国会議員と大臣の違い


竹中大臣が、小泉政権の終わりとともに、参議院議員も辞職をしたいということを表明したのは15日のことだった。「<竹中総務相>議員辞職表明…「安倍政権」居場所なく」という報道によれば

「「小泉路線」の象徴的存在だった竹中平蔵総務相が15日、政権交代ともに参院議員を辞職する考えを表明した。後継が確実視される安倍晋三官房長官格差是正など小泉改革の修正を志向する中、新政権下で活用される居場所はないとみられ、自ら見切りをつけたのが実情だった。小泉改革と同様に実績の評価は激しく分かれる。民間閣僚として起用され、選挙で72万票を集めバッジをつけた同氏の転身を疑問視する見方も与党内に出ている。
 「政治の世界での役割はあくまで小泉首相を支えることだった。小泉内閣の終焉(えん)をもって、政治の世界における私の役割は終わる」
 竹中氏は15日、閣議後の記者会見で辞職の理由をこう語った。首相官邸小泉純一郎首相を訪ね、当初はその日のうちに議員を辞職する考えを伝えた。首相は「ご苦労さん」と了承したが、時期については「(26日の)首相指名選挙が終わってからの方がいい」と助言、竹中氏も受け入れた。」


とされている。これに対して、河野太郎さんがかなり強い口調で「ふざけるんじゃねえ」という批判を提出した。僕も、大臣の仕事が終わるからそのついでに国会議員も辞めるというように見えることに違和感を感じていたので、河野さんの批判に共感し、直感的にそれに賛成する気持ちが生まれてきた。

しかし、僕と反対に、竹中さんに賛同する直感を持つ人もかなり多いことが分かった。竹中さんの「政治の世界での役割はあくまで小泉首相を支えることだった。小泉内閣の終焉(えん)をもって、政治の世界における私の役割は終わる」という言葉に共感して賛同する人が多かった。僕は、この言葉にも違和感を感じる。直感的にこれを理解することが出来ない。論理的に理解しようとして努力してみたが、論理的にも理解出来なかった。

竹中さんが、議員のイスに未練を持っていないことを、潔さとして高く評価する人もいた。本人がやめたいといっているし、客観的にいってももう役割は残っていないのだから、プラグマティックな観点からいっても、やめさせてもいいじゃないかという感情論もある。そのどれにも僕は違和感を感じる。

議員のイスが、竹中さんにとって軽いものであると感じていたとしても、大臣を辞めるついでにやめてもいいものと、竹中さん以外の人もそう思っていいのだろうか。参議院議員であるということは、その程度のことだと一般的に思ってもいいのだろうか。一般的にそう思えなくても、竹中さんの場合はそう思ってもいいのだろうか。

この違和感に解答を出したいので、国会議員と大臣の違いというものを論理的に考えてみたいと思う。ついでにやめるということに、どうしてこれほどの違和感を感じるのか、その直感の源泉はどこにあるかを突き止めてみたい。

僕は政治学が専門ではないので、社会科で習う程度の知識で考えるのだが、まずは国会というのは法律を制定する場であり、国会議員の仕事は一般的には法律を作ることだと理解する。この法律を作るという行為は、我々の生活にどのように関わってくるだろうか。

法律というのは、我々の生活を直接的に規定してくるものになる。あることを禁止することもあるだろうし、一定の手続きを経れば認められる行為というのも法律で規定されるだろう。法律の本質は、一般の国民の生活を縛るというところにある。そうすると、これはある人にとっては利益となることもあるだろうし、不利益となることもあるだろう。

全ての人が賛成するとは限らない決定が法律の設定の際にはあるだろう。「障害者自立支援法」などという法律があったが、これをその名称どおりに、障害者の自立を支援してくれるものだと素朴に理解している人は賛成してしまうかも知れない。しかし、当の障害者はこれにほとんど反対していた。それは障害者の不利益にしかならないからだ。障害者にとってはこの法律は「障害者切り捨て法」だと考えられていた。

しかしこの法律が通ると利益となる人々もいる。それは、今障害者のために支出している税金を減らすことが出来るからだ。歳出を抑えて財政再建のために役立てることが出来る。このように、一つの法律が出来るということは、利害を調整して、全体的な観点からは、どの利害が優先されるかを決定することでもある。

これは、なかなか判断が難しい決定になる。何が正しいかがはっきりしている問題は、正しい判断を選べばいいが、それが難しいときは民主的な決定手続きをとる。つまり多数決をとって、多数が賛成した方を選ぶことになる。それが、選挙によって国会議員を選ぶという手順になるわけだ。

法律というのは、我々のこれからの生活に直結しているものであり、その成立の判断が難しいものである。利害の調整を妥当に判断することが難しい。だから、多数が正しいと思った方向を選んでその正否を考えるという方向を取る。国会議員が選挙で選ばれることの妥当性があるというわけだ。

では、選挙で選ばれた国会議員は、多数派の意見を代弁していればそれで議員としての仕事を果たしたことになるだろうか。それは、最低限の仕事をしているというだけであって、それでは国会議員として優れた仕事をしているとは言えないのではないかと思う。

例えば、「障害者切り捨て法」と言われた「障害者自立支援法」は、それに賛成する人が多い場合は、国会議員はそれに賛成票を投じていれば仕事を果たしたことになるかを考えたい。確かに障害者は、全国民の中の比率で言えば少数派になってしまうだろう。しかし、現在障害者でない人も、将来は障害者になる可能性は誰にでもあるのではないだろうか。

事故に遭う可能性もあるだろうし、年をとれば確実に体の部分は衰えて障害を持つようになっていく。今は少数派の障害者であっても、誰もが障害者になる可能性があるときは、誰もが障害者の立場に立って考えることが正しいと言えるのではないだろうか。

優れた国会議員であれば、自分を選出してくれた人々が、何かを見落として間違った判断をしていると思ったら、その間違いを正して、正しいと判断されるような意見を多数派にするように努力するのではないだろうか。単に現在の多数派の意を受けて仕事をするだけではなく、国全体・国民全体の視点から問題を捉え直すことが出来る人が優れた国会議員ではないだろうか。

自分を選出してくれた人々の民意を反映しつつ、もっと広い視野を持って問題を捉え直す人が優れた国会議員だろう。「障害者自立支援法」について言えば、切り捨てでない本当の支援になるように考え直し、なおかつ現在無駄に使われている福祉予算の無駄を切り捨てることの出来る国会議員が優れた議員と言うことになるだろう。

これに対して首相から任命される大臣は、本質的にどのような仕事を担うのだろうか。それは、法律に基づいた政治の執行を通じて我々の生活に影響を及ぼすという仕事になるだろう。それは、法律に基づくわけだから、何をしていいかはかなり決められている。問題は、何を優先的にやるかとか、どんな手順でやるかという面で間違いのないように進めるということになるだろう。

内閣主導で法律を制定することもあるだろうが、法律の制定は国会で決められるので、内閣(大臣)の仕事は、本質的には法律制定後にあると言えるのではないかと思う。内閣が都合のよいように法律を制定しようとしても、それは国会で審議されるのであるから恣意的には出来ない。だから、大臣はその全てが選挙で選ばれた国会議員でなくても務まるとしているのだろう。

大臣にとって大事な資質は、与えられた条件の中で、いかに効率よく仕事をこなすかという専門性にあるのではないだろうか。専門知識を基にした判断で間違いをしないと言うことがもっとも求められることになるのではないだろうか。だからこそ学者である竹中さんに小泉さんは期待したのだと思う。竹中さんの学問が、現実にも成果を上げてくれるだろうと期待したのだろう。

このように違う国会議員と大臣の仕事を考えると、竹中さんが大臣でなくなるときに、それに伴って国会議員も辞めると言うことには、やはり必然性を感じない。竹中さんが大臣でなくなるとき、それと同時に国会議員でいることの意義もなくなるという判断は何を根拠にして求められるのだろうか。

大臣でいる間に国会議員の肩書きだけが必要だったというのだろうか。仕事の内容の上でそれが必要だったとは思われない。内容で必要がないのだから、それ以外の理由で必要だったというのだろうか。それは本来は必要ではなかったのだが、ついでに持っていた方が良かったので、ついでにやめるのは必然性があるということになるのだろうか。もしそうであれば、国会議員としてのモラルを疑われても仕方がない。

それは圧力をかけていじめた自民党の国会議員に責任があるのだという意見もあるだろう。しかし本来は必要ないのに、肩書きを持つためだけに立候補したのであれば、その判断はパブリックマインドのないものとして批判されるべきだろう。竹中さんが、大臣を辞めるついでに国会議員も辞めると言うことしか理由が語れないのなら、それはやはりパブリックマインドの欠如だと言われても仕方がないだろう。

やる気のない人間をとどめておいても仕方がないというプラグマティックな意見も正しいとは思うが、その場合は、辞職ではなく罷免をするというくらいの意識が必要だろう。ついでにやめるという意識は、批判されるべきであり、労をねぎらったり同情したりするものではないと思う。これが僕の違和感だったのではないかと思う。もし僕が、竹中さんの当選のために奔走した応援者だったら、「ふざけるんじゃねえ」と感情的に反発する気持ちがもっとよく理解出来ただろうと思う。

竹中さんは、ついでにやめるというようなことを言うべきではなかったと思う。たとえ本心ではそう思っていても、議員としての資質もパブリックマインドもないので、議員としてとどまっている資格がないから辞職すると言った方が良かっただろう。そうであれば論理的な違和感は感じなかった。あるいは嘘でもいいから健康上の理由でやめたいと語った方が良かった。ついでにやめると言うことは、論理的な正当化はどうしても出来ないのだと思う。