・訓練」の一つとして、「歴史」と「物語」の違いを理解することを挙げている。「歴史」というのは、事実として確認出来ることといっていいだろうか。歴史年表に書かれているような事実と思われる。これは客観的な観察から得られるので、その客観性が証明されるなら事実性を信用することが出来る。

それでは「物語」として呼ばれる部分は何か。それは、「歴史」として事実が確認出来なかった部分を埋める想像に当たるものになる。それは記録が残っていないためにどうしても確認出来ない事実を指す場合もあるだろう。あるいは、事実として確認することが原理的に不可能なため想像で埋めるしかない部分もあるだろう。例えば動機に関するものなどは、人間の心の中身を客観的に捉えることは出来ないから、これはどこまでも想像の範囲でしかない。「物語」にせざるを得ないところだ。

この「物語」に説得力があるということは、江川達也さんもマル激の中で語っていたような「つじつまが合う」と言うことにあるのではないだろうか。説得力のない「物語」はどこかでつじつまが合わなくなる。そのような説得力のない「物語」を提出するのは「基礎教養・訓練」が足りないと言えるのではないだろうか。

それでは、「つじつまが合う」かどうかは、誰もが賛成するような客観的な判断として提出することが出来るだろうか。それは論理的な判断として客観性があることを主張出来るだろうか。面白い例として仲正さんはウルトラマンの怪獣との戦いを挙げて考察している。

ウルトラマンと怪獣との戦いは「歴史」ではなく「物語」である。それはフィクションであることがはっきりしている。これは、正しさを主張する言説ではなく、面白さを提供する芸術として作られているので「つじつまが合う」必要はない。だから説得力のある「物語」ではないが、どこに「つじつまの合わなさ」があるかを考えるには面白い例だと思う。

まず指摘出来るのは、ウルトラマンと怪獣が都市部で戦闘を行ったときに、都市部の一部が破壊されるという「物語」の設定がある。ところがこの都市部は、次の週にはちゃんと再生されて何事もなかったようにまた破壊されると言うことが繰り返される。これは「物語」のフィクションとしてはいくらでもそのように設定出来るが、現実に「つじつまを合わせよう」とすれば、一週間では復興しないところがあることも表現しなければならないだろう。

また日本だけに怪獣が連続して現れるという「物語」も、その特殊性を説得するだけの設定がなければやはり「つじつまが合わない」。そこでつじつまを合わせても、日本がそれだけ危ない目に遭っているのであれば、外国から援助があってもいいとも考えられる。このように考えてくると、時間的なつながりや空間的なつながりにおいて、「物語」の面白さを優先させて作られていることがわかる。「つじつま」の方は二の次にされている。

ウルトラマンは本当の「物語」だから、そのような「つじつまが合わない」と言うことがあってもそれを非難されるいわれはない。それが面白くないと言うことであれば批判されるかも知れないが、正しい「歴史」ではないという批判はされないだろう。しかし、「歴史」の穴を埋めるような「物語」に説得力がなかったら、その「つじつまの合わなさ」は「歴史」としては間違いだという批判をされるだろう。

ウルトラマンの問題では、実は「つじつまの合わなさ」にさらに深刻な問題がある。それは動機に関する「物語」の「つじつまの合わなさ」だ。ウルトラマンは、地球の危機を救うという目的で活動している。ウルトラマンが正義のために戦うのは、地球のためという動機があるわけだ。もしこの「物語」が本当だったら、人間がたくさん住んでいる都市で戦闘すると言うことは避けなければならない。都市を破壊して人間を傷つけることは、地球を救うという動機に反するからだ。

もし動機に関しても、「つじつまを合わせる」ならば、「物語」の展開は、都市での戦闘を避けて人がいないところに怪獣を誘い込んでそこで戦闘をしなければならない。もし都市部での戦闘が行われるとしても、やむを得ずそこでやるようになったという「物語」の展開を考えなければならない。そうでなければ説得力がなくなってしまう。ウルトラマンは、正義のためという崇高な動機ではなく、怪獣と戦うことを楽しんでいるとか、自らがヒーローになることに酔うために戦闘をするというような動機の方が説得力を持ってきてしまう。

江川達也さんが語っていた明治以後の日本の歴史における「つじつまの合わなさ」は、江川さん自身は直接語っていなかったが、やはり動機の面にそれを感じていたのではないかと感じる。日本は敗戦までの「歴史」で、領土拡大という方向に突っ走っていったのは、事実として確認出来ると思う。しかし、その領土拡大の動機がどこにあったかというのは、「物語」としてしか語ることが出来ない。

この動機を、指導者たちの私利私欲から来る野心だと解釈すれば、彼らの戦争責任を追及するのは当然だということになる。この「物語」は、歴史の事実と照らし合わせて「つじつまが合う」だろうか。僕は「つじつまの合わなさ」を一つ感じる。それは、アメリカという強大な国を相手に戦争を始めてしまったことだ。もし、私利私欲の追求と言うことであれば、むしろアメリカ相手の戦争は避ける方が「つじつまが合う」のではないかと思えるからだ。

アメリカを相手に戦争をして勝てると思っていた指導者は多くなかったようだ。海軍などは、半年以内で終われば(それは日本が勝つと言うことではなく、講和が成立して戦争が終わると言うこと。つまり何らかの手打ちが出来ればと言うこと)何とか日本は持つだろうが、それ以上の長い戦争になれば危ないと予想していたと、誰かが書いていたのを読んだことがある。

もしアメリカとの戦争に勝てると夢想していたとすれば、「物語」としては、日本の戦争指導者は頭が悪かったと言わざるを得ない。そのように解釈すれば何とか「つじつまが合う」。だが、石原完爾などを深く読み込んだ江川さんは、石原がそのような頭の悪い人間だと言うことに「つじつまの合わない」ものを感じたようだ。石原はものすごく頭がいい人間だと思えるので、もっと深いことを考えていたとしないと「つじつまが合わない」としか感じられない。

動機としての亜細亜主義という「物語」は、それは侵略のためのこじつけの理由で方便にしか過ぎないと言うのが、今までの「歴史」の穴を埋める「物語」だったように思う。それを復権させようと言うのが宮台氏などの発想だが、僕もこの「物語」は一度考えてみる値打ちがあるのではないかと感じている。

「物語」の「つじつまが合わない」という指摘が客観性を持つなら、その「物語」による批判が的はずれだという指摘も客観性を持つだろう。仲正さんは、ある翻訳書に記述されていた「レズ」という言葉が、差別的なニュアンスを含んだ言葉だと言うことで、仲正さん自身がそのような差別性を持った人間だという「物語」で非難されたことがあるそうだ。

これは不当な非難だと、非難する人間の的はずれを仲正さんは指摘している。これは、仲正さんの指摘が正しいのか、非難する人間の指摘の方が正しいのか、客観的に決めることが出来るだろうか。

仲正さんの指摘では、著書の他の部分は「レズ」というような表現ではなく、「レズビアン」というような、差別性を伴わないと承認された表現になっているということだ。つまり、すべてにわたって「レズ」という表現で統一されているのではないと言うことがある。そうすると、何カ所かの「レズ」の表現には差別性があって、他の何カ所かの「レズビアン」という表現には差別性がないといわなければならないが、それは「物語」として「つじつまが合う」のかという指摘が出来る。

実際には、原稿の時点でうっかり省略して「レズ」と書いた部分を、校正の段階で「レズビアン」という表現に直すようにしていたのだが、それがされなかったという誤植の問題であるというのが事実だったようだ。この事実を知らなかった人間が、それを埋めるために、差別性があるという「物語」を作ったと言うことになるだろう。「物語」の「つじつまの合わなさ」とともに、事実誤認という的はずれもあったというわけだ。

このような事実は著者に問い合わせればすぐにわかることで、それをしなかったということは、単語から短絡的に反応した間違いであり、その間違いを間違いとして理解出来なかった「物語」の「つじつま」を考えなかった誤りである。これが、仲正さんが語る「基礎教養・訓練」が欠けていることの一つの具体例になるのではないかと思う。相手の言説を理解するためには、「つじつまが合う」かどうかの判断をするという「基礎教養・訓練」が必要なのだと思う。

僕は誤読というものに強い関心を持っているが、その解釈が誤読であるかどうかは、その解釈という「物語」が「つじつまが合う」かどうかを調べることで、客観的な判断になるのではないかと思えるようになった。そして、誤読であるがゆえに「話」が通じなくなっているのであって、誤読が正しい読み方になれば、「話」が通じる可能性が出てくるのではないかということを考えたいと思う。誤読でない、正しい読み方をした理解の上での批判でなければ、批判の妥当性というものがないだろうと思う。