陰謀論の誘惑


ユダヤ人に対する偏見の中で、世界的な規模で陰謀を進めているという「ユダヤ陰謀論」というものがある。これはその内容を詳細に検討すれば、荒唐無稽なデタラメであることがわかることが多い。だから、陰謀論というのは多くの場合、根拠のない妄想だと言われることが多いのではないかと思う。

陰謀論そのものの根拠は妄想に違いないと思うが、それが現実に生まれて来るというのは、現実性を帯びていることでの論理的整合性がどこかにあるはずだ。つまり、陰謀論という「論」には根拠がないが、それを信じてしまう人が信じたいと思うような心理的な側面には、それが生まれてくる根拠が見出せると思う。

一つの根拠は不安というものがあるだろう。不安を抱いている人間は、何が原因で不安が生まれてくるのかが正確にはわからない。それが正確にわかってしまえば不安という状態は消える。不安であるのは、何かわからないが自分にとって悪いことが起きているという感じだけはあるという状態だ。

その悪いことが起きているのが誰かのせいに出来れば、不安はその時点で一応の解消をする。人々の不安がもっとも高まったときに、デタラメな根拠であっても陰謀論が人々を捉えるという現象が起こるのではないだろうか。

911のニューヨークテロからちょうど5年がたつと言うことで、マスコミの報道などでそれがかなり取り上げられている。この事件が起きて、そのテロにつながるものとして、イラクがテロリストを支援している黒幕で、諸悪の根元はイラクであるというような「陰謀論」を多くの人が信じた。しかし、その陰謀論の根拠であった大量破壊兵器も、イラクアルカイダとのつながりも証明されず、それが事実無根のデタラメであったことが発表されている。

さらに911のニューヨークテロは、もう一つの陰謀論の方にも向かっているようだ。それはアルカイダが起こしたものでもなく、実は何かアメリカの中の権力の陰謀であるかのごとく語られてもいるようだ。陰謀論というのは実に魅力的なものなんだろう。

ユダヤ陰謀論」というのも、人々の生活が苦しくなり、社会的な不安感情というものが蔓延したときに出てくるようだ。そのような状態を作り出した原因がどこにあるかはなかなか正確にはわからない。誰がそのようにしているのか、という誰かのせいであることがわかれば、わからないことから来る不安は解消出来る。不安の解消を求めることから陰謀論を求めるという感情が生まれてくるのは整合的だと感じる。

ユダヤ陰謀論というのは、ユダヤ人に対する偏見の一つではあるが、これは別の側面から見れば、ユダヤ人が高い能力を持った人々であると見ていることでもある。陰謀を計画出来る人間は、決して弱者ではない。それは権力を握ってはいるが表には出てこない卑怯な人間としてイメージされている。権力を握っているほどの高い能力を持っていると言うことは前提とされている。

ユダヤ陰謀論というのは、ユダヤ人に対する憧れと妬みという複雑な感情が入り交じっているようだ。実力がありながらも、自分は虐げられていて、実力が正しく評価されていないと感じる人は、たとえ陰謀を計画していても高い実力を発揮したユダヤ人にある種の憧れを抱く。内田樹さんの『私家版・ユダヤ文化論』によれば、日本人の中にも、同じ祖先を持っているという「日猶同祖論」というものがあったそうだ。西欧先進国の中に、唯一アジアの国として競争に参加していった日本は、実力がありながらも異端者として虐げられているという感情は持ちやすかったのではないかと思う。

妬みの感情というのは、差別感から来るものだろう。本来は自分たちより下の存在であるはずなのに、実力が自分たちより上なのはケシカランというような感情だ。しかしこれはよく考えてみれば、虐げられている存在だからこそ、そのような状態からはい上がるためには普通以上の実力を身につけなければならないという動機が働いて、結果的に高い能力を身につけるとも考えられる。むしろ虐げられているからこそ(下の存在だと思われているからこそ)高い実力があるというのは整合的に理解出来る。

陰謀論を信じるという感情的な根拠は上のようにいくつか整合的に理解出来るものがある。今度は、この陰謀論を唱える人々への理解を考えたいと思うが、デタラメで感情的な陰謀論を信じる人などというのは、人格的にもよほどひどい人間ではないかと思いたくなってくるかも知れない。しかし、これは陰謀論を信じる人が感情的に物事を判断しているのと同じレベルで、そう判断する人も感情のロジックにとらわれているのではないかと思う。

内田さんは、前出の本の中で次のように語っている。ちょっと長いのだがとても感銘を受けた部分なので引用しておきたい。

「私は若い頃、19世紀フランスにおける反ユダヤ主義のことをかなり長期に渡って調べていたことがあった。代表的な論客の何人かについては、その著作をかなり熱心に読んだ。そして、私は彼らの多くが、あまり知的ではないけれど魅力的な人間であるということを知って驚倒した。読んでいて「ああ、いいやつだな」と思って、少し「じん」としてしまうということが何度もあった。

私がそれまで読んできた反ユダヤ主義に関する歴史書では(そのほとんどがユダヤ人の歴史家の手によるものであるせいもあって)、反ユダヤ主義者が「人間的にわりといいやつ」であるというような記述はあり得なかった。彼らは知性のかけらもなく、邪悪にして非道の人物として描き出されていた。もちろん、あれだけ長期に渡ってあれだけ非人道的な迫害を正当化してきた人間について、そのような政治的評価が適切であることに私は全く反対しない。

けれども、私がここで問題にしたいのは、むしろ彼らがそれにもかかわらず「いいやつ」だったという背理の方である。

生来邪悪な人間や暴力的な人間や過度に利己的な人間ばかりが反ユダヤ主義者になるというのなら、ある意味で私たちも気楽である。そんな人間なら比較的簡単にスクリーニングすることが出来るからだ。その種の「悪人」だけに警戒の目を向けていれば破局は回避されるだろう。

しかし、私が反ユダヤ主義者の著作を繙読(はんどく)して知ったのは、この著者たちは必ずしも邪悪な人間や利己的な人間ばかりではないということであった。むしろ、信仰に篤く、博識で、公正で、不義を激しく憎み、机上の空論を嫌い、戦いの現場に赴き、その拳に思想の全重量をかけることをためらわない「オス度」の高い人間がしばしば最悪の反ユダヤ主義者になった。

単純な「反ユダヤ主義者=人間の皮をかぶった悪魔」説に寄りかかっていれば、確かに歴史記述は簡単になる。しかし、そこにとどまっていては、今も存在し、これからも存在し続けるはずの、人種差別や民族差別やジェノサイドの災禍を食い止めることは出来ない。

反ユダヤ主義者の中には善意の人間が多数含まれていた」という前提を平明な事実として受け入れて、そこから「善意の人間が大量虐殺に同意することになるのはどのような理路をたどってか」を問うことの方が、「大量虐殺に同意するような人間は人間以下の存在である」と切り捨てて忘れてしまうよりも思想史研究の課題としては生産的だろう。

反ユダヤ主義者のことを考えるとき、靖国神社に祀られているA級戦犯のことを連想することがある。東条英機以下の戦犯たちを「極悪人」であると決めつけてことを終わりにする人々に私は与しない。また、彼らの個人的な資質や事績の卓越を論って、「こんなに立派な人物だったのだから、その遺霊は顕彰されて当然だ」と主張する人々にも与しない。むしろ、どうして「そのように『立派な人間』たちが彼らの愛する国に破滅的な災厄をもたらすことになったのか?」という問いの方に私は興味を抱く。

彼が善意であることも無私無欲であることも頭脳明晰であることも彼が致死的な政治的失策を犯すことを妨げなかった。この痛切な事実からこそ私たちは始めるべきではないか。そこから始めて、善意や無私や知力とは無関係のところで活発に機能しているある種の「政治的傾向」を解明することを優先的に配慮すべきではないか。私はそのように考えるのである。」


悪いやつが悪いことをするという「物語」は一見つじつまが合っているように感じる。しかし、そのような悪いやつがしたことをよく反省するなら、事前に悪いやつが見破れてもいいはずなのだが、その人間が悪いやつだとわかるのは、いつでもひどい被害が起こるという事実を見てからのことだ。人間というのは、何度間違いを繰り返してもそこから学ぶことが出来ないほど頭の悪い存在なのだろうか。

悪いやつが悪いことをするというのは、実はつじつまが合わない「物語」ではないのだろうか。もっとも上手な詐欺師は、相手をまず信用させておいて、その信用の上で最後に一つ大きな嘘をつくという手口を使うらしい。我々がひどい目に遭うのは、ひどい目に遭う寸前まで、それを行う人間が「いいやつ」だと思っているからではないだろうか。そして、それは実に「いいやつ」に見えるというのが現実の姿なのではないだろうか。

この「いいやつ」が詐欺師のように騙しているのなら「陰謀論」は正しくなるのだろう。しかし、現実の理解の難しさは、いくら頭がよくて「いいやつ」であっても深刻な間違いを犯すことがあるということの現れではないんだろうか。「陰謀論」は、多くの場合、騙すつもりはなくて良かれと思ったことが反対の結果に結びつてしまったと言うことなのではないかと思う。

多くの「陰謀論」では、結果的に悪いことが起きてから、その悪いことの原因としての陰謀を探し求める。そして、それを見つけたことで安心して不安を解消しようとする。しかし、それはいつも結果からの思考によるものなので、悪いことが起こったあとに考えることになる。悪いことが起こる前に、いかにも「いいやつ」のように見えるのに、それに疑いを持つことが難しくなる。だが、どんなに「いいやつ」でも間違いをするということこそ、我々が深く学ばなければならないことなのではないだろうか。

悪いことをするやつは悪いやつであって欲しいという願望が、陰謀論への誘惑をしてくるように感じる。しかし、いいやつが行う悪いことの方がずっと深刻な悪いことになるという背理を我々は受け止めなければならないのではないかと思う。板倉聖宣さんは「いじめは正義から起こる」と語った。もっとも深刻ないじめは、いいやつが大勢集まってやるからこそ悲惨で深刻になるのではないかと思う。いいやつだって悪いことをすると言うことを理解することは、自分の中の悪を自覚することでもあるのではないかと思う。