ゲーム感覚とゲームの理論


若い頃に少しかじったことのある「ゲームの理論」というものを今勉強し直している。宮台真司氏が、この「ゲームの理論」を使って社会の様々な事実に対して言及していることもあって、基本的な考え方をもう一度学びたいと思ったからだ。

「ゲームの理論」というのは数学として学ぶのはけっこう難しい。これは数学の理論である以上、極めて抽象的で、その対象は他の数学と同じように抽象的に定義されたもので、ある意味では現実とのつながりを一応無視して定義や公理にしたがったものとしてまず概念をつかまなければならない。だが「ゲーム」というのは、現実に行われている利得の追求という行動と結びついているため、現実を離れて純粋に抽象的にそのイメージをつかむことが難しい。

数学のような抽象理論の理解が難しいのは、抽象的対象の概念をつかむには、それが具体的存在から抽象(=捨象)されてきた過程を把握して、どんな属性に注目しているのかと言うことを理解しなければならないのだが、いったんそれが理解出来たなら、今度は具体性を排除してその属性のみを対象にして考察しなければいけないところにある。概念の理解に必要だった具体性が、理論の展開においては排除されるところに難しさがある。

最も簡単な数の計算においても、数を抽象するために考えた具体物のイメージが、抽象された数の計算においては消え去ってくれないと、計算を展開するときにそれが邪魔をする。羽仁進さんが書いていたことだっただろうか、「1+1」の計算において、羽仁さんの頭には馬のイメージが出てきてしまって答が出なくなっていたと言うことを語っていた。

馬というのはかなり神経質な動物だそうで、他の馬と一緒になるとうまくいかないことがしばしばあるそうだ。だから「1+1」がいつも2になるとは限らなくなる。馬が好きだった羽仁少年は、馬のことを考えると足し算が出来なくなったそうだ。足し算をするときには、大好きな馬のことを忘れて、無味乾燥とも思えるような抽象的存在である数を扱うという思考にシフトしなければならない。

数学というのは、このように感情を排して抽象的対象を扱うところがあるので、文学系の人々(感性を大事にする人々)にとってはあまり好みではない学問かも知れない。対象の一面のみを問題にして、他の面は全て捨て去って考察するのが数学と言ってもいいだろうか。だから、数学の捨て去った他の面が気になる人は、数学が語る結論に違和感を感じてそれに馴染めないと言うことが起こるかも知れない。

「ゲームの理論」に対する難しさを、僕はそのようなものに感じた。ゲームというのがあまりにも現実的すぎて、それを抽象的対象として受け入れることに難しさを感じる。どうしても、現実のゲームのイメージが頭に浮かんできてしまって、数学としての「ゲームの理論」の結論が受け入れがたいと思ってしまう。

「ゲームの理論」では有名な「囚人のジレンマ」という問題がある。これは、共犯の二人の囚人が、自白を選ぶか黙秘を選ぶかというゲームである。なお「ゲームの理論」で言う「ゲーム」というのは、自らの選択で利得を獲得する行動を全て「ゲーム」と呼んでいる。いわゆる日常用語の「ゲーム」とは意味合いが違う。これも抽象化された対象を扱う数学ならではのイメージだろう。

「ゲームの理論」の「ゲーム」にとっては、自らの選択で選んだ結果として利得を獲得出来るかどうかが大事なことになる。だから、さいころを投げて偶然出た結果に対して何か利得が得られるというような問題は「ゲームの理論」の対象ではなくなる。それは確率論で扱うような対象になる。

さて「囚人のジレンマ」というゲームでは、二人の行動に対して、利得としてはどの程度の罰が与えられるかと言うことで提出されている。二人とも黙秘をすれば、証拠不十分ということで懲役1年という結果が出る。だが、一人が自白して一人が黙秘していると、自白した方の証拠で、黙秘している囚人は5年の刑を言い渡される。自白した方は情状酌量をされて罪には問われない。懲役は0年ということになる。

両方とも自白したときは、それぞれ証拠が挙がるので、黙秘したときよりも懲役は長くなるが、自白したことの情状酌量で懲役3年ということになる。この設定は、現実的には妥当性があると思われる。この設定の時、自白か黙秘か、どちらを選択することが、もっとも利得を最大化出来る有利な選択となるかを考えるのが「ゲームの理論」と言うことになる。

この選択は現実には難しい。自分が自白して相手が黙秘しているのが、利得としては最も大きいと考えられるが、そう都合良く行くとは限らない。相手との信頼関係というものもあるだろう。相手が黙秘をするということは自分を信頼していると言うことになる。その時に自白をすれば、自分は相手を裏切ることになる。裏切りが最大の利得になるということで、この選択の難しさを「ジレンマ」と呼んでいるのだろう。

この選択を「ゲームの理論」で考えると、裏切ることが正しいという結論になる。何とも冷たい結論で、抽象論の冷たさというものがよく出ている結果だろう。しかし、具体的な属性を捨象して、抽象的な定義や公理を設定して、演繹的な推論で考えると、こう結論せざるを得なくなる。その定義や公理を認める限りでは、この冷たい結論を受け入れなければならないのだ。

「ゲームの理論」では、前提として相手がどの選択をするかは分からない状況で自分の選択を選ぶ。これは当然のことだろう。相手が自白するか黙秘するかがわかっていれば、自分の方は何を選択するかはそれで決まってきてしまうからだ。「ゲームの理論」で考える必要がなくなる。

相手の選択を事前に知るというのは情報活動であり、スパイ活動ということになるだろう。ゲームに勝つには、それが一番手っ取り早くしかも確実なので、国家的な規模でスパイ活動に力を入れるというのは論理的には頷けることだ。それがどんなに倫理にもとることであっても、ゲームに勝つことを目的にすればそれは肯定される。

そのスパイ活動がうまくいかないときでも、相手のあらゆる選択に対して、こちらが最善の選択をすることが出来ないかということを考えるのが「ゲームの理論」と言うことになる。それでは「ゲームの理論」が考える最善の選択とはどういうものか。それは、相手がどのような選択をしようとも、その被害(マイナスの利得が最も少ない選択)が最小になるような選択をするというものになる。また、その時相手の選択が何であっても、利得として最高になればそれは最適解というものになる。

一番プラスが大きくなる選択というのは、とてもうまい手でありラッキーなものとなるが、そんなうまい手が簡単に手に入るとは考えないのが「ゲームの理論」と言うことになるだろうか。とりあえずは損害を最小に抑えておく手を考えて、それよりも利得が増えればラッキーだと考えると言うことになる。この前提を受け入れるなら、「囚人のジレンマ」においては、相手を裏切る自白が最善の選択になる。

黙秘をした場合、相手も黙秘をすれば懲役1年ですむが、相手が裏切って自白した場合は懲役5年ということになり、この場合のマイナスは5という利得になる。相手の出方がわからない以上、最悪のケースを想定するというのが「ゲームの理論」になる。

自白した場合は、相手が黙秘をすれば自分は懲役0年になる。相手が自白した場合は懲役3年ということになり、最悪のケースはマイナスが3と言うことになる。黙秘した場合と、自白した場合の最悪のケースを比較すると、自白した場合の方がまだましと言うことになる。相手の出方がわからない以上、こちらの方を選択した方が利得が高いと判断出来る。

この場合自白を選ぶことは最適解にもなっている。なぜなら、相手が黙秘したときに自分が自白をすれば、懲役は0年であり、黙秘したときの懲役1年よりも得になるからだ。また相手が自白した場合には、自分が黙秘すれば懲役5年だが、自白していれば懲役3年ですむ。この場合も、自白した方が自分には得になる。

自白するという選択をすることは、マイナスの利得も最小限に抑えられるし、相手のどの選択に対しても利得としては最高のものが得られる。相手の出方がわからないときは、この選択をすることがもっとも有利なのだ。それを納得するように説明することが「ゲームの理論」だと言えるだろうか。

二人の囚人の場合、それが共犯であるなら、もしかしたらある程度の信頼関係があるかも知れない。そうなると、相手の出方が全くわからないという状況ではなく、信頼をするという前提で黙秘する可能性もある。現実には、「ゲームの理論」の前提が必ずしも満たされない場合も出てくるだろう。しかし、追求する側がこの信頼関係を崩せば、この「ゲームの理論」の前提が設定され、囚人は自白するという方向へ行くかもしれない。そうであればこの理論は現実にも有効性を持つことになるだろう。

この「囚人のジレンマ」が気になるのは、同じような考え方で、「ゲームの理論」の創設者である数学者のフォン・ノイマンが、ソビエトとの核競争において、相手を裏切る行為である核兵器の使用を先に行うことが理論的に正しいと主張したらしいと言うことだ。黙秘を核兵器の未使用に、自白を核兵器の使用に対応させると、確かに「囚人のジレンマ」と同じような状況が生まれるような感じもする。

そうすると、「囚人のジレンマ」において相手を裏切る自白という戦略が正しかったように、核競争においても先に使う方が戦略としては正しいのかと思いたくもなってくる。だが、これは本当に、その現実がうまく「ゲームの理論」の抽象に当てはまっているのかとても躊躇する判断になるだろう。その決定が間違っていたら取り返しのつかないことになるからだ。

核兵器の使用は、フォン・ノイマンだけでなくバートランド・ラッセルも主張したらしい。当時の一流の論理の使い手であるラッセルが、論理的な結論としてそう主張したらしいのだ。しかし実際には核兵器が使われることはなかった。それは世界にとっては幸いなことだったと思う。

「ゲームの理論」という抽象論で核兵器の使用という結論を出すのは、いくつかの前提から論理的に導かれたものになるだろう。しかし、核兵器の使用を思いとどまらせたのは、それを使用すれば実際には被害を受ける誰かがいるという、痛みの感覚を当事者として感じる感性の方が、理論の結論を拒否したのではないだろうか。

冷たい論理の結論を受け入れるというのは、ある種の「ゲーム感覚」ではないかと思う。これは論理的な正しさというものを考える上では大切なことである。しかし、現実の行動の選択においては、これと当事者感覚とのバランスをとることが大事なのではないかと思う。ゲームの選択としては間違っていても、あえて不利益を選ぶこともあるというのが現実であり、人間の判断かも知れない。

タイタニックが沈んだとき、愛する女性が生き延びる方を選択して、あえて不利益である海に沈む方を選んだディカプリオ演じる青年の選択は、「ゲームの理論」としては間違っていたかもしれない。だが人間的という文学的な表現の選択としては正しかったのではないかと思う。だからこそ多くの人が感動したのだろう。ゲームとしての選択と現実の選択のバランスを、「ゲームの理論」を肯定しながらも、その不条理を受け入れる方向で考えてみたいものだ。