植草一秀さんの事件について


植草一秀さんが痴漢行為で逮捕されたというニュースがあった。僕は、このニュースにかなり大きな違和感を感じている。ある意味では、つじつまのあわなさを、この「物語」に感じているのだ。逮捕されたというのは「事実」ではあるが、痴漢行為をしたというのはまだ確認されてはいない。それはまだ「事実」の段階に至っていないのだが、マスコミ報道などを見ると、それがあたかも「事実」のように取り扱われているのにまず違和感を感じる。

その傾向が顕著に表れているのは、日刊スポーツの見出しに書かれている「懲りない植草教授、今度は痴漢で逮捕」というような言葉だろう。「懲りない」という表現には、前回の事件も、今回の事件も、明らかに植草さんが犯罪を行ったという前提の下にこの記事を書いていることがうかがえる。

しかし、僕は植草さんが前回の事件においても犯罪行為を行ったというふうに思えないところに、今回の事件のつじつまのあわなさを感じてしまう。前回の事件にも事実におけるつじつまのあわなさを感じていたので、今回また唐突に痴漢行為で逮捕されるという事件が起こると言うことに、なぜだろうという疑問がかなりわいてくる。

前回の手鏡の事件においても、それが現行犯逮捕だと言われているが、事件の状況は植草さんがまさに手鏡で覗いていたところを取り押さえて逮捕したと言うことではないようなのだ。手鏡は、逮捕した後にポケットから出てきたと言うことが事実らしい。「らしい」というのは、植草さんがそう語っていたからだから、それが嘘だという可能性もあるかも知れないが、そうであれば報道や裁判において、それが語られなければならないのだが、そこを具体的に報道した記事は見あたらない。植草さんが語ることには嘘があるかも知れないが、本当かも知れないと言う可能性は同じくらいある。

植草さんが語ることの方が本当だと思うのは、論理的な整合性は植草さんの説明の方が高いからだと僕が感じるからだ。まず、手鏡事件の時に、植草さんを逮捕したのは、たまたまそこに居合わせたその場所の管轄の警察官ではなかったということだ。これは宮台氏も認めていたし、植草さんだけが語っていた事実ではないようだ。裁判記録を調べればそれが事実であることが確認出来るだろう。

その警官は、横浜あたりだっただろうか、そこから植草さんを尾行して現行犯の場面をつかんだらしい。どこかで植草さんが犯罪行為をするのを待って、それで現行犯だとして捕まえたらしいのだ。その警官は、なぜ植草さんが犯罪行為を行うだろうとわかっていたのだろうか。さらにおかしいと感じるのは、その警官は非番だったらしいということだ。非番の警官が、どうして一個人の動向を尾行するほどの使命感を持つのだろうか。

これにつじつまの合う説明をするとしたら、どこかで植草さんを逮捕するきっかけを見つけるために尾行していたと推理するしかないのではないかと思う。他に整合的に説明出来る方法があれば考えてみたいのだが、なかなか思いつかない。

宮台氏が少し語っていたが、植草さんはセーラー服を所持しているとか言うような噂があったように、個人的な趣味としてはいろいろと誤解されるような所があったようだ。宮台氏なんかもセーラー服を持っていると言っていたが、宮台氏などは、そのように開き直ってもあまりイメージを壊さないが、植草さんはある意味では個人的な趣味などは公言するほどのものではないと思っていたのかも知れない。

その個人的な趣味との関連で、どこかでそのようなものが犯罪行為につながるそぶりを見せないかと、狙って尾行していたと解釈するのは一つの陰謀論であるが、そう考えることはかなりつじつまが合う解釈のように感じる。この陰謀論は、権力のある側が行う陰謀であるから、差別と偏見から生まれた陰謀論ユダヤ陰謀論)のようなものではない。

それではなぜ植草さんが陰謀の犠牲になるような理由があるのだろうか。それは、マル激での植草さんの経済理論を聞けばよく理解出来るような気がする。実に鋭く小泉政権の経済政策の失敗を分析している。経済政策のブレーンである竹中大臣の間違いを、おそらく本質的に突いているのではないかと思う。

小泉政権が、景気回復したように見えるのは、一度どん底まで落ちたことによって、それ以上落ちようがないところにまで行ったことで回復したように見えているだけだという指摘は正しいように思う。通信簿で1をとって、それから勉強を始めるという作戦で、良くなったと思わせる戦略だという。

通信簿で1をとったのは、最初の政策が間違えていたせいだという。それは、金融政策において、将来のためにも金融業界の失敗を厳しく断罪するという基本方針は正しかったにもかかわらず、実際の責任のとらせ方で責任ある個人の責任を追及してシステムを守ると言うことに失敗したと指摘している。責任の追及の過程で、システムそのものが危険にさらされるようになった。

そのためあわてた小泉政権は、システムを守るために公的資金を投入したが、今度はそのために個人の責任の追及が鈍ってしまい、間違いを犯した人間の間違いが正しく認識されずにうやむやになってしまったというのだ。これが後に「モラル・ハザード」につながるという指摘もしていた。

失敗が深く検討されなかったので、将来的にも同じ失敗を繰り返す危険は残っている。この指摘は鋭いもので当たっているのではないかと思う。この金融危機の時に、アメリカからの援助でそれを乗り切ったという面もあったらしい。それで、金融政策の結果は、よく見るとそれによって利益を得たところはほとんど外資の企業になっているという指摘もあった。郵政民営化なども、構造改革といううたい文句よりも、実質的には外資の利益の方が大きな効果として残っただろうと指摘していた。

植草さんの理論は、小泉政権にとっては非常に痛いところを突いているのではないかと思う。出来るだけ黙らせておきたい存在なのではないかと思う。陰謀論に傾きたい気持ちを強く感じる。

植草さんの論理の展開は、実に明晰で一点の曇りもないくらいにクリアーな説明をしているように感じた。その植草さんが、前回の事件を否定していたので、僕はそちらを信じたい気持ちの方が大きい。だが、裁判では植草さんの側の主張というのは全く認められなかったらしい。ある意味では、裁判の中での非論理性に絶望して植草さんは控訴を断念したと言うことだ。罪を認めたので控訴をしなかったのではなく、それ以上裁判で争っても無駄だと思って控訴を断念したと言うことだ。

このように一度、権力の側の理不尽を思い知った植草さんが、同じような手口でまた逮捕されるというようなことを、本当にやるというような甘さを持っているとは考えにくい。それは信じられない。僕は事実を確認するだけの情報を持っていないので、「信じられない」としか言えないが、それはつじつまが合わないとしか思えないのだ。

あのように頭脳明晰な人間が、酒で酔っぱらって覚えていないなどと言う、初歩的なミスをするのだろうか。マスコミの報道では、そのようなことを植草さんが語ったと言うことになっているが、これも僕は「信じられない」。本当かどうか確かめるすべはないが、やはりつじつまが合わないと感じる。

かつて本多勝一さんは、逮捕される側の言い分も報道すべきだと主張していたが、それがない限り謀略によって陥れられた人間の側の情報はわからない。植草さんが謀略によって逮捕されたのなら、これはファシズムの現れとしてはまことに顕著な出来事ということになるだろう。

植草さんは本当に犯罪を犯したのかも知れない。それは僕にもわからない。だが、犯罪を犯していないと言う可能性もかなり高い確率で存在しているように感じる。その時点で、植草さんを犯罪者のように世論が扱うのは大変危険ではないかと思う。権力の側が犯罪者にしたいと思ったら、マスコミを使って煽動すればいいと言うことになってしまう。

植草さんの側の言い分が出てきてから、この事件については、整合性のある解釈を求めるべきではないかと思う。とにかく、今提出されている情報だけでは、僕はつじつまが合わないと言う違和感を感じている。