反ユダヤ主義者の善意 その2


内田樹さんが『私家版・ユダヤ文化論』で紹介するもう一人の反ユダヤ主義者はモレス侯爵と呼ばれる人物だ。モレス侯爵は「世界最初のファシスト」とも言われているそうだ。モレス侯爵の人格的特徴は、「冒険的・暴力的な男性イコンへの偏愛」と内田さんは表現している。おそらくこの特徴がファシスト的なものへつながっていくのだろうと思うが、これは男にとってはかなり魅力的なものでもあるというのが重要なことだろう。

ファシスト的なものが、その存在を歴史的に振り返って反省してみれば非難されるべきものがたくさんあるにもかかわらず、それが時代を席巻した当時は、どうしてそれほどの熱狂を持って迎え入れられたのか、冷静な論理分析の視点ではなかなかわからないところがあるのではないか。論理的には間違っていると思われることが、感情的にはそれに大きく惹きつけられると言うことをどのように整合的に理解するかと言うことが必要だ。

モレス侯爵にはドリュモンのような思想性も学問性もほとんどないと内田さんは語る。ドリュモンの全てはその人格的な魅力だけなのだが、それは次のような行動にうかがえる。

「ノース・ダコタでモレス侯爵が起業した食肉ビジネスは、牧畜から輸送までのプロセスに中間業者を入れず生産者と消費者を直結することで高品質低価格の牛肉を提供することを目指していた。これは食肉の流通を支配し、価格を操作していた鉄道会社と食肉業者に対する野心的な挑戦であった。モレス侯爵自身はこの戦いにおいて、農民の側に立って、「悪徳商人」たちの収奪に抗する「勇敢で寛大な騎士」におのれを擬していた。私利私欲のためではなく、貧しい農民を搾取から救うために戦ったあげくに、団結した資本家たちの策謀によって破産に追いつめられた不運な騎士として破産の自己史を総括したときに、モレスは19世紀的な(やや歪んだ)意味での「社会主義者」になっていた。」


と内田さんは書いている。モレス侯爵は、妻の故国であるアメリカで、誇り高い志から理想的なビジネスを起こそうとして失敗した。それは、自らの利益よりも、搾取されている農民の財産を農民自身に返し、同時に消費者にも利益になるような公共性を持った事業だった。

その事業が失敗したのは、価格を操作して、他人の犠牲の上に自己の利益を積み重ねている「悪徳商人」たちの妨害によるものだ。これは単純なとらえ方ではあるが、正義を愛する人にはなかなか魅力的な行動に映るのではないだろうか。だが現実は理想どおりに行くとは限らない。

現実はもっと複雑な面を持っていて、泥棒にも三分の理があるということわざどおりに、「悪徳商人」の側にも、自分たちの利益を擁護するだけの理屈があるだろうし、実際に利益を守る力を彼らは有している。だから、理屈で正しいと思えるようなことでも、現実的にそれを実現する力がなければ空理空論になってしまう。

モレス侯爵の魅力のもう一つの点は、この理想を実現するために、現実的な力をふるおうとしたことである。この魅力は、映画の中のヒーローに重なるような魅力になるだろう。いかにも悪役のように見える敵が、その理不尽な仕打ちを力を笠に着て押しつけてくるとき、我慢に我慢を重ねてきたヒーローが、理不尽な力を粉砕するようなもっと大きな力をふるう。この力は、冷静に考えてみれば、理不尽な力とよく似た暴力的な力なのだが、ヒーローがそれをふるえばそれが正当化される。

盗聴やスパイ行為というのは、悪人がそれを利用すれば卑怯な方法になるが、悪人を取り締まる正義の側がそれを使えば、法的に認められた正当なやり方にもなってくる。誰が正義かというイメージは、同じようなことをしても、人々がそれを正当だと認めるかどうかが違ってくる。

このモレス侯爵のイメージと小泉総理のイメージが僕には重なって見える。小泉さんは、私益を追求して談合する「悪徳商人」を厳しく摘発して正義を実現するヒーローになった。普通ならもっと低い価格で発注出来る公共事業を、談合することによって高い価格で請け負い、それを談合した身内で分配することで利益を分け合ってきた。これは税金の無駄遣いであり、不正な利益である。この悪を破壊するというのは極めて分かりやすい善だ。

しかし、世の中はそれほど単純ではない。談合する側の三分の理は次のようなものだ。もし正当な競争によって、正当な価格で発注されるようになれば、利益を受けられない弱い会社は淘汰されていかなければならない。そうなれば、社会的には失業者が増えて、社会不安が増大してしまう。私利私欲で談合しているように見えるが、それは一部の会社だけが儲けているのではなく、業界の存続と社会的な不安の増大を抑えるという公共性も持っている。というのが三分の理になるだろう。

小泉さんが政治家として本当に有能な人間なら、見えやすい悪を破壊するという正義のヒーローを演じるだけではなく、根源的な問題の解決にも一歩踏み込むべきなのだが、それはほとんどの場面で行われなかった。やられたのは、分かりやすいヒロイックな行動だけだった。

モレス侯爵にも深い考えはなく、相手よりも強い力で粉砕してしまえば理想は実現出来ると単純に考えていたような所がある。実際にモレス侯爵が失敗し、小泉さんが成功したのは、どれだけ強大な力を持っていたかに違いがあっただけのような気がする。モレス侯爵の失敗が残念なものだったのか、小泉さんの成功がいいものだったのかは評価が難しい。小泉さんは成功したために、本質的な問題を覆い隠して、将来に禍根を残すような破局の原因を温存したのではないかとも考えられるからだ。

小泉さんの大衆的な人気というのを実感として受け止めると、モレス侯爵の魅力というのもやはり似たようなものがあるのではないかと感じられる。モレス侯爵は、粗野で乱暴なだけのようにも見えるが、私利私欲が感じられない分、素朴で実直なヒーローの香りもする。深い考えがなく、思いつきで物事を進めるように見える小泉さんが、断固として決然的に物事を判断していく姿が、強くて立派な指導者に見えることと、これも重なってくるような感じがする。小泉さんという人も、政治家には珍しく私利私欲とは無縁の人らしい。

小泉さんは日本の最高権力者であるから、ほぼ思い通りに自分のやりたいことを進めてきたように思う。だが、モレス侯爵はそれほどの権力を握ったわけではないので、人生の行く先々で失敗をしたようだ。ビジネスの失敗もあるし、後に政治的な活動をしたときも多くの失敗をしている。

ビジネスの失敗においては、もっと金と力のある人間たちの妨害によって失敗している。政治においても失敗の原因は金と絡んでいたようだ。内田さんによれば、「4月のパリの市議選挙にドリュモン共々出馬したときに、モレスがユダヤ人商人アルチュール・メイエルから5000フランの選挙資金の供与を受けいていたことが暴露され」政治的に失脚することになる。

正義が悪によって迫害されるという図式は、陰謀論に到達するまではもう少しだという感じがする。悪というのは、そこに三分の理があるというのを考えれば、必ずしも悪ではない部分もあるのだが、自分たちが迫害されているという被害者意識が強いと、力を持った悪が理不尽なことをしているというイメージがふくらんでくるだろう。その悪がはびこっているのは、対抗する力がないせいだということも浮かんでくる。このような気分が多くの人に蔓延してくると、力を持った正義のヒーローに人々の心が集まると言うことが起こってくるだろう。

モレス侯爵は、その力を象徴するような面を多く持っていたようだ。この力の象徴で人心をつかむという面が、ファシストと呼ばれるような特徴につながっているようだ。内田さんは次のように書いている。

「モレスは大衆動員に必要な政治的インパクトは、綱領の整合性や党派の組織性よりもむしろ活動形態の情緒的・審美的喚起力にあることを洞察していた。彼は団員たちにイデオロギー的な一致を必ずしも求めなかったが、制服の統一はこれを厳命した。ソンブレロと紫色のカウボーイ・シャツ、それがモレス盟友団の団員が着用を命じられた制服である。それは「筋骨たくましい団員たちに、ある種の集団帰属意識をもたらした」のである。近代の政治扇動家の中で、「制服」と「筋肉」の審美的インパクトを利用することを着想した点で、モレスはおそらく最初の人である。この炯眼においてモレスはムッソリーニヒトラーの先駆者である。」


モレス侯爵の思想性の低さには、僕は全くリスペクト感は感じないものの、力の象徴が魅力あるものであることは理解出来る。これは大部分の男が感じるものではないかとも思う。それを指摘して、男が持っている社会的な優位性からもたらされる意識だと簡単に片づけるのは、単純すぎる見方ではないかと思う。男は力が強いから、強い力に魅力を感じるというものではない。

たとえどんなに強い力を持っていても、それが映画の中の悪役のように、いかにも理不尽な力を持っている人物なら、その力にはほとんど魅力を感じない。男が素朴に魅力を感じる力というのは、悪を粉砕するヒーローの力だと信じるからこそ力を信仰するのである。もっと深く考えれば、悪を粉砕するヒーローの力などというものが素朴に存在するはずはないと言うことが分かる。だからそういう過程を経れば、力への信仰が弱まっていくことは確かだ。しかし、そうでなければ力への信仰は強いものになるだろう。

社会主義国家の独裁者たちが、社会主義の崩壊とともに処刑されたとき、彼らの悪行というものがたくさん語られ、それを倒す正義の力の正しさもまた多く語られた。その時、板倉聖宣さんは、社会主義国家の独裁者たちも、その最初は民衆からの支持を得て出てきたヒーローだったのではないかということを言っていた。ファシズムの間違いは、それを体現する人間の間違いや悪に還元することで本質を理解することは出来ないのではないかと思う。むしろ、間違ったことをした人間が、その最初の時点では非常に魅力ある人間だったということを理解することが本質の理解になるのではないかと思う。最後に非常に含蓄の深い内田さんの言葉を引用しておこう。

「勘違いして欲しくないが、私は彼らを擁護しているのでも弁明しているのでもない。そうではなくて、彼らは今も生きているという事実、彼らのようなタイプの思考の型に魅惑されてしまう要素が私たちの中に今も息づいているという事実を直視しない限り、「ユダヤ人問題」の本質に接近することは難しい、ほとんど絶望的に難しいということを言いたいだけなのである。」